幸せ探しの殺人論
梅雨乃うた
Prologue
目の前には、無防備に眠る顔。
私が拳銃を向けているなんて考えてもいないんだろう。
「ごめんね」と、誰にも聞こえないような声でつぶやく。
ぎゅっと目を瞑る。
この距離ならば目を閉じていてもまず外しはしない。
目を瞑ったまま、人差し指に力を入れる。
今度はしっかりと破裂音がして、手にいやな反動が伝わってきた。
***プロローグ***
この世の中には、裏社会とでもいうべきものが、確かに存在している。
いくら否定しようとしたって、それは見る人が見れば至る所に姿を現している。
まして、私の住む町のような貧困街では、そういった世界の需要は決して少なくない。金に困った人間が最終的に行き着く先はここだからだ。
それでも、たいていの者は麻薬の売人だとか、運び屋だとか、裏社会のヒエラルキーの中では下層に位置づけられるような仕事に従事する。稼ぎは大きくないが生活を支えられる程度にはあり、足を洗うのも比較的楽な仕事だ。
けれども、何らかの理由でそこで留まれなかった一握りの人間は、この世界の更に深くに潜っていく。そして、最終的には陽の光が届かない深海に暮らすようになる。その典型的な例が、私たち、殺し屋と呼ばれる人間だ。
腰のホルスターから愛用の拳銃を抜いて、ポケットに入れていたサイレンサーを装着する。意識しなくてもできるくらいには、慣れた動作。スライドを軽く引き、薬室に弾丸が装填されていることを確認、親指でロックを下げる。
心の中でカウントダウンをして、ゼロと同時に開いていたドアを蹴り開け、
「あぁん?それが客の態度か?」
バーカウンターの向こうにいた中年の男が上げたそのしかめっ面を、事前に知らされていたターゲットの顔と頭の中で照合してから、引き金を引く。
男の眉間を打ち抜くはずだった弾丸は、何にもさえぎられることなく、後ろの棚の中にあるワインの瓶を粉々にし、
「ちっ、客じゃない奴はお呼びじゃないっての」
バーカウンターの向こうに隠れた男が付く悪態を聞きながら、思わず何度目かになるため息をつく。
一体最初の一発目を外すのはこれで何回目だろうか。
原因は分かっている。必ず相手の顔を確かめてから撃っているからだ。
確実かつ安全に仕事を済ますには、まず撃ってから本人か確かめればいい。人違いだったとしても、ここにいる時点でろくな人間ではない。
それは分かっているのだけれど、どうしても、できない。
この期に及んでこちらの考え方に染まり切るまいとしている甘えた自分を心の底に押し込み、頭を改めて仕事用に切り替え直す。
彼もこちら側で生きている人間なら、命を狙われる可能性は心に置いているだろう。そして、そんな人間が自分の住処や拠点に、何も隠していないわけがない。ましてバーカウンターの向こう側は隠し場所には事欠かないだろう。何かしらあると考えるのが自然だ。
それならばやることは決まっている。
保険のつもりでベルトに引っ掛けていた缶コーヒーほどの大きさの手榴弾を外し、ピンを抜いてバーカウンターの裏に投げ込む。「表」のテナントは入っていないこのビルなら、倒壊させない限りは問題ないだろう。
あわててカウンターの裏から飛び出してきた男がこちらに向けて得物を構える前に、その頭部に弾丸を三発続けて撃ちこむ。
威力を抑えめにした手榴弾がカウンターの向こうで爆発する軽い音を聞きながら、うつ伏せになった死体を足でひっくり返す。もちろん拳銃は向けたまま。重たい体をひっくり返すと頭に赤黒い穴が開いていた。私の常識が間違ってなければ、これで生きているという事はないだろう。
知らされていた情報によると彼は仲介業者のようなことをしていたらしい。実際に手を汚すタイプの仕事ではないが、逆に言えば私たちより更に深いところに棲む人種だ。
力無く投げ出された右手に握られているのは、拳銃ほどの大きさの小型のサブマシンガン。どこかで見たことがあるな、と思って少し考えて思い出した。名前は忘れたが、有名な小型のサブマシンだ。コンパクトなので護身用に愛用する輩が一定数いたはずだ。
これを撃たれる前に片づけられたのは幸運だったな、と他人事のように思う。幽霊を信じるわけではないが、置いていくとなんだか背中から撃たれそうな気がしたので拾っておく。
他に人がくる気配がないことを確認し、拳銃の安全装置を上げる。
この仕事を始めてもう数年がたつけれど、一部の同僚たちのように無感動で引き金を引けるようになるにはまだまだ時間がかかりそうだ。もっとも、そうなりたいかと聞かれればなりたくはないのだが。
人を撃つたび、自分がどんどんこちら側に沈み込んでいるように思えて気持ち悪い。
さっさと家に帰って夕食の支度をしよう。今日の夕食を何にしようか、冷蔵庫の中にあったものを思い出してメニューを考えつつ、階段を下りながらいつものように仕事が終わったことを上に電話で報告した。
ビルを出ると、もう日が傾いていた。時間も時間だしとっとと帰りたいのだが、まだ仕事が残っている。
少し遠回りをし、とあるマンションのゴミ箱に、ポケットに入れていた黒い小箱を放り込む。昔やっていた運び屋の仕事。今になっても時たま依頼が来ることがある。ごまんといる専業の運び屋には任せにくい、厄介な品物が多いのだけれど、断る理由もないので受けている。もっとも、小遣い稼ぎ程度にしかならないのだが。
確か、次の荷物がこの近くの駅のコインロッカーに入っているという話だった。ちょうど変えるときに使う駅だし、ついでに回収していけば手間も省けるだろう。
***
朝、窓から差し込む日の光で目が覚めた。
こうやって自然に目が覚めるのも久しぶりだ。
今日は久々に仕事がないせいもあって、さわやかな目覚めだった。ひとまず服を着替え、寝癖が付いた髪を整え、顔を洗う。鏡の中にいるのはどこにでもいそうな、18歳の少女。これを見て、昨日人一人殺してきた人間だと思う人はいないだろう。
顔を拭いてから、パンを一枚袋から出して、トースターに入れる。冷蔵庫の中に入っていたレタスをちぎり、ハムを取り出して、三分でできる朝食が完成する。パンをトーストしなければ一分でできるのだが、生憎スーパーの安いパンは温めないとと硬くて食べられたものではない。トースターから取り出したパンはいい焼き具合。
テレビをつけ、適当なチャンネルを流しながら、パンにバターを塗る。そのパンの上にレタスとハムを乗せ、二つ折りにすれば即席サンドイッチの出来上がり。「いただきます」と言ってから、久々ののんびりした朝食を堪能した。
ゆったり十五分ほどかけて朝食を食べ終わってから、ごみを出すために外に出る。今日は燃えるゴミなので量が多い。
両手にゴミ袋をぶら下げ、据え付けの悪いドアを開けると、日差しが目に刺さった。春の終わりの、いい天気。ごみ捨てついでに、近所を散歩しに出かけようか。
仕事柄身についてしまった背後や物陰を気にする癖をできるだけ抑えつつ、ぶらぶらとあてもなく歩く。いつもなら三十分も歩いたら家に戻るのだが、今日はなんだか遠くまで歩きたい気分だったので少し遠出をすることにした。行きつけのスーパーマーケットで紅茶のペットボトルと軽いお菓子を買って、準備は万全だ。
こうやって普通に生活していると裏でのことをあまり考えずに済むので、休日はいつもできるだけ普通に過ごすようにしている。
散歩をしたり、家でゴロゴロしたり。一緒にどこかに行くような相手はいないけれど、一人で電車に乗って出かけることもある。
基本的に何をするかはその日の気分次第だが、一つだけ決めていることがある。
武器や仕事道具の類は持ち歩かない。
身の安全を考えるなら、持ち運ぶべきなのだろう。治安のよくない貧困街。非合法とはいえ拳銃や武器の類を持っている人も少なくないし、仕事柄どこで恨みを買っているかも知れたものではない。
いちいち職務質問をかけて拳銃所持を取り締まるような勤勉な警察官もめったにいないし、合理的に考えれば、持ち歩かない理由はない。私の同僚も、基本的にはいつも何かしらの武器を持っている。
それでも私は、せめて休日だけは「ごくありふれた、この貧困街に住む18歳の少女」として過ごすと決めている。
現状への、些細な抵抗だ。オンとオフの区別といえば格好はいいが、実情はただ、裏に染まり切れない者の自己満足。ここまでしておいて自分はまだ染まり切っていないと信じたい子供の、都合のいい誤魔化し。それでも、やめるつもりはない。
二十分ほど歩くと、このあたりでは唯一となる公園に出る。大きなところではないが、小さな池もあり、貧困街の公園としては立派なものだ。
池の近くのベンチに腰掛けて紅茶を飲んでいると、見慣れた姿が視界に入った。アパートの同じフロアに住んでいる少年だ。
「奇遇ね。アパートからは結構遠いと思うけどこんなところで何してるの」
天気が良く、機嫌がよかったせいか、話しかけてみる気になったので後ろから声をかける。
「学校がこっちなんですよ。通学中です」
この少年とは、越してきた当日にばったり会って少し話してから、時々話をする仲だ。「表」の私がたわいもない会話をする数少ない、いや、唯一かもしれない相手。
「あぁ、学校。そういえば貴方学生だったわね」
まあ、だからといって近所づきあいとか、「知り合い」レベル以上の付き合いがあるわけではないし、そのようなことを望んでいるわけでもない。それでも、裏とかかわりのない人間と話していると、あたかも自分が表で暮らす人間であるかのように思うことができるので、彼と話すのはいい息抜きになっていた。
「学んでいるのかは甚だ怪しいですけどね。というかそちらこそ、何してるんですか?」
「散歩。今日は久しぶりに休日だからね」
「今日は平日ですよ」
「私の仕事は休みが不規則なのよ」
ふうん、と興味なさげに少年は相槌を打つ。
週末が休みでない仕事というのは「表」でも珍しくはないだろうが、そうは思っていなさそうなのは彼が学生ゆえか。
さて、図らずもいい感じに休日気分が味わえたので、この辺で引き揚げようか。
通学中の学生をあまり長く引き留めておくのも申し訳ない。
「じゃあ私はそろそろ帰るわ」
軽く手を振ってその場を離れる。残っていた紅茶を一気にのどに流し込み、空のペットボトルを公園のゴミ箱に放り込む。
気分は上々。さて、次はどこへ行こうかな。
***
いったい何だったのだろう。よく見かけるご近所さんであるあの少女が、唐突に話しかけてくることは今に始まったことではないのだが、今日はまた一段と良く分からなかった。
まあいい。どういう意図なのか気にならないと言えば嘘になるが、考えてどうにかなるものでもないし、分かったからどうというわけでもない。
始業時間直前に校門になだれ込む同級生達に巻き込まれるようにして、教室へ向かう。
この学校は街からすぐ近くにあり、かつ公立で学費が安いため、あまり裕福でない人が多いこの町で、高校を出ようという人は大抵ここに通う。
自分も、雀の涙の仕送りと、バイトでの稼ぎから学費をひねり出して通っている身なので例外ではない。もっとも、勉学に励みたいなんていう高尚な理由ではなく、単にこの後の就職等で使えるように、だが。
このご時世、貧しい人間には公立高校の学費すらつらいというのに、数十年前の豊かだったらしい時期の名残か、世間では高卒は当たり前な状態だ。
チャイムが鳴る数秒前に、自分の席に腰を下ろす。教室の前にある電子黒板に、今日の時間割が大きく映し出されていた。
席は窓際、後ろから三番目。くじ引きで決まったこの席だが、居心地がいいので気に入っている。授業中は窓から外を眺めて、休み時間には窓越しの陽にあたりながら寝る。こんな生活なので未だに隣の席の生徒の名前すらはっきりしないが、大した問題ではない。そもそも、生徒もこの町の住民がほとんどだ。底が見えない人も少なくないし、あまりかかわりたくないというのが正直なところだ。
やる気のない声で何か言っている担任の声をBGMに校庭で長距離走をする下級生を眺めていたら、昨晩寝られなかったせいかいつの間にか意識は落ちていた、らしい。
***
一日中あちこち歩き回っていたら、思いのほか疲れた。
仕事柄そう簡単にへたるような体力はしていないはずなのだが。
その辺の花壇の淵に腰掛けると、一気に楽になったけれど、同時に足の疲れがより感じられるようになる。ずいぶんと歩いていたらしい。
あてもなく歩いていたせいで現在地がいまいちわからないので、電車で帰ることにした。スマホで調べれば場所は分かるのだろうけど、だからといってこれ以上歩きたくはない。それに、もちろん歩けない距離では全然ないのだろうが、早く家に帰りたい気分だった。
一度座ってしまったせいで余計に疲労を感じるようになった足に鞭打ち、結局はスマホを頼りに最寄りの駅を探す。
幸い、近くにあった駅が家の最寄り駅と同じ路線だったので二十分もせずに帰れるだろう。
学生が使うには遅く、仕事から帰るには早い中途半端な時間帯のせいか、電車の中は思ったよりすいていた。
座席もほぼ空いていたので、ドアの脇の、壁際の席に座ると、すぐ脇で扉が閉まった。最寄り駅までの十分ちょっと、音楽でも聴こうかと思ったけれど、疲れていたので寝ることにする。
うとうとしながらも、最寄り駅に近づいたことを示す車内アナウンスがぼんやりと聞こえていたのか、目が覚めると丁度降りる駅だった。すでにドアが開いていたので、降り損ねないように慌てて列車から駆け降りる。すぐ後ろでドアが閉まる音がした。危機一髪。
もう夕方なので、家に帰って風呂にでも入ろうか、それとも久しぶりに家の近くの銭湯にでも行こうか、と考えながら改札に向かっていると、ポケットの中の携帯電話が震えた。
すぐに静かになったからおそらくメールだろう。今見るか、気づかなかったことにするか数秒迷ったのち、気づかなかったことにすることにした。
ただでさえ金のかかる携帯を二台持ちする気にはどうにもなれず、仕事もプライベートも同じ携帯を使っているから、休日でも、これだけは置いていくことができない。
もっとも、プライベートな用途で別に携帯を持っても、連絡を取り合うような相手もいないが。
つまり、今ケータイが鳴ったのは、八割方仕事のことだろう。せっかくの休日だ。最後までオフを貫き通したい。
結局そのまま家に帰り、部屋のユニットバスで風呂を済ませた。
せっかくの休日だし、夕食はサボって冷凍庫や冷蔵庫に残しておいた残り物で済ます。冷凍庫からあまりものを取り出して、レンジでチンする。まずは野菜から。おかずが温まるまでの数分間。湿った髪の毛をタオルで巻いたまま、ベッドの上に横になり、いつものように何となく携帯を開いた。
ネットニュースとかSNSとかを見るつもりだった。
それなのに、さっきのメールの通知が見えてしまった。
指が当たってしまったのか、メールの本文が勝手に開いた。
件名は、業務連絡。見慣れた件名。仕事のことだ。
本文にターゲットの名前だとか住所だとかが書いてあるが、見るまでもなかった。
――まったくもって、休日の終わりにいやな物を見せてくれる――
その下に表示されていた、隠し撮りしたかのような写真は、見慣れた人物。
今日も公園で見かけた、少年だった。
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