コトノハ・ストライプ

夏野けい/笹原千波

ノートのなか

 まばたきに似たスピードで雨粒が窓に短い線を描く。教科書を鞄に入れながら折り畳み傘を確かめた。

ひどくならないといいな。軽さが取り柄の傘は大雨に向かない。ホームルームも終わって教室いっぱいに詰めこまれていた女の子たちは次々に出ていく。わたしもすぐに立ち去ればいいのに、天気のせいか今ひとつ身体に力が入らない。


 半袖のブラウスは地厚で、二の腕の薄い皮膚にはとげとげしい。だから、教卓のまわりにたむろして嬌声を上げる派手なクラスメイトに余計苛立つ。

腕まくりした長袖ブラウスに透けるキャミソール。少し明るい髪の色。学校指定でないソックス。ぜんぶ校則違反だ。薄くて透けやすい長袖ブラウスは上にブレザーかベストを着なくてはいけない。袖を折るのも禁止。髪を染めるなんて言わずもがな。白ソックスは校章の刺繍入りの変な長さのやつを履かなくちゃならない。

 校則なんて馬鹿らしい。守らなくたって先生の小言をやりすごすくらいで済む。成績はもちろんのこと、内申ですら下がったなんて聞いたこともない。必要なのは屈託なさそうに笑うこと。先生もしょうがないなぁって思ってくれるだろう表情と態度。わたしにはそれがない。大人が決めた規則なんてくだらないって吐き捨てられるだけの強さがない。つまるところ真面目さなんて処世術で、弱い自分を大人たちに守ってもらうための手段にすぎないのだった。

 ため息を呑み込んで鞄を取る。このまま電車に揺られる元気なんてない。降りはじめてしまった雨のことはいったん忘れて、図書室へ向かった。廊下はにぎやかで、音の川の中を泳いでいるみたいだ。女子校の生徒には可愛げなんてないと思うし、声だって必要以上に高くない。それでいて肉体はまぎれもなく少女で、こだまするお喋りは新宿駅なんかに比べたらずっときれいに澄んで聞こえる。


 図書室はいつものごとく驚きのひと気のなさを誇っていた。クーラーはどこの教室よりも効いているのに。司書の先生がカウンターの向こうで親しげにほほえみを作る。真似して口角を上げてみるものの、ぎこちないのはわかっている。

 新刊は昨日チェックしたばっかりだし、返却する本もない。棚のあいだをゆっくりと奥へ進む。ここは深海。きらびやかな子たちには感じ取れない豊かな養分のあるところ。書籍の背を眺めて歩けば、それだけで頭の中を物語がめぐる。古い紙の香りと、図書室独特のくすんだ匂い。わたしのような、同じ年頃の人間とうまく溶け込めない子はきっと過去にも未来にもいて、活字を通じてここに交わる。

 一番奥の隅っこ、誰も手にしないような分厚い辞典に紛れて文庫本よりも小さいノートが挟まっている。表紙はボール紙だし飾り気などない。本のあいだでひっそり息をしているこれを見つけた時は、泡立つ気持ちで胸が詰まった。だってこんな物語みたいな出会いがあるなんて、思ってもみなかった。

 ノートは縦書きだった。開くと、藍色と水色の文字が交互に一列ずつ並ぶ。最初のページの一行目には、お手本みたいに整った藍色の文字で「しりとり」とだけ書いてある。隣にわたしの拙い水色の文字で「リトアニア」と。一文字長い言葉を選んだのは本当に偶然だった。今思えばなんだか格好つけたような感じで恥ずかしいチョイス。続くのは「アスタリスク」で、どうにも字面が似ている。

 雨がしだいに強くなるように、言葉はどんどん長くなる。いつしか一行をきっちり埋めるようになった文字は、当然のように一語では飽き足らず文章と化していた。わたしたちの通り過ぎたあとに生まれるブルーのストライプ。

 ただ四音の言葉に端を発したしりとりは、あるときから交換ノートとして機能しはじめた。彼女の扱う文章は詩的で甘やかで、誰も知らない交流というスパイスも相まってわたしを酔わせた。端正な、きりりとした筆跡の末端に溜まるインクにまで愛着を感じるくらいに。同時に自分の不安定なペンの動きや、アンバランスな漢字と仮名にコンプレックスを深めた。気おくれの中でもやめてしまいたいと思ったことはない。

「放課後の音楽室からもれ聞こえるG線上のアリア」

 しりとりという形態をとる以上、体言止めが増えるのは当然のことだ。でなければ文末の音はひどく単調になってしまうだろう。それではうつくしくない。

 あ、あ、と頭の中で声を出しながら彼女の言葉に続く文章を考える。あまりこねくり回すよりはするりと出てくるものの方が後から見返して恥ずかしくないことが多い。

「あさっての方ばかり見て目が合わせられない恋人」


 ちょっとてらいすぎたかな。不安を持ちながらも一度書いてしまった文字は消せないのがボールペンだ。閉じたノートを元あった場所にそっと差す。

 背表紙で気になった本を手に取ってしまえば、時間は淡雪よりもはやく溶ける。次に顔を上げたのは閉室を知らせる司書の先生の声を聞いたときだった。そういえばこれだけ入り浸っているのに、相手には出会ったことがない。あの奥まった本棚の前にしゃがみこむ人も、ノートをひらいている人も見たことがない。いったいどうやって彼女はしりとりの続きを書き、本の間に戻し、わたしの返事を待つのだろう。

 ひょっとして未来や過去とつながっていたりして。考えてはみたものの、ファンタジックな思いつきよりは、現実に会える可能性に興味があった。


* * *


 次の日から犯人探しならぬしりとり相手探しが始まった。あまり詮索しない方がいい自覚はあったけれど好奇心に負けてしまった。

 まずは暇さえあれば図書室に通うことにした。昼は急いで食べる。十五分の休み時間も、放課後も一番に教室を出る。返却されたばかりの本をチェックしながら、前に読んだ本を見返しながら、ずっと意識はあのノートに向かっていた。

「トーテムポールの長男は青、次男は黄、三男は赤」

 言葉の往復は頻繁だった。わたしが書いた翌日にはほとんど戻る。遅くとも三日後には彼女の文字が追加されていた。

「香る指たしかめつつ黙々と剥き続けているぶどう」

「裏庭には散らかしたばかりのサルビアの花の残骸」

「いたちごっこ終わらず追って追われることが意味」


 相手は現れなかった。そもそも図書室に他の生徒がいないときも多かった。昼休みや放課後ならともかく、短い休憩にわざわざ本を見に来る者は皆無と言っていい。レポート課題のために急ぎ足で資料を借りていくのが稀にあるくらいで。

「見つけられない宝物は想像の中だからこそきれい」

 わたしが探していることを悟ってか、彼女は逃げるような言葉を返してくる。わたしはムキになりはじめていて、しりとりの中でさえ彼女の実体を求めはじめた。

「いかに美しい姫君でも手を取れないなら霞と同じ」

「自分の内を知る人は外なんて知らないまま永遠に」

「似ているかもしれない誰かが近くに。なんて救い」

「いいよ勝手に救われていて踏み込むなら糸を断つ」

 けんか腰になっていく応酬はいつもと同じはずのインクの色もくすませて見せた。彼女を傷つけるために知りたかったのではないのに。それほどまで詮索されたくないとは思いもよらなかった。もう顔を知りたいなんて思わない。決めてノートに極力やわらかい言葉を綴る。

「つまらない後悔を遠くに伝えるすべを知りたいよ」

「良い悪い、言葉はすべてを包むからきっと大丈夫」

「無事に終わったならまた船を出したいくらいの旅」

「びっくりするほど響くから連なりゆく言葉は音楽」

「暗闇には光を荒地には花をいつだってくれるもの」

 わたしが立てた波風はおさまり、ゆるやかなやりとりが戻る。お互い、いつでも切ることのできる関係なのだ。感情的になるのは怖かった。いくら気になるひとの人間性に近づけるからといって、何度も探りを入れるつもりはなかった。図書室通いもいつものペースになっている。ふたつのブルーが文字として連なる。ノートをどんどん埋めていく。頭の中で言葉をこねくり回す時間が増えてしまって、ぼんやりすることが多くなった。気づかぬうちに消されそうになる板書を慌てて追いかけるなんて、真面目が取り柄のわたしという自覚が危うくなる。


 体育の授業は苦手な球技で、ただでさえ嫌いな運動がもっと億劫。よりによってバスケなんて。チームプレイなんて無理。作戦会議なんて最悪。まっとうに喋れなくちゃ普通の大人にはなれないってことくらい、わかっているけど。

 だらだら着替えて最後に体育館へ向かう。変に忙しなく雲が動くどんよりとした空が、憂鬱を演出してくる。出席番号順のグループメンバーを思い浮かべた。誰なら話しやすいだろうか。湯本ゆもとさんはあまり派閥っぽくない感じ。大勢と話すのは上手くできない。いつも窓口になってくれそうな子を選んで、意見を言わなくてはならないときはその子のほうを向く。ほかの時間は気配を消す。意外とみんな気にしていないもので、非難されることは無かった。

 もともと体育会系が力を持つような校風ではない。だからなんとか生きていけている。準備体操もみんな適当だし。

 それにしてもバスケットボールってなんでこんなに硬くて重いんだろう。ぬいぐるみみたいだったら少しは怖くないのに。ボールを追いかけるのはあくまで「ふり」のつもり。とりあえず走っておけば誰も文句は言うまい。突然、さあっと辺りが明るくなる。太陽が雲の切れ目にかかったのだ。文章映えしそうな変化に気を取られる。ボールから視線が外れた。


「あぶないっ」

 振り向いたのは良かったのか。思い切り顔面にボールを食らってうずくまる。

「ちょっと大丈夫? ごめんねちゃんと合図できてなかった」

 真っ先に駆け寄ってきたのは味方であるところの若宮わかみやゆめのだった。シュシュで一つにくくった髪は地毛を称しているけれど、わたしにもわかるくらいに染めている。よく教卓まわりで騒いでいるうちの一人だ。追って先生もわたしの顔をうかがう。赴任したての若い先生。心配そうな表情は生徒と大差ないような。

「額のところが赤くなってる。冷やしたほうがいいね。気分が悪かったりはしない?」

「えぇと、大丈夫です」

「せんせー、わたし保健室についてってもいいですか?」

「いや、保健委員さんに」

「だってわたしがいちばん状況見てたもん。送ったらすぐ戻ってきますから。ね?」

「わかりました。行ってきなさい」

「はぁい。せんせーありがと!」

 若宮さんはぱっと手を差しだした。

「行こ。立てる?」

「……うん」

 かくしてわたしたちは連れだって保健室へ向かう。普段にぎやかなはずの若宮さんは二人きりになると口をきかなかった。足音だけがやけに響いて、ぶつけた額がじんじんする。自分からなにか言う勇気もなかった。校舎に入って、廊下の角を曲がるときにやっと声を聞いた。

「ほんとにごめんなさい。わざとじゃなかったんだけど」

「さすがにわざとだとは思ってないです。こっちこそ付きあわせてすみません」

「ぜんぜん! ちょっと抜けられてラッキーって思っちゃたし」

「若宮さんは体育だったら好きなのかと。得意そうだし」

「嫌いじゃないんだけどね。サボりたい欲求は別っていうか」

 秘密めかした感じの笑顔が上手い。こういう表情の動かし方をするから周囲に人が絶えないのだろうな。

「そうだ、山西やまにしさんていっつも本読んでるよね。どんなの?」

「わりとなんでも。小説が多いかな。現実逃避できるし」

「ふぅん」

 ことさら興味を持った様子でもなく、かわりにドアを開けてくれる。消毒薬の匂いが流れ出た。どうにも苦手だ。保健室を逃げ場所にする子は多いと聞くけれど、想像するだけでくしゃみが出そう。とはいえその子たちにしてみれば図書室の方がくしゃみの出る空間なのかもしれない。

 若宮さんは馴れ馴れしく養護教諭に挨拶したのち、わたしを手で示した。

「ボールぶつけちゃって」

「あらら、見せてちょうだい」

 合皮のソファはひんやりとしている。氷嚢を渡されて体育が終わるまで休むように言われる。体育着のまま涼しい部屋にいる居心地の悪さはありつつも、どこかほっとしてしまう。

「あなたは早く帰りなさいね」

 ソファの脇に置いてある本をぱらぱらとめくっていた若宮さんが大げさに肩をすくめる。

「はぁい。じゃっお大事にね!」

 日向が似合うタイプの子だ。こんなことでもなければ縁のない感じの。わたしは大人しく額を冷やしながらチャイムが鳴るのを待った。


 普段起こらないことが起きたものだから。返却期限のことを忘れて帰ってしまった。いつもなら一日に一度は図書室に行くし、返しそびれることなんてなかったのに。仕方なく朝のホームルーム前に返しに行くことにする。ペナルティは付くかもしれないが一時間でも早い方がいいだろう。

 何時から開いているかもよくわからないまま、三本早い電車で学校についた。入り口のすりガラスはもう明るかった。司書の先生は瞼の動きだけで驚いてみせる。会釈を返した。

「すみません、期限が切れてしまっていて」

「それで急いで来てくれたの。そんなにすぐ貸出停止なんてしないから安心して」

「あ、よかったです」

 なんでわたしは気の利いた返答ができないのだろう。口じゃなくて文章だったらもう少しどうにかなるのだろうか。ついでにノートを見に行く。昨日はチェックできていないのだし。書き込む時間はないだろうが、授業中にちょっと考えてもいい。

「セイレーンに誘われたくて誰も連れずにした船出」

 終わりの文字は、で。個人的なこだわりで濁点をつけたり外したりはしないことにしている。できるかぎりきれいにつなげていたい。相手も感覚は同じようで、わたしがしりとりのつながりかたに首をかしげたことはない。頭に始まりの音を刻んでノートはもとに戻しておいた。

 図書室を出ても廊下に生徒の影はない。昇降口から教室に至る動線のなかにここは入っていない。だから、角を曲がった瞬間にちらと視界をかすめた人物が気にかかった。反射で振り返る。後姿。長い手足、明るい髪の色。彼女が図書室の前にさしかかる。角に身を隠した。

 もしかしてわたしがずっと会いたい人なんだろうか。いち、に、さん。何秒数えればもう一度あちらを伺ってもいいのか。そろりと頭だけを出す。彼女はもういなかった。今の時間で入れる部屋は図書室だけだ。ほかにも扉はあるが施錠されている。そしてあの背中には見覚えがある。若宮さん。人と視線を合わせるのが苦手ゆえ後姿だけで覚えてしまう癖が、役に立つ日が来るとは。今まで出会っていないことはこれで納得がいく。朝のわずかな時間だけ図書室に立ち寄るのだ。

 同時に胸がぎゅっと縮んだ。ホームルームが始まるまではあと十分ほどだ。この間でわたしの返答を読み、続きを書いているとしたら。わたしよりもずっと速く、ずっとセンスのいい言葉を紡いでいる彼女。美しい字を書く彼女。よもやあんなキラキラしい子だとは。何もかも負けた気分だった。若宮さんは全部持っているというわけだ。友達も、輝かしい青春も、よく動く身体も、わたしがいちばん大事にしていた文章さえも。

 もっと、わたしに似た子だと思っていた。同じように教室では息苦しくて、逃げるように言葉を追う子だと。共通する翳りを持つ子だと。

 期待が外れたような気分だった。自分勝手なのはわかっている。でも、どうしても受け入れられなかった。ノートに触れられなくなった。また本棚の片隅で埃をかぶるばかりになってしまうノートを思うと悲しくもあって、でもわたしには混乱をおさめるすべがなかった。


 教室ではそれとなく若宮さんを目で追うようになった。当然のように視線がかち合うこともある。ちょっと笑いかけてくれるようなのも不本意だ。余裕の差を見せつけられているようで。

「ゆめのー、どこ見てんの?」

「んー? なんにも? ぼうっとしてた」

 鮮やかな笑い声がこぼれる。南国の鳥みたいだ。住む世界が違う。ふんわりと下ろした髪を、若宮さんはちょっとかきあげた。耳もとに青く光るものがある。大きめの、揺れるタイプのピアスだ。わたしには全く関係のないもの。そもそもピアスホールを開けるの自体校則違反じゃないか。でも配色にはあまりに覚えがあった。ノート。しりとり。若宮さんでなければ偶然と思ったのに。水色と藍色のストライプなんてありふれている。それが艶やかな滴型の飾りに取りこまれて輝く。あぁ、また嫉妬してしまいそう。あんまり似合うから。

「ゆめの、ピアス新しくしたの? でもちょっと目立ちすぎじゃない。先生に怒られるよ」

「へーきへーき。今日はずっとこうしてるから」

 おどけて髪を押さえてみせる。

「そのほうがあやしいってー」

「だって姉ちゃんに作ってもらって嬉しかったんだもん。つけてきたかったんだもん」

「はいはい。もう見たから外しておいで」

「マキがいじめるー」

「あんたのためよ。ほらこっちおいで、よしよししてあげる」

 茶番だ。紛うかたなき茶番だ。なのに目が離せない。きっと若宮さんもあの色あいに愛着があったのだ。それが止まってしまっているあいだ、お姉さんに頼んでアクセサリーにしたくなるくらいには。


 教室でそれを見せつけている意味について考える。彼女のほうではとっくに気づいていたのかもしれない。わたしが図書室通いをしていることははた目にも明らかだ。教室で開いている本が図書室のものなのは見ればわかる。タイトルを確かめれば文章の好みだってわかるかもしれない。何より、わたしに彼女ほどの意外性はないのだ。

 しりとりの中で詮索するなと警告してきたのも、わたしが頻繁に教室を出るようになったからか。朝、隠れるように図書室を訪れることといい、若宮さんには本を読むことを大っぴらにできない事情があるのだろうか。前に話したときだって自分は興味がないようなそぶりだった。

 他人の事情は見えないから、自分の痛みは強いように思う。そういう独りよがりは嫌いだったはずだ。もののわかったような顔をしながら、いちばん偏見に満ちていたのはわたしじゃないか。かしましく明るく、王道を歩いているような女の子たちを苦く眺めていたのは自分のコンプレックスでしかない。悩んだり泣いたりするはずの生身の人間だという実感をどこかに置いて、遠くて眩しいだけのものだと思うようになっていた。

 恥ずかしいのはわたしだ。ノートのことを強く思う。彼女の最後の言葉なら、ちゃんと心に刻まれている。


* * *


 図書室は放課後がいちばん好きだ。授業からも休み時間からも解放されて、好きなだけ本と戯れられる。

 まっすぐにノートのある書架へ。そっと胸に抱けば、紙と埃の匂いを吸った薄い冊子は懐かしい手触りをしていた。開く。あの時のまま言葉は継がれることなく止まっている。

 ペンを取って続きを書きつける。で、から始まるわたしの気持ち。

「出会いを許されないなら私はたぶん壊れてしまう」

 願いを込めて閉じる。終わってしまうのかもしれない。今度は顔を見て本の話で盛り上がれたら、最高なんだけど。虫のいい話だろうな。だけどじっとしていることはできなかった。


 翌朝は開室時間に合わせて学校に到着した。今回はきちんと調べておいた。若宮さんも生徒手帳を見たのだろうか。細かい文字でくだらない校則を記してあるあの手帳を。

 予鈴まで二十五分。若宮さんは本当に来るのか。入り口からノートのある書架までのルートからは常に死角になる位置で息をひそめる。

 たった数分に気が遠くなりそうになって、ようやく扉を開ける音が聞こえた。司書の先生の穏やかな挨拶と、若宮さんの張りのある声。やがて足音が近づいてくる。まっすぐにこちらに。くだんの棚の前にしゃがみこむのがわかる。

「若宮、さん」

 必死の思いで名前を呼ぶ。彼女はまさにノートへ手を伸ばそうとしていた。こちらを向いて、ほほえみとともに口を開く。この余裕の違いよ。

「おはよう、山西さん。なんだか、やっと会えたなって」

 待っていたのはわたしでなく彼女なんじゃないか。おとぎ話の王子のようなセリフだ。しゃがんで見上げてくるだけなのに、なんでか絵になる。答えられないわたしのかわりに彼女が言葉を重ねる。

「ノートみつけてくれてありがとう」

「こちらこそ楽しかった、です」

「もっと違う感じの子だと思ってたでしょ」

「うん。若宮さんて友達も多いし、あまり本とか興味ないのかと思ってました」

「ですますやめようよ。同級生なんだし」

「そう、だね」

「顔が見えない交換ノートなんて物語みたいで憧れてたんだ」

「でも、すぐわたしだってわかっちゃったでしょ」

「意外とね。こんどは見つかっちゃわないように頑張ったり」

「そんなに知られたくなかった?」

「山西さんはわたしたちみたいなのはうるさくて嫌なんじゃないいかって思ってた」

「ごめん」

「なんで謝るの」

「わたしには関係のない人たちだって思ってた」

「面と向かって言う、それを?」

「ごめんなさい。うらやましくて、つい」

「いいけどさ」

 ふふ、と笑いを含ませながら彼女は簡単にわたしを許す。

「わたしにだって悩みくらいあるよ。で、わたしも山西さんがうらやましかったりする」

「え」

「だって堂々と本読んでるでしょ。わたしみたいに朝にこっそり、じゃなくて」

「友達、いないんだもん」

「そこは表裏一体かもね。まわりだと親とか友達とかさ、みんな読まないし。読んでたら変な目で見られるっていうか」

「そんなことあるの? むしろ褒められることだと思ってた」

「何考えてるかわかんない、不気味、だってさ」

「うそ」

「ほんと。だから山西さんがうらやましい。本読んでると褒められて、いくらでも買ってもらえるんでしょって思う」

「いくらでもってことは……」

「怒った?」

「怒んないよ。そんな簡単に」

「あはは、よかった。わたしも簡単には怒んないからすぐ謝ったりしないでいいよ。正直に言いあえなきゃつまんないもん。ね、これからもしりとり続けてくれる? 相手、わかっちゃったけど」

「うん。実は昨日、続き書いたよ。あっでも、目の前では見ないでほしい、な」

「見ない見ない。後でゆっくりね。でさ、たまに朝ここで話せたらいいなって。本の話できる相手がいないから」

「わたしで良ければいくらでも! わたしだって話し相手、欲しいよ。本のこと話せるんならなおさら」

 予鈴が鳴った。もうそんなに経ったのか。読書に没頭しているときくらい早い。

「教室行かなきゃ」

 若宮さんがいつかのように手を差しだしてくる。握るかわりに一瞬そっと指を触れてて、小走りに図書室を出る。彼女はわたしをあっという間に追い越す。

 教室へ行くのはもう嫌じゃない。物語のなかの人物に思いをはせるみたいに、クラスのみんなを知りたいと思う。いつの間にか短距離走の動きになっている若宮さんを先生の怒声が止めようとする。わたしではとても追いつけそうにないし、先生もきっと止められないだろう。

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