Final Round
***Final Round***
人間の頭というのは思ったより都合よくできているもので、なんだかんだと言いながらも表に出てこない問題というのはあっさり意識から追い出せるようになっているらしい。
初めのうちこそ何時この生活が失われるのではないかとびくびくしながら暮らしていたけれど、一週間がたつ頃にはそういった不安はすっかり意識の外に追いやられていた。
二週間がたつ頃には本当に私がこんなに幸せな普通の生活を送っていいのかと漠然とした不安に駆られたけれど、三週間がたったころにはそれもほとんど忘れ去っていた。
もちろん不安がなかったといえばうそになる。
毎日「当たり前」が増えていくたびに、その幸せが色あせていくような恐怖はあった。
そのせいで「新しいこと」をがむしゃらに求めたりもした。
不安はあったけれど、それは幸せと表裏一体のもので、満ち足りているからこその不安だった。
だから、総合的に言えば私はとても満足していた。
幸せだったし、満ち足りていた。
けれど、人間の脳みそ忘れたいことを完全に忘れてくれるほど利口じゃなくって、私の脳に何年もかけて染みついた嫌な色をしたシミは、見えないところにしっかりと残っていた。
その日はここに越してきて一か月ほどの水曜日で、梅雨の合間の、久々に見るすがすがしい程の快晴だった。
せっかくのいい天気だからどこかに出かければよかったものの、その日仕事がなかった私たちは暑い外に出たくなくって、家の中で一緒にテレビを見ながら、たわいもないことを話してごろごろとすることにした。
そして、その平凡な昼のひと時は、私の携帯から唐突に鳴り響いた帝国のマーチによって、情け容赦なくぶち壊された。
先日スター〇ォーズを見ていたせいで反応が遅れた。
「誰かきたっ」
ワンテンポどころか三拍ほどおいてそう言うと同時に、ここ一か月ほど棚の中で眠っていた拳銃に、考える前に手が伸びる。
しばらく時間が空いても、手が覚てしまっている。ホルスターを装着してから、軽くため息をついて、マガジンをセットする。
「え?」
「誰か来てる。二階への階段に仕掛けたセンサーが反応した。二階から上に住んでいるのは私達だけよ。空き家を漁りに来たんでなければ、私達でしょうね」
状況が呑み込めていないようなソウに、早口で状況を説明する。
ワンテンポおいて思考が追いついたようで、慌てて靴を取りに行った。
「新しい入居者が来たってことは?」
「私もそう思いたいけどね。このアパートに新し入居者がくると思う?」
「ま、そうだよな」
ソウが持ってきてくれた靴を履いて、靴ひもを締める。
「ベランダから?」
「大丈夫そうならね。けど、のんびり降りてたら外に誰かいたときにいい的だから、さっさと下りないと」
「いや、そんなのできないんだけど。てか、前そんなこと言ってなかったよね?大丈夫だって」
「ま、あの時は安全確認も兼ねて貴方に先に行ってもらったからね」
「え、それってもしかすると俺死んでたんじゃ?」
「生きてたんだからいいじゃない。過ぎたことよ」
安全装置を外した拳銃を右手に下げて、ベランダに向かう。
「で、どうするんだ?俺はゆっくりとしかおりれらないぞ」
「私が上から援護する。誰か下で待ち伏せしてたら私が撃って牽制するから、その間に降りて。それなら、」
そういいながら一瞬だけベランダから顔を出して下の様子を伺い、自分の見込みが甘かったことを知る。
「駄目ね。車が三台止まってる。さすがにこれじゃあ降りられないわ」
頭をひっこめた直後、ベランダの淵が数か所弾けた。
「ここから降りたら間違いなく蜂の巣よ」
「じゃあ、」
「うん。屋上から逃げましょ」
別の方向にロープをたらせるはずだし、別の非常階段がついている四階までとは違って立てこもるにしても侵入経路が階段一つに限られるのでやりやすい。
部屋の中に戻って、
「誰かいたら私が排除するから、貴方は後ろからついてきて」
「大丈夫なのか?」
「貴方を一人ここに置いてくのは申し訳ないからね。貴方を残して死にはしないわよ」
護身用に持ち運んでいたナイフをベルトの背中側に装着する。
拳銃を腰のホルスターに戻し、存在も忘れかけていた拾い物のサブマシンガンを手に取る。
小柄なサブマシンガンなので、思ったより手になじんだ。
パーカーのチャックを閉めて、軽く腕や足の関節をほぐす。
「それと、荷物は貴方が私の分も持ってもらえる?その代わり、貴方の方には絶対に追手が行かないようにするから」
安全装置を外してから、コッキングレバーを引いて初弾を薬室に送り込む。
引き金に指をかけて、音を立てないように玄関の前に立つ。
「いくわよ」
ソウにだけ聞こえる大きさで囁いてから、空いた左手で玄関のドアを開け放した。
ドアを開けた瞬間、若い男が勢いよく突っ込んでくる。
首の高さで水平に振りぬかれたナイフを姿勢を低くして避け、下げた頭を狙った膝蹴りを左腕で防ぎながら、腰だめのようにして迷いなく短く引き金を引く。
体勢を崩した男の顔面を蹴り上げ、上を向いたところでグリップでこめかみを殴り、意識を断つ。
そのままの勢いで廊下に出ると、破裂音と同時にすぐそばの壁がはじけた。
発砲音がした方を向くと、階段を背に、拳銃を構えてこちらに向けている女。遮蔽物もない廊下なので、姿勢を低くしてジグザグに走りながら距離を詰め、大雑把な照準で連射。
階段近くまで接近し、弾幕で女を踊り場の向こうにくぎ付けにする。
「ソウ、走ってっ」
サブマシンガンを向けて女を牽制したまま、ソウが屋上へ通じる階段を上り始めたのを確認して、後に続く。
後ろ向きに階段を上がりながら、階段を仕切る壁の向こうから女の顔がのぞく度、下に向けて牽制射撃をする。後ろ向きに歩くのでゆっくりと進んで、踊り場に差し掛かったころにはサブマシンガンの弾が切れたので開いていた窓から投げ捨てて、左に下げていた拳銃に持ち替える。
踊り場で折り返したところで待っていたソウと合流し、今度は前を向いて走り、建付けの悪い扉を跳ね開けて一気に、屋上に転がり出る。
「ソウ、ロープを下ろしてっ」
階段に拳銃を向けたままそう言うと、ソウが屋上の端に向かって走り出す。
ゆっくりと後ろ向きに歩いて、拳銃の向きを変えずにソウがいる屋上の淵に移動する。
「どう、いけそう?」
「たぶん、下には何も、」
そこまで言ったところで、足元から少し離れたところのコンクリートが大きくえぐれた。
慌てて階下から通じる扉の方を向くが、人影はない。
少し焦りながら四方を見渡し、もう一度、今度は足元すぐ近くのコンクリートがえぐれたところで気が付く。
こっちの業界の人が良く使う拳銃やサブマシンガンくらいでは、こんなに大きくはえぐれない。
恐らくは、ライフリングのついた、長物の銃。けど、長物の銃は目立つので、こちらの業界では基本的には使われない。数少ない例外が、スナイパーの使う狙撃銃。
そしてスナイパーをやっている人自体一つの地域に一人いるかいないかというくらい珍しいのだけれど、生憎私にはよく知るスナイパーがいる。
「あぁあ。これは本当に詰んじゃったかもね」
右手に拳銃を持ったままどこにいるとも知れないスナイパーに向かって両手を挙げると、右手に軽く握っていた拳銃だけが弾き飛ばされる。
この微妙な甘さは、やっぱり彼女なんだろう。
ソウも事態が悪い方向へ傾き始めたのを感じ取っているようで、かるくこくりと頷いただけだった。
「昔言った、私の元同僚の友人が私たちを狙ってる。スナイパーよ」
「それって昔情報を流してくれた人だろ?見逃してくれる可能性はないのか?」
分かり切っていても聞かずにはいられない、という風にソウが尋ねる。
「無理ね。今は威嚇射撃だけで済ましてくれてるけど、彼女ならここから逃げようとしたら一発で頭を撃ち抜いてくるわ」
長い付き合いだったので、簡単に想像がつく。
今はまだ彼女が撃たなくてもほかの追手が私たちを仕留められるけれど、彼女が撃たないと仕事が失敗するとなれば、彼女は撃つと確信を持って言える。
左手に握りこんでいるものを急に強く意識するようになる。
ソウの方を向くと、目が合った。彼がこくりと頷いたのを見て、軽く頷き返す。伊達に一ヶ月の間寝食を共にしていたわけではないので、それでおおよそは伝わった。
手のひらに収まるほどの左手のそれを、しっかりと握りなおす。
動くにも動けず、両手を挙げ続けて、少し腕が疲れてきたころ、階段に通づる扉がゆっくりと開かれた。
反射的に右手で残った一丁の拳銃をとろうとするが、動かした瞬間、足元が再び弾け、再び手を挙げなおす。
中からゆっくりと、拳銃やナイフを片手に持った元同業者と思しき人間が、5,6人出てくる。
中には見たことのある顔もあった。一か月ほど前に隠れ家にやってきたあの男もいた。彼の車の助手席に乗っていた女もいた。今度はそれほど恐怖は感じなかった。彼らの顔に浮かんでいたのは同情でも哀れみでも、まして葛藤でもなく、呆れたような表情。唯一あの女だけが笑っていた。そして、こちらに向けられた銃口や構えられた刃物はぴくりとも動かない。
私も昔はああいう人間だったのにな、とは思ったけれど、後悔はなかった。
撃つそぶりがあったらすぐに動けるよう身構えて、ぴんと張った糸のような数十秒が流れた。
いい加減こちらから動こうかと思った時、開け放たれた扉の奥の階段から、スーツを着た中年の男がゆっくりと上がってきた。
この場面でなければ街中で会ってもそのまんますれ違うだろう。それほどには、こちら側の匂いを感じさせない男だった。
「久しぶりだな、セイ。いや、顔を合わせるのは初めてだからはじめまして、か」
聞こえてきた声は、ここ数年間、何度も電話越しに耳にしてきたものだった。
「そうね、はじめまして。腕が疲れるからおろしていいかしら」
「構わないさ。君がどう足掻こうがどうこうできる状況じゃない」
両手を下ろして、腰に当てる。パーカー越しに拳銃の感触が伝わるが、男の言う通り、これでどうこうできる状況ではない。
「感謝するわ、頭の上がらない中間管理職さん」
「ははっ。一か月ちょっと経っても覚えていてもらえるとは光栄だ。それに、中間管理職というのも、まあ確かにその通りだな。これからはそう名乗ることにするか。しがない中間管理職です、と」
「貴方がなんて名乗ろうが知ったこっちゃないけど、その中間管理職がなんでわざわざここまで出向いてるのかしら」
これまでさんざん電話越しに人をこき使ってくれた男はこれ見よがしにため息をつく。
「私だって好き好んでここまで出てきているわけじゃあないんだ。できる事なら家でのんびりしていたいんだけどね。まさに中間管理職ってやつさ。上の方からの命令ってのがあるんだよ」
「大体内容は想像がつくけど聞いてあげるわ。命令って?」
「君たちの死亡確認を、私がこの手で取ること」
「なんでそんなに私たちにこだわるの?」
「君が必死に匿ってきたその彼。私も民間人を殺せっていう命令を出すのは乗り気ではなかったんだけどね。お得意さんからの立っての願いってやつさ。依頼主が何を考えてるかは分からん。実は彼はどこぞの大富豪の隠し子で遺産相続の邪魔だったのかもしれないし、気づかないうちに何か知ってはいけないことを知ってしまったのかもしれない。何か本人も知らない特別な才能があって危険視されてるのかもしれないし、ひょっとすると依頼主の機嫌がとてつもなく悪いときに駅で肩がぶつかっただけかもしれない」
ソウが反応を示さないあたり、おそらく本人に心当たりがあるような話ではないのだろうが、
「ひょっとして貴方、サスペンスとかミステリーとか大好きなクチかしら」
かもしれない、のところをやけに滑らかに言い切った男は頭を掻いて、
「まあ、否定はしないよ。けど、君も知ってるだろう。事実は小説より奇なり、ってね。それに、別にそこの理由は私にとっては知ったことではないんだ」
「無責任ね」
「何とでもいえばいい。けど、君も身をもって知っているだろう。これがこの業界のやり方だ。君だって例外じゃあないはずだ」
「それもそうね。で、それでそのお得意さんがなんでかは知らないけど怒り心頭で私たちの追撃命令を出した、ってところかしら」
「それもあるんだけど、こちらとしてもお得意さんの立っての願いを信用できると思った下請けに回したらそいつがターゲットと一緒に逃げました、なんていい恥さらしなわけさ。信用問題にも発展する」
「あら、それは悪いことをしたわね」
軽快に言い切ると、男の眉間にしわが寄る。
「おかげさまで、私も依頼主にぐちぐち言われて、少なからず頭にきているわけだ。依頼主ではなく、君たちに、主に、私の面にもののみごとに泥を縫ってくれた君にね」
口調が怖いほど変わらないあたり、本当に怒っているのだろうな、と容易にわかる。
「だから私としては君に腹が立っているのだけれど、依頼主はそこの彼にこだわりがあるらしい。まあ、利害の一致ってやつだ。こうなったら手加減をする理由もないわけさ」
「そう。それで、その怒りを本人にぶつけてすっきりしたかしら?」
「多少は憂さ晴らしになるかと期待はしてたんだけどね。いまいちすっきりはしなかったな」
男が話を切り上げたさげな雰囲気を放ち、周りの連中が身構えなおしたので、もう一度両手をあげる。
「なら、無駄にここで私と話したりせず、問答無用でその周りの奴らに打たせるべきだったわね。それか、どこかでここを見ている彼女に私を殺すように命令しておくか。おおかた、足止めをしろ、とでも命令してたんでしょう」
もし殺せと命令されていたら、彼女は私の頭を初撃で打ち抜いていたはずだ。
「ああ。そうするべきだったと後悔してるさ」
軽く顎を引くと、ソウが頷いたのが視界の端で見えた。
左手に神経を集中する。
「それが最期の言葉でいいな?」
「もう一つ。貴方が最後に私に託した荷物。あの中身、貴方ならもちろん知っているわよね」
男が何かを口にする前に、左手に握ったスイッチを力強く押し込む。
「そう。何に使うはずだったものかは知らないけど、最新型の軍用プラスチック爆弾よ」
スイッチから放たれた電波は、マンションのあちこちに配置された「荷物」、高性能プラスチック爆弾に差し込まれた信管に届き、信管が破裂、それによって一気にプラスチック爆弾が爆発する。
通常のきちんとした建物などではこの程度では何ともならないのかもしれないが、この建物は入居者がめったにいないほどの古物件。まともな強度が残っているはずもない。それに幸運なことに、荷物に入っていたのは従来のC-4などのプラスチック爆弾の後継として開発されたという性能強化版。
このぼろビルにはオーバーキルだったようで、一気に倒壊が始まる。本来なら脱出してから使うはずだったのだけれど、仕方がない。
いくらか爆薬を仕掛けておいた階段の周りにいた追手たちは、真っ先に倒壊に巻き込まれて階下に落ちていく。中には直接爆発に巻き込まれているものもいた。
「つかまって!」
一気に傾き始めた屋上でバランスを崩したソウを抱きすくめ、靴の裏でブレーキをかけながら背中で滑り、なるべく潰されそうな場所を目指す。
そこからはもう無我夢中だった。
転がって、滑って、落っこちて。
爆発に伴う派手な倒壊が収まっても、あちこちでバランスを崩したがれきが降ってくるのでそれを避けるために動き続ける。
そう長い時間ではなかったはずだけれど、何分立ったのかはわからない。
木造部分もあったのか、あちこちで燃えているところを避け、自分が今何回くらいの高さにいるのか、今いるところは元は何階だったのかわからなくなってきたころ。
火をと煙を避けて二人でがれきの上を越えようとしたとき、そのがれきが崩落した。おそらく、それを支えていた床が限界だったのだろう。
がれきと一緒におそらく一階分ほど落下し、着地、というか墜落したと思ったら上から大量のがれきが更に降ってきた。
骨折やなどの大きな怪我はないけれど、体の節々が痛む。パーカーのおかげで腕は無事だったが、おそらく足はあちこち擦り傷だらけ。足首から伝わる鈍い痛みからして、ねん挫でもしたような感じもする。
「ソウ、大丈夫?」
「何とかな」
声を張り上げると思いのほか近くから返事が返ってきた。
痛む体を引きずって周囲のがれきの隙間を這っていって、何とかがれきの山から脱出する。
ソウはもうがれきの山から抜け出ていたようで、近くの壁に寄りかかるようにして座っていた。
「大丈夫?」
「別に死ぬようなけがはしてないわ。でも、左足をくじいたかも」
そのままソウの隣に腰掛ける。
落ちてきたがれきの中に火種があったのか、目の前のがれきがチロチロと燃え始める。
周りはがれきや残った壁でふさがっている。
「どうしよっか」
あれで全員死んだとは思えないし、あの女なんかは死んでなければむしろ嬉々として私たちを殺しに来そうなものだけれど、今のところ誰かが私たちのところへやってくる感じはしなかった。
建物の周りからは、人が騒ぐ声があちこちでする。消防車の音はしていなかったから、追手だろう。野次馬もいくらかいるだろうけど、外に誰もいない、というのは考えにくい。
言葉が途切れて、炎のぱちぱちという音が響く。
痛む左足を庇いながら何となく立ち上がろうとして、片膝を立ててから体を持ち上げると、目の前の炎に一瞬穴が開き、頭のすぐわきの壁に子供の拳くらいの穴が開いた。
反応なんてできなかった。
彼女だ。きっと外したのは、炎でこっちがはっきり見えないからだろう。
両手を挙げてから、再び腰を下ろす。二発目は来なかった。
「……スナイパーの彼女が狙ってるわね」
「じゃあ、」
「ええ。ありていに言えば八方塞がりってところかしら」
それに彼女がいなくても、私の足がこの包囲網を突破することを許してくれない。
彼一人でも、無理だろう。
再び沈黙が、戻ってくる。
一分ほどだろうか。それが続いた。
下の方からの、瓦礫をかき分けて歩くような音が響いていた。
「ねえ、」
目の前で踊り続ける炎を眺めながら、ぽつりと言う。
「なに?」
ポケットの中に手を入れて、掌に収まってしまうサイズのそれを取り出す。
「黙ってたけどね、爆薬はまだ残ってるの。鞄の中に。ちょうど、この空間を爆風で満たせるくらい」
スイッチを床において、ソウの方に寄せる。
「貴方が決めて」
酷いことを言っているのは分かっている。できるなら、彼にこんなことを頼みたくはなかった。それでも、以前のような過ちを繰り返すのだけは嫌だった。
ソウはそれを手に取って、そしてそのスイッチのカバーを外してから、それを私の手に乗せる。
「俺が望んだ時は、君が俺を殺してくれるんだろ」
こんな状況のはずなのに、思わず頬が緩む。
「そういえば言ったわね。そんなこと」
ソウが持っていたリュックから取り出したそれを足元に置く。
燃えるものがなくなったのか、目の前にあった炎はほとんどなくなっていた。
右手でスイッチをもって、親指をボタンに掛ける。
ソウの左手が伸びてきて、私の手の上からスイッチを握る。
「正直に言うとね、今、私は少し安心してるの」
「あいつらに殺されなかったから?」
「それもなくはないけどね。この一か月、私は本当に楽しかったし、幸せだった。きっと私ひとりじゃあんな生活は出来なかっただろうし、貴方には本当に感謝してるわ。あの夜の後でも、貴方がいなかったら、きっと私はもっと早くに死ぬことを選んでたと思う。けど、その幸せな毎日が完全に当たり前になって、幸せと思えなくなるのが怖かった。あんなに望んでいたものだったのに、飽きてしまうかもしれないのが怖かった」
ソウの方に体を寄せる。肩と肩が触れる。
「だから、そうなる前に。本当に幸せなまま終わりにすることができて、よかったなって」
「そうだな。俺も楽しかった。学校に通ってた時より断然楽しかった。会った時に腹を撃たれたことは忘れてやるよ」
「そんなこともあったわね」
「もう一か月以上前のこととは思えないな」
「一応悪かったとは思ってるのよ」
「わかってるさ」
ソウの左肩に、そっと首をもたれさせる。
――人肌って、こんなに温かいんだな――
最後にこれをどこかから見ているはずの彼女に、声を出さずに、唇だけで言葉を紡ぐ。
――さよなら―――
きっと彼女になら通じるだろうと、根拠もないのに思えた。
いったい何年ぶりになるのかわからない人肌の温かさに浸りながら、小声で囁く。
「……ありがとね、ソウ」
「こっちこそ」
ゆっくりと、二人一緒に親指を下ろしていく。
ソウの頭が、私の頭の上に乗せられたような感覚があった。
彼が私の名前を口にするのが、微かに聞こえたような気がした。
本当に言ったのか、幻聴なのかは分からなかった。
直後、私達の指が、握りしめたスイッチをしっかりと押し切った。
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