第7話

私は夜の暗闇の中で一人で沈思黙考した。

結菜さんにあのことを喋るのは間違いだったかな……。

あの後、結菜さんは私たちが寝る部屋まで案内してくれた。

私とは一度も目を合わさずに。

…… 手根管症候群になってもうピアノを弾きたくない理由、結菜さんだから分かったんだろうな。

実際は結菜さんに告げたことと現実は少し違っている。

何が違うのかと言えば。

私が弾きたくない、と思ったのではなく、親に止められたからピアノを弾かなくなったのだ。

中三の冬。

家にあるピアノに触れようとした瞬間、母親に泣きながら止められた。

「もう、弾けないのよ。結月はもうピアノは弾けないの……」

そこまで考えた途端、私は激しく咳き込んだ。

隣にいる恭はぐっすりと寝ている。

「もう、弾けない……」

少し掠れた声でそう口にしてみる。

普段生活する上では特に問題はないそうだ。

そう言えば、お父さんにも言われたっけ……。

「もう二度とピアノを弾くな」

胸が詰まる思いだった。

高一に上がる直前に長年使って薄汚れたピアノは捨てられた。

捨てられたピアノはなんだか悲しそうに見えたっけ。

でも、それで涙を流すことはなかった。

悲しかったけど、でもそれ以上に心の穴の方が大きくて。

ぽっかり空いた穴を何で埋めればいいか分からないまま、高一になった。

今でもそれに埋めるものは見つかっていない。

これからもきっと見つからない。

私は中三の時、「音楽」という命と同じような存在を捨ててしまったから。


小鳥のさえずりが遠くで聞こえた。

朝の太陽の光がカーテンを通して部屋中に差し込んでいた。

隣を見ると恭の姿は見えず、無造作に畳まれた布団だけが目に入った。

私はぼんやりしながら昨夜のことを思い出す。

もう長い間思い出さないようにしてたのにな……。

いつの間にか、辛い思い出を封じ込め、新しい思い出を探そうとしていた。

「ばかみたい」

私はそう吐き捨て、立ち上がり、布団を畳んだ。

私は結菜さんに貸してもらったパジャマを脱ぎ、服を着た。

悲しいけど苦しい思い出に浸っている場合じゃない。

今は私たちが本来生きていなければならない時代へ戻る方法を探さなきゃ。

私はドアを開け、リビングへ向かった。

「えぇぇぇぇぇぇ!?やっば!」

恭のうるさい怒鳴り声が聞こえる。

あ、この場合は怒鳴り声じゃなくて悲鳴か。

悲鳴もなんか違う気がするけど……。

私がリビングのドアを開けると恭と結菜さんがソファに座って談笑していた。

まあ、恭に談笑なんて言葉が似合うはずもなく、あぐらなんかかいて小さな子供みたいにはしゃいでいる。

「あら。結月ちゃん、おはよう。よく眠れた?」

結菜さんがソファから立ち上がりキッチンへと足を進める。

「あ、はい。よかったです……」

「ぎゃっはっはぁー!結月、なんだよ。その日本語!」

お腹を抱えて大笑いする恭に「うるさい」と言い拳骨をくらわしてやった。

恭は痛いのか別の意味でうるさかった。

「今日の朝ごはんはフレンチトースト!私たちは先食べちゃったの。ごめんね」

「あ、大丈夫です」

謝る結菜さんに首を横に振る。

香ばしいパンの香りが私の鼻をくすぐった。

「はい。どうぞ」

結菜さんはテーブルにきつね色に焼けたフレンチトーストを置く。

「結菜さん!もうちょっと聞かせてください!さっきの!」

「いいよ〜」

結菜さんは恭がいるソファへと戻り、何やら話していた。

私はフレンチトーストを口に運びながら結菜さんと恭との会話に耳を傾けていた。

「まあ、これが文明の力というのか……なんと言うのかって感じだよね。恭くんがいる時代には空を飛んでいなかったの?」

「もちろんだよ!車が空を飛ぶなんて!見てみたいです!」

車が空を飛ぶ……?

私はいつの間にか食べる手を休めていた。

「結月も見たいよな!車が空を飛んでいるところ!」

いつになくはしゃいでいる恭に私は曖昧に頷く。

「そうね〜じゃあ、結月ちゃんが朝ごはん食べ終わったらみんなで見に行こうか!」

結菜さんはソファから立ち上がり、私が食べ終わった皿を片付け始めた。

「あ、私やります」

私が結菜さんが持っている空の白い皿を取ろうとすると手をはたかれた。

「いいの!このくらい私がやります!」

結菜さんは流し台にそれを持っていき、自動洗浄機に皿をセットし、洗い始めた。

「未来でも自動洗浄機はあるんですね」

私がそう言うと結菜さんは大きく頷いた。

「そうよ。この洗浄機は賢くてね、洗ってくれるし、拭いてくれるのよ」

「すごいですね……」

「あら?結月ちゃん達の時代には洗浄機ないの?」

「ありますけど……。拭いてはくれません」

私がそう言うと結菜さんは感心したように頷いた。

「じゃ、出発しようか!車を見る旅に!」

「え、旅なんすか?」

つっこむ恭と私たちの笑い声が明るい室内に高く響いた。

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