この小説の白眉は『ぼく』が短歌を詠む場面だと思いました。『ぼく』の心情を慮るとなんとも切ない気持ちになります。
『ぼく』は『あのひと』の正体が薄々分かっているから、未来でどのような結末が待っているのか、おそらく切ない関係となってしまうだろうことを察しているし、また『あのひと』も当然自分の正体を知っている(明言はされていませんが)わけで、しかも『ぼく』の想いをなんとなくわかっているっぽい、けれど答えられない。でも二人が一緒にいられる時間は限られている。
そんなもどかしさとか切なさとか甘美さが一緒くたになって収まっているのがこの場面です。
この小説は要所要所で切なさを何度も積み重ねているため、どんどん『ぼく』に感情移入させられていき、やがてラストで、自然界のタイムリミットがやってきたとき、「ああ来てしまった」と寂しくなるけれど、季節は巡るため、少しだけ希望がある。寂しさと暖かさが同居したような読後感になります。
当然そう思わせてくれるのはシチュエーションの力だけではなく、切なさを感じさせる冬という季節を言葉巧みに彩る文章力があってこそだと思います。
冬の季節に読むことでよりいっそうこの小説を楽しめると思います。おすすめです!
美しい。実に美しい。
『百舌鳥たちて 茅の繁みに わすれぶみ』
(発句。脇句はぜひ、本作『彼女は春を俟っている』の中でお楽しみください)
この和歌の作者は一体誰でしょう?
小野小町でも紀貫之でも北原白秋でもありません。
寂れた無人駅でいつも一人電車を待ち、その電車に一人乗り込む男子高校生、僕。僕が作者です。僕の名前は……。
僕はいつしかあの人に。僕はいつしかあの人を。
根雪を踏みしめなら歩く僕の姿、冒頭のそれと『あの人』と出会った以降のそれと、全く違って想像されます。ふんわりほっこり、温かい気持ちに包まれます、『読者が』です。
これぞ純文学。
日本語、韻。その美しき余韻に浸り味わうことのできる言語を我々は扱うことができている。これこそが幸せ。
そこに気づかせてくださる優しく柔らかく高貴に溢れた文章を楽しむことができました。
素敵な作品との出会いに感謝、感謝です。
至極のひとときを味わわせていただきました。
白絹の振袖をまとったひとは「春」を俟っていました。
駅のホームで「僕」と「美しいひと」が会話します。
その会話の内容も、人物と風景を描写される文章も、端麗な折箱に行儀良く並べられた上等な和菓子のように煌めいています。美し過ぎて食べてしまうのが勿体無いと感じられる工芸品の風情。一字一句を味わいたくなります。
劇中で「僕」が詠む短歌の解釈が、麗らかな天に届いて巡ります。
「春」を俟っていたひとのもとへ、
「春」が訪れたとき、
六花の如き結晶が舞い、美しいひとも舞う。
さいご、美しいひとの正体が分かったあと、「僕」の唇にのせられる思いに、おごそかに共感できるはず。この読後感を是非、多くの方に味わっていただきたく思います。