第6話
お風呂から上がると恭がバスタオルを片手に浴室のドアの前で待っていた。
私は浴室の外の椅子で寝ている恭に髪から床に水滴が落ちるのも構わず、近寄りデコピンをしてやった。
「いっ!なんだ。結月か。びっくりするだろ」
恭が少し顔を顰めながらそう言う。
「ふふ。ごめんね。恭、お風呂上がったから入ってきていいよ」
私がそう言うと恭は眠そうに目を擦りながら浴室へ入っていった。
私はそれを見届けてからリビングのドアを開けた。
しかし、明かりがついているにも関わらずリビングには誰もいなかった。
不思議に思いながらもソファに腰掛け、髪をバスタオルで拭いていると二階から綺麗な音色が聞こえてきた。
「ピアノの音……?」
私が二階へと続く階段を昇るといくつものドアが並んでいた。
私は音色が聞こえてくるドアに近づき、ドアを半分開けるとそこには大きなグランドピアノが置かれていた。
そしてそれを弾いているのは結菜さん。
私は暫くの間その音色に聞き惚れていた。
夜の悲しみを纏った空気の中、水面に映る月影。
月光を浴びて光る小石が水の中へと落ちる。
なぜか私の頭の中にそのような光景が浮かび上がってきた。
我に返ると演奏は終わっていた。
私はそっとドアを開けて中へ入った。
「あら?結月ちゃん。どうしたの?お風呂はもう終わった?」
「あ、はい。気持ちよかったです。ありがとうございます」
私がぺこっと頭を下げると結菜さんはいいのよ、と言う風に笑った。
「あ、まさかさっきの、聞いてた?」
「はい。素敵な演奏でした。何という曲ですか?」
音楽が好きなこともあり、私がそう尋ねると結菜さんは楽譜のタイトルが書いてある部分を見せてくれた。
そこには「紅月」と書かれていた。
「こうげつ……?」
「そうよ。私の好きな作曲家が作った曲なの。夜の水面に浮かぶ紅い月が由来なんだって」
結菜さんはそっと微笑みながら楽譜を譜面台に戻す。
「紅い月なんてあるんですか?」
私がそう聞くと結菜さんは少し驚いたような口調で言った。
「そりゃ、あるわよ。一年に一回しか姿を見せない月なのよ。それを見ると切ない気分になっちゃう」
結菜さんが少し笑ってからピアノの蓋を閉じた。
「今年はもう紅月は見られたんですか?」
私がそう尋ねると結菜さんは残念そうに首を横に振った。
「ううん。残念だけど今年は少し遅いみたい。毎年五月の下旬には見られるんだけどね」
「そうなんですね……」
「もしかしたら結月ちゃん達も見られるかもよ!それまでに元の時代へ帰る方法が見つからなければ、の話だけど」
「できれば、見てみたいです」
「うん。とっても綺麗な月よ。あの日のことを思い出して悲しくなっちゃうくらい……」
結菜さんは遠くの方を見やった。
「え……?」
「え、あ、なんでもない!なんでもない!今のなし!」
結菜さんはまた慌てて手を顔の前で思いっきり振った。
「結月ちゃんはピアノ好きなの?」
結菜さんは速攻に話題を逸らし、そう聞いてきた。
「好きです。今でも大好きです……。でも、もう辞めました」
「え?」
「昔からピアノのレッスン時間は大好きでした。でもある日を境に私は辞めざるを得なくなりました」
「ご両親に何かあったの……?」
そっか。こう言うとそういうふうにとられるのか。
「いえ。違います。正確に言えば私が自ら辞めたんです」
「なんで……?」
私は少し口にするのを躊躇った。
「………ピアノが大っ嫌いだからです……」
「………」
暫く私たちのの間に沈黙が漂った。
「どうして?さっき好きだって言ってたじゃない」
結菜さんは複雑な表情をしてそう言った。
私は息が苦しくなるのを感じた。
「一年前に
「しゅこんかん……?」
「手首の内側で末梢神経が圧迫されて手指のしびれや痛み、親指の脱力を来す病気です。手術を勧められましたが結局私は手術をしませんでした」
「……なんで……」
自分でもこれでもか、と思うくらい冷たい声が私の口から飛び出した。
「もうこれ以上ピアノを弾きたくなかったから」
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