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――――九八三年 雛菊ノ月十日
「それは本当なのか、パット」
決して狭いとは言えない子供部屋で、二人の少年が顔を寄せ合って話し込んでいた。パトリックとアレクサンダー、いずれも国の次代を背負うような高貴な身分の少年達だ。もっとも、どちらもまだ六歳という事もあり、顔立ちにはあどけなさが残る。だが、浮かべている表情は真剣そのものだ。
「はい、兄がそう申しておりました」
アレクサンダーは、パトリックの返事を聞いて深く頷く。切り揃えられた彼の黒い髪がさらりと揺れた。そんな友人の様子を見て、パトリックのローズグレイの瞳も不安げに彷徨う。
「よし! ならば直接、この目で確かめてみようじゃないか!」
そう言って、おかっぱ頭の少年は勢いよく立ち上がる。パトリックは座り込んだまま、そんな友人を見つめながら目を白黒させていた。
「で、でんか?」
「民を守る事こそ王子のつとめ! これ以上むこの民を苦しめる事はこの私がゆるさない!」
「むこ? どなたのむこどのですか? 民がいるという事は、その方は領主様なのでしょうが……」
アレクサンダーは、甲高い声でそう宣言しながら指をびしっと伸ばして中空をさす。その勢いに圧倒されつつもパトリックが首をかしげると、アレクサンダーははたとその動きを止めた。
「……父上の友人、かな? 父上がよくこうおっしゃっているんだ」
「なるほど、へいかのご友人でしたか。ですが領主様なら、自分の領地の事は自分で解決したいと思うのでは?」
「ふむ……しかしパット、領主の主君は父上だろう? 家臣を守ってこその主君。そして主君の子である私も、彼らを守る義務があるというわけだ」
パトリックが訳知り顔で尋ねると、アレクサンダーは大真面目に答える。その答えを聞いた瞬間、パトリックはついに立ち上がって称賛の眼差しを友人に送った。
「さすがでんか……! なんというしりょぶかいお言葉でしょう! パットはかんぷくいたしました!」
「ふっ、王族として当然の事を言ったまでだよ」
アレクサンダーは得意げに笑う。そしてロイヤルブルーの瞳を悪戯っぽく輝かせ、親友パトリックの手を取った。
「では、さっそく街外れのゆうれい屋敷に出発だ――果たしてゆうれいはいるのかいないのか、その真相を私達の手で突き止めようじゃないか!」
「はい!」
『王子』アレクサンダー=カーティス=ディオンと、『宰相』パトリック=ローランド。幼い主従はただただ楽しく今を生きていて。自分達が歩む
大人達に見つからないように隠し通路を通り、城の裏手に広がる森へと出る。森を抜けて貴族街に出れば、目的地まではそう遠くない。
パトリック達の目的地は、街外れの丘にひっそりと建つ古びた屋敷だった。今にも崩れそうな外観や壁中に這った蔦などから幽霊屋敷と呼ばれるそこは、名前の通り不穏な噂に事欠かない。好奇心にあふれた子供にとって、そこは恐ろしい場所であると同時に魅惑の場所だ。
事の発端はパトリックの兄、スティーブンが悪友数名とともにその屋敷に赴いた事だった。幽霊屋敷の事は貴族の子弟達の間でも話題になっていて、スティーブン達もその噂を確かめようとしたそうだ。そこで彼らは、今もなお屋敷を彷徨う亡霊達の姿を見たらしい。
その話をアレクサンダーにも伝えたところ、アレクサンダーは思いのほか乗り気で幽霊屋敷の探索をしたいと言い出した。いくら貴族街の中とはいえ街外れの廃墟に子供だけ、しかも親に無断で行っていいのかパトリックは迷っていた。だが、アレクサンダーにそれらしい建前を言われた事で、ついに彼もその気になってしまった。アレクサンダーとパトリックは主従である前に親友だ。よく一緒に城内や庭園内を散策しているし、その延長だと考えれば抵抗感も薄れる。
二人いれば何があっても大丈夫だと根拠のない自信を三人目の相棒に、彼らは意気揚々と屋敷に向かい――――屋敷のエントランスに足を踏み入れてすぐ、自らの浅慮を悔やむ事になった。
「うわああああああああああ!」
廃墟と化した屋敷にアレクサンダーの悲鳴がこだまする。視線の先には階段があり、踊り場では四体の白い幽霊達がくねくねと奇妙な踊りを披露していたのだ。
何故か鍵のかかっていなかった玄関から堂々と侵入してきた子供達を、屋敷の住人たりえる幽霊達は果たして歓迎してくれるのだろうか――――自分から自分に向けたその問いかけに、アレクサンダーは瞬時に「否」との答えを出した。そんな彼は一も二もなくパトリックの背後に隠れる。幽霊達は不気味な動きを繰り返しながら階段を降りてきて、パトリック達を取り囲んだ。
しかし、パトリックは一向に怯える様子を見せない。何故なら彼が後悔したのは、幽霊に怯えるアレクサンダーとはまったく異なる理由だからだ。
「何をなさっているのですか、兄様」
そう問いかけるローズグレイの瞳は凍てついている。パトリックに尋ねられた途端に幽霊達はぴたりと動きを止め、周囲に気まずい沈黙が下りた。
「な、なんの事だか、」
「随分と楽しそうですね、ヴィクターどの、フィリップどの、アーロンどの。発案者はどなたですか? うちのぐけいですか?」
幽霊のうちの一体がもごもごと喋りはじめたが、パトリックはそれを遮って幽霊達に呼びかけた。それは兄の悪友達の名であり、数日前に兄とともにこの屋敷を訪れた者達の名だ。やはり図星だったのか、ぴしりと空気が完全に凍りつく。うららかな日差しの差し込む春の日だというのに、やけに風が冷たい。
「パ、パット……?」
「大丈夫ですよ、でんか。やはりゆうれいなどいませんでしたから」
様子がおかしい事に気づいたのか、アレクサンダーはおずおずと顔を出した。そんな彼に向けてパトリックは微苦笑を浮かべるが、幽霊達を見る目は相変わらず冷たい。
薄暗い事もあってかアレクサンダーはすっかり騙されたようだが、白いシーツを被った程度の子供騙しに引っかかるほどパトリックは甘くないのだ。シーツの下から覗く見覚えのある仕立ての黒いズボンの裾に視線を移し、パトリックは呆れたように目を細めた。
「で、でもそこに、」
「あれはうちのぐけいとその友人です。ゆうれいなどではありませんよ。……ところで兄様達は、いつまでそんな間抜けな格好をしているのですか? ほら、早く脱いでください」
なおも怯えるアレクサンダーには猫撫で声で、そして幽霊達には淡々とした声で告げると、幽霊達はぶつぶつ文句を言いながらも被っていたシーツを脱ぎ始める。現れたのは、予想していた通りの見知った顔だった。
「おいスティーブ、なんでパットはあんなに冷めてんだよ。あいつ、ほんとにお前の弟か?」
「おかしいなぁ。絶対にうまくいくと思ったんだけど」
「速攻で見破られたじゃないですか……」
「やっぱり、シーツなんかじゃ騙されてくれないんですかね?」
貴族らしからぬその振る舞いに、パトリックは思わず頭を押さえる。兄の事は好きだし尊敬しているが、どうして彼はこうたまに子供っぽい事をするのだろう。ヴィクター達も同様だ。名門貴族の子息という事をもっと自覚してもらいたい。と、廃墟探索に来た自分の事をちゃっかり棚に上げながら、パトリックは小さくため息をついた。
「まったく、上級貴族の子息が揃いも揃ってこのような事をするなど……。王国しんしとして、」
「パット、君だってここに来たでしょう? こんな場所に足を踏み入れるなんて、王国しんしの心構えがなっていないのは君も同じだよ?」
「ぼっ、僕はでんかとともにむこどのの民を守るべく調査をしに来ただけであって、」
「そっかそっか。実はわたし達は、そんな君達を見守るために先回りして来たんだ。以前、君にこの屋敷の事を話した事があったでしょう? そのせいで、君がこの屋敷に興味を持ったらどうしようかと思ってさ」
むこどのの民、という言葉に首をかしげつつ、スティーブンはぺらぺらと嘘をつく。そう言われてしまえばパトリックも何も言い返せなかった。
見守るというのは嘘で本当は自分達をからかいに来たのだろう、と見当をつける事はできるが、それを証明する手段がない。ぐぅ……と唸り声にも似た苛立ち混じりの声を出し、パトリックは三つ年上の兄を忌々しげに睨みつけた。
「ほら、そう怖い顔をしないでよ。父上達にはうまく言っておくから、君達も早く帰るんだよ?」
そんな弟の視線に晒されるのは居心地が悪いのか、スティーブンは乾いた笑みを浮かべてそそくさと立ち去った。いたずらが見破られた以上、ここに長居する必要もないだろう。ヴィクター達も露骨にパトリックから目をそらし、素早く屋敷から出ていってしまった。
「結局のところ、なんだったんだろう……?」
「この世に不思議な事はない、という事ですよ、でんか。どんなに不思議な事でも、すべては人の力で解明できるのです。神だって、人の手にかかればすぐに風化していくのですから」
「……」
首をかしげるアレクサンダーに、パトリックは自信たっぷりにそう答える。事実、この時の彼はそう信じて疑っていなかった。
とはいえ、この世界に神が実在している事はパトリックもわかっている。だが、その存在に触れる機会などはない。そもそも、彼は敬虔なジュデオ教徒などではないのだ。そんなパトリックは、神に空虚な祈りを捧げる事はあってもその支配力は信じていなかった――――神が決める運命など簡単に変えられる、と。
「大体、おかしいと思ったのです。兄様がゆうれいに怯えるなんて。兄様は僕以上に、ゆうれいとか呪いとか、そういった事を信じていらっしゃいませんから。どうせゆうれい屋敷なんて、本気にしていたわけではないのでしょう。遊びのつもりでここに来て、僕達をからかう事を思いついたに決まっています」
「……それは違う。確かにゆうれいはいなかったかもしれないが――」
「え?」
最後の部分が聞き取れずに聞き返すが、アレクサンダーは何も答えずに俯く。その時のアレクサンダーの目はいつになく悲しい色をしていて、パトリックはわけもなく胸が締めつけられるような感覚に襲われた。
「さぁ、目的も果たせた事だし、そろそろ帰らなければ。あまり遅いと父上に見つかってしまう」
「……そう、ですね」
何事もなかったかのようにアレクサンダーは笑うが、その笑顔はどこか無理しているようにも見えた。しかし彼が話したがらない以上、パトリックが無理に聞き出すわけにもいかない。胸に奇妙な違和感を抱えたまま、パトリックはアレクサンダーの後に続いて屋敷を出た。
太陽はすでに傾きかけている。二人は何の気なしに周囲を見渡し、ほとんど同時に夕陽で照らされた街並みを見下ろしていた。二人は思わず息を呑む。城から見る夕焼けとはまた違う、美しい景色がそこには広がっていたのだ。たとえ幽霊屋敷の噂が大嘘でも、この光景を見られただけで来た甲斐があったというものだろう。
「見たまえ、パット。ああ、なんてこの国は美しいんだろう……!」
アレクサンダーは顔を綻ばせ、半歩後ろに立つパトリックのほうを見る。パトリックも目を輝かせながら頷いた。
「私は美しいものが好きだ。だからこの国をさらに美しく、そして末永いものにしたい。……だが、それには君の力が必要だ。パット――パトリック、私とともに歩んでくれるか?」
「
真面目な問いには相応の態度で答えなければならない。そう考えたパトリックは、父がアレクサンダーの父にしているように、気取った仕草で跪いて
幸福な時間は穏やかに流れていく。しかしそれを尊いものだと認識するには彼らはまだ幼すぎて、純粋すぎて。彼らは世間の悪意を、未来への絶望を知らなすぎた。
だから二人は、こんな時間が永遠に続くと信じて疑わない。しかし幸せというのは、平穏というのは、砂糖菓子のように甘く壊れやすいものだ。その価値に気づいた時にはもう遅く、どれだけ嘆いたところで過ぎ去った日々には二度と戻れない。
神が気まぐれに動かす運命の歯車は、今日も鈍い音を立てて廻っていた――――
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