vii
――――九八三年 紫苑ノ月六日
アレクサンダーとオリビア、そしてパトリックの三人は、宮廷内にあるアレクサンダーの部屋で最後の思い出作りと言わんばかりに一緒に遊んでいた。
今日はオリビアが旅立つ前の日だ。明日には、オリビアは隣国フレニアス帝国に赴かなければならない。今生の別れというわけではないと三人は笑っているが、それでも寂しさはぬぐえなかった。
神託なんて無視して、ずっとこの国にいればいい――――思わず口から飛び出そうになったその言葉を、パトリックはぐっと飲み込む。オリビアに下された神託の内容は、パトリックとアレクサンダーも知りえなかった。つまり、国家の行く末に関わるような重大なものではないという事だ。
だが、彼女の未来を決定づける上において、神託は何よりも重要な意味を孕んでいる。他人の一存でそうやすやすと無下にしていいものではないのだ。
オリビアの未来はオリビアが決める。たとえ与えられた選択肢が、神によって選ばされたものだとしても。それをオリビアが受け入れたのならば、それはやはり彼女自身の選択なのだ。
誰もがスティーブンのように自らの未来を拒むわけではない。パトリックのように流されながらも受け入れる者、あるいは自ら進んで神託を尊ぶ者など様々だ。そしてオリビアは後者の人間だった。ただし、オリビアは敬虔なジュデオ教徒というわけではない。そんな彼女が神託を受け入れたのは、恐らく彼女自身の夢と下された神託が合致しているためだろう。
「殿下、パトリック様、オリビア様! お勉強のお時間でございます! どこにいらっしゃるのですか! 隠れていないで出てらっしゃい!」
「ひっ!?」
「くっ、あははは! すごいなリビー、そっくりだ!」
「ふふ。お褒めに預かり光栄ですわ」
オリビアはくわっと目を見開き、三人の家庭教師であるハウエル伯爵夫人ソフィア・ハウエルの声真似を披露する。そのあまりの迫力と完成度に、パトリックはびくりと肩を震わせた。しかしアレクサンダーは楽しそうに笑っている。
声真似はオリビアの特技だ。特徴をしっかりと捉えたその声真似はよくできている。さらに男声と女声を使い分ける事もでき、子供ながらにその技術は十二分に高いと言えた。
「ほ、本当にミセス・ハウエルが来たのかと思いました……」
パトリックは怯えたようにきょろきょろと周囲を見渡す。アレクサンダーの部屋には自分達以外の姿はない。だが、オリビアの声真似はミセス・ハウエルの声そっくりで、つい本人がすぐそこにいるのではないかと錯覚さえするほどだった。
どうしたってミセス・ハウエルには頭が上がらない。決して嫌いなわけではないが、視界に入ると思わずびくついてしまう。宮廷内で苦手な人、あるいは恐れている人は誰かと聞かれたら、パトリックは迷わずミセス・ハウエルの名前をあげるだろう。それほどまでに、あの初老の女教師は厳しくて怖いのだ。
「そういえばちょうど、お叱りを受けたばかりだからなぁ。……もしかしたら、ほしゅうを受けさせようと本物のミセスが来てしまうかもしれない」
数時間前に終えた勉強の時間を思い出したのか、アレクサンダーはふっと暗い顔をする。とはいえ、やるべき課題を忘れて叱られたのはアレクサンダーだけだ。仮にミセスが来たとしても、補習を受けさせるために勉強部屋に引きずっていくのはアレクサンダーだけにして欲しい……と、パトリックは切に願う。確かに自分はアレクサンダーに忠誠を誓った身ではあるが、それとこれとは話が別だ。
「もしそうなったとしても、でんか一人で行ってくださいまし。わたくし達には関係ありませんわ」
そんなパトリックの気持ちはオリビアが代弁してくれた。パトリックは無言で何度も頷く。アレクサンダーが捨てられた子犬のような目を向けてきたが、パトリックは見ていないふりをした。
「二人とも、それはちょっと薄情じゃないか?」
「わたくしとパットはちゃんと課題をていしゅつしましたし、授業もちゃんと受けましたもの。もうお勉強はこりごりですわ」
「ほしゅうなんて絶対にいやですし、呼ばれるりゆうもございません。僕達はここでおうえんしておりますゆえ、でんか一人でがんばってきてください」
こ、この裏切り者達め……と打ちひしがれるアレクサンダーの事は放っておいて、オリビアはまた別の声真似を披露する。今度は気のいい侍女頭の真似で、パトリックもけらけらと笑った。
「他の方の真似もまだできますのよ? ――ヒズロイヤルハイネス、大変よくできました。その調子で頑張ってくださいね。レディ・オリビアはもっと姿勢を正して歩きなさい。ロード・パトリック、先ほどからわたしの足を踏んでいる事にお気づきですか?」
「ぐっ……まさか、マダム・アンヌの真似までできるようになっているとは」
オリビアのレパートリーがまた一つ増えている事に気づき、パトリックは思わず舌を巻く。隣国からやってきた礼儀作法やダンスを教える女性教師も怖い事には怖いが、ミセス・ハウエルほど苦手ではない。恐らくは見た目の威圧感の問題だろう。
ほっそりとしたマダム・アンヌとは違い、ミセス・ハウエルはがっしりとした体格をしている。さらに三角眼鏡の向こうの赤い瞳はいつも厳しく細められていて、常にがみがみと口うるさい。そんな彼女は、幼い子供達にとっては恐怖の代名詞と言っても過言ではなかった。パトリック以外にも、ミセス・ハウエルの事を苦手としている貴族の子弟は数多い。
当然のように、オリビアとアレクサンダーもそのうちの一人だった。勉強の時間が近づくとつい隠れてしまうのは、決して勉強が嫌だからではない。もちろんそれもあるが、一番の理由はミセス・ハウエルに会うのが怖いからだ。もっとも、見つかるとただでさえ厳しい彼女がさらに厳しくなるので、本当は隠れないほうがいいという事は頭ではわかっているのだが。
「なんだ、パットはまたマダムにおこられたのか? 本当にパットはダンスが苦手だな。今度私とれんしゅうするか?」
「……お気持ちはありがたいですが、でんかはまずお勉強をなさってください」
アレクサンダーはにやにやと笑う。パトリックはむっとふくれながらそっぽをむいた。
アレクサンダーは男役はもちろん女役も完璧に踊れる。一方のパトリックは、絶望的にセンスがないのかてんでだめだ。八年後の社交界デビューが今から恐ろしくてたまらなかった。
「ならば、私が女役をやってパットにダンスを教えるから、パットは私に勉強を教えてくれ。これでどうだ?」
「……で、では、お言葉に甘えて」
強がっていても背に腹は代えられない。パトリックはためらいがちに頷く。そんな二人のやりとりを、オリビアは面白そうに眺めていた。
「ええと……次は誰の真似を、」
「殿下、ソフィア・ハウエルでございます。……いらっしゃいますわよね?」
『ほ、ほんとに来たあああ!?』
三人はほとんど同時に叫び、ずざざっと身を寄せ合う。
噂をすれば何とやら。オリビアの声を遮ったのは、扉を叩く音と本物のミセス・ハウエルの声だった。
険しい声音はいつもと変わらず、しかしどこかいつも以上に不機嫌そうな響きを伴っている。今日はとてもいい天気だというのに、局地的な雷が落ちそうな気がした。
自分達がこの部屋にいるのは扉の前に立っている衛兵も知っているから、彼らに話を聞かれてしまえば居留守など意味をなさない。むしろごまかそうとしたら余計にお説教を食らう事になるだろう。アレクサンダーはぐっと決意を固め、ミセス・ハウエルに入室を促した。
「な、何の用かな、ミセス」
「何の用かな、ではございませんよ、殿下」
にっこりと笑うミセス・ハウエルは、笑っているのに笑っていなかった。それがよりいっそう三人の恐怖を引き立てる。笑顔ではない笑顔、という世にも恐ろしい表情のまま、ミセスはがしりとアレクサンダーの腕を掴んだ。
「さあ、もう一度お勉強をいたしましょう? ……まさか、落書きとよだれだらけのノートを提出して許されるとお思いになられていたわけではございませんよね?」
「あ、あの、えっと、今日はリビーがこの国にいられる最後の日で、」
「ええ、存じ上げております。ですがオリビア様も、最後にご覧になった殿下がこのように情けない姿だったなんて嫌でしょう?」
ミセス・ハウエルから発せられる威圧感に気圧され、オリビアは無言でこくこくと頷いた。その顔はさぁっと青褪めている。下手にアレクサンダーを庇ってこちらにまで被害が及んだら事だ。
オリビアは助けてくれないと踏んだのか、アレクサンダーはパトリックを見る。しかし、言い訳の仕方が少々まずかった。
「パット! パットだって寝ていたぞ! 実はそのよだれはパットのもので、」
「寝てませんから! どうしてでんかは僕にせきにんを押しつけるんですか!? そもそも、どうやったら僕がでんかのノートの上で眠れるんですかぁ!」
授業中に眠る事はもちろん主君のノートにそんな事をするなんて滅相もない。パトリックは必死で抗議の声をあげる。パトリックだって、巻き添えはまっぴらごめんなのだ。
座学の時はいつも、アレクサンダー、オリビア、パトリックの席順だった。当然その事はミセス・ハウエルも知っている。仮にパトリックが授業中に熟睡していたとしても、オリビアを間に挟む以上はミセス・ハウエルがパトリックのある意味芸術的な寝相に気づかないなんて事はないのだ。
「殿下?」
さらっと嘘をついて友人を犠牲にしようとしたアレクサンダーに、ミセス・ハウエルはいっそう笑みを深める。しかし笑えば笑うほど、その怒りが増しているような気がするのが不思議だった。
「どうやら殿下は、みっちりお勉強をしたいようですね?」
「ほしゅうはいやだあああああ!」
そのままアレクサンダーはずるずると引きずられていく。パトリックとオリビアは、引きつった顔でそれを見送る事しかできなかった。
「い、いってらっしゃいませ……?」
「……ごぶうんをお祈りしております」
ため息交じりにアレクサンダーを送り出し、パトリックはやれやれと肩をすくめた。ミセス・ハウエルの授業で眠るなど自殺行為もいいところだ。
課題を忘れたうえに授業をろくに聞きもしないなど、座学の時間が終わっても補習の時間が待っているに決まっている。それはアレクサンダーだって承知しているはずなのに、彼のさぼり癖はいつまで経っても治らないようだ。
「いってしまいましたわね。これからわたくし達、どうしましょう?」
「でんかのほしゅうが終わるまで待つのが一番いいんでしょうが……一体、どれだけかかる事やら。リビー、時間はだいじょ、」
そう尋ねようとしたパトリックの声に、女性の悲鳴が重なった。それは廊下から聞こえてくる。パトリックとオリビアはばっと顔を見合わせ、弾け飛ぶように部屋の外へと飛び出した。
まっさきにパトリックの目に飛び込んできたのは、うずくまるミセス・ハウエルだった。きっと先ほどの悲鳴は、彼女の発したものだったのだろう。彼女の周囲は赤黒く染まっていた。微かに漂う鉄の臭いに頭がくらくらしてくる。オリビアもそうなのか、わなわなと身体を震わせて口元を覆っていた。
「動くな! おとなしくしろ、逆賊め!」
衛兵の怒声ではっと我に返ったパトリックは、慌ててアレクサンダーに駆け寄った。アレクサンダーはミセス・ハウエルから少し離れた場所でしりもちをついている。その顔は蒼白で、濡れ羽色の髪がいっそう血の気のなさを引き立てていた。
「でんか、どうなさったのですか!?」
「パ、パット……!」
かちかちと歯を鳴らしながら、アレクサンダーはぎゅっとパトリックの胸に飛び込んでくる。とっさの事に驚きながらも、パトリックは何とかそれを受け止めた。季節が一つ違うだけとはいえ一応は年上のはずの主君の身体は、細くてとても柔らかい。今にも壊れてしまいそうな気さえしてきた。
「急にしかくが飛び出してきたんだ……それで、ミセスが私をかばって……」
たどたどしく告げるロイヤルブルーの瞳には涙が滲んでいた。きっと、あまりの恐怖に我を忘れてしまっているのだろう。泣きじゃくる彼の姿からは、とても普段の尊大さはうかがえない。パトリックの背後に隠れたオリビアも、ぎゅっと身を縮ませていた。二人が頼りにならない以上、自分がしっかりしているしかない。眼前の光景から目をそむけたくなるのをこらえ、パトリックは毅然として振る舞った。
衛兵は二人がかりで一人の男を拘束していた。アレクサンダーの部屋の付近には常に三人の衛兵が控えているのだが、恐らく三人目は人を呼びに行っているのだろう。男の手にはてらてらと赤黒く光る短剣が握られている。両の目は血走っていて、その形相はまるで鬼のようだった。
「ミセス、大丈夫ですか!?」
震える二人をなだめながら、パトリックはミセス・ハウエルに声をかける。今ここに、ミセス・ハウエルの介抱をしてくれる大人はいない。それなら、自分ができる限りの事をするべきだ。
「え、ええ。ご心配には及びませんわ。ほんの……そう、ほんのかすり傷ですもの……」
そう言って、ミセス・ハウエルは笑った。しかし瞳に力はなく、頬には脂汗が伝っている。医学の知識などパトリックにはないが、このまま彼女を放置したら危険だという事ぐらいはわかった。
せめてここに兄がいたら。そう思って唇を噛みながらも、何か使えそうなものはないかとパトリックは周囲を見渡す。騎士を夢見るスティーブンなら、応急手当の仕方も心得ているだろう。こういう時にはどうすればいいか、彼ならわかるかもしれない。だが、自分は兄のようにはできないのだ。
どうしよう。どうしよう。答えの出ない問いばかりがぐるぐる回る。そうこうしているうちに、三人目の衛兵が応援を引き連れて戻ってきた。彼らによってミセスは医務室へと運ばれ、短剣を持った男もまたどこか別の場所に連れていかれる。結局三人は、自分達の無力さを痛感しながら廊下の隅で立ち尽くす事しかできなかった。
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