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――――九八三年 桔梗ノ月十四日



 暦の上ではもう秋だとはいえ、夏の名残はまだ強く残っている。じりじりと照りつける太陽が激しく自己主張する空の下で、パトリック達三人は下町という未知の領域に足を踏み入れようとしていた。

 今日もローランド家とチェンバレン家から数人の護衛がひっそりとついてきている。さらに王家からも私服姿の騎士が遣わされていて、下町の空気はほんのわずかだがぴりぴりしたものになっていた。もっとも、その微細な変化に気づくほどの者はいなかったのだが。

 しょせん子供の浅知恵など、権謀術数渦巻く社交界を渡り歩く侯爵達や、水面下で醜い争いを繰り広げる貴族達を統率する国王にはお見通しだ。何事も経験だからと、何も気づいていないふりをして送り出してやったに過ぎない。そんな保護者の気遣いにより冒険に出た三人の子供達を護衛達は微笑ましげに眺めながら、痛みを訴える胃腸を薬でごまかしていた。

 自分達の周囲に親達が手配した護衛がいるとも知らず、パトリック達は好奇心に目を輝かせながら街を見渡す。目に映るすべてが新鮮だった。


「すごいなぁ。街が人であふれているぞ!」

「ちょっと、一人で急に走りださないでくださいまし……!」


 勢いこんで駆け出したアレクサンダーを、オリビアとパトリックはぜぇぜぇはぁはぁと荒い息を吐きながらも追いかける。やっと追いついたオリビアの小言もアレクサンダーはどこ吹く風で、すべての責任をパトリックに押しつけた。


「そうだぞパット。だめじゃないか、勝手に私からはなれたりしたら」

「サンディ……まったく、貴方という人は……」


 しかしアレクサンダーのこの振る舞いは慣れたもので、パトリックは恨みがましい視線を彼に向けるもそれ以上の追及はしない。勝手に走りだしたのはアレクサンダーだし、はぐれるような行動をとったのも彼なのだが、もうそれを訂正するほどの気力はなかった。

 今、三人は『少し裕福な家の子供』として下町に遊びに来ている。一応お忍びのつもりなので、彼らは対等な子供としていつもの主従関係とはまた違った接し方をしていた。しかし、やっている事はあまり変わらない。遊びたい盛りの子供には、身分だのなんだのと堅苦しい事はあまり関係がないのだ。


「ねえ! わたくし、少しつかれてしまいましたわ。お腹も空きましたし、どこかできゅうけいしましょうよ」


 足が痛くてしょうがない、とオリビアは不満そうに唇を尖らせる。下町のどこにいても見える大きな時計台にパトリックが目をやると、針はすでに正午をさそうとしていた。そろそろ休憩がてら昼食を摂ったほうがいいだろう。


「そうですね。一度ご飯を食べてから、また午後から街を見て回りましょう」

「うむ。では、どこかで食事を……ん?」


 言いかけて、アレクサンダーは鼻をひくつかせる。彼は不思議そうに眉を寄せながら、何かの匂いのもとを辿るように周囲をぐるりと見回していた。


「どうしたんですの?」

「あっちのほうから、おいしそうないい匂いがするんだ。これは何の匂いだろう……」


 パトリックとオリビアは、不思議そうに指さされた方角を見る。その途端、風に乗って香ばしい香りが漂ってきた。この匂いは知っている。最近父の書斎に漂っている匂いだ。


「これは……多分、飲み物の匂いです。最近、父様がよく飲んでいるんですよ。名前は確か……こーひー、と言ったような」

「それならわたくしも知っていますわ! わたくしのお父様も、よくそれを飲んでいるんですの。とってもおいしいんですって」

「こーひー……ああ、タリアナ共和国からやってきた飲み物か! という事は、この近くにこーひーはうすがあるのかもしれないな」


 少し離れた国から王国に伝わった黒い飲み物は、上流階級の紳士の間でひそかな流行を巻き起こしていた。貴族街にも専門の店が次々と並ぶようになり、社交場としての人気を高めている。まだ平民の間には浸透していないはずだが、どうやら先見の明がある者が早々に下町にも店を開いていたらしい。

 パトリック達は無言で顔を見合わせた。彼らの父はそれぞれコーヒーをたしなんでいるが、三人が直接飲んだ事はない。これは大人の飲み物だからと言われ、飲みたくても飲ませてくれないからだ。未知の場所の未知の店に置いてある、親が美味しいと言っている飲み物。いつもは飲んではいけないという親も、今日ばかりはいない。今飲まずしていつ飲むというのだろう。


「貴族街にあるこーひーはうすは、軽い食事も摂れるらしいですよ。以前、父様がファーガス侯爵と一緒に、あそこで昼食を食べたそうです」


 ヴィクターはスティーブンの悪友だが、彼の実家であるファーガス家とローランド家は家族ぐるみの付き合いがある。恐らく社交界において、父の一番の友人と言えるのはファーガス侯爵だ。そんな父親同士の付き合いがあるからこそヴィクターとスティーブンは仲良くなったのだろうし、自分もヴィクターによくしてもらっているのだろう。

 いつかの父が上機嫌で語っていたコーヒーハウスの話を思い出し、パトリックは窺うような視線を二人に向ける。どちらもすっかり乗り気らしく、ロイヤルブルーの瞳とワインレッドの瞳は期待に満ち溢れていた。だが、ややあって赤い瞳は哀しげに伏せられる。俯きがちになりながら、オリビアはつまらなそうに呟いた。


「ですけれど、こーひーはうすはしんしの社交場だってお父様がおっしゃっていましたわ。わたくしが行っても……」

「なに、私とパットでリビーの分も買ってきて、外で食べればもんだいないだろう?」

「その通りだ。リビーはその辺で待っていろ。僕達が行ってくるから、帰ってくるまでおとなしくしているんだぞ」


 女性はコーヒーハウスに行かない、というのはいつの間にかできていた暗黙の了解のようなものだ。紳士の社交場という先入観が先行した結果、そのような不文律ができたのだろう。それを思い出し、オリビアはためらう素振りを見せているのだ。だが、アレクサンダーもパトリックもそんな事は意に介さない。


「ふふふ、期待して待っていてくれ。必ずこーひーを買ってくるからな、行くぞパット!」

「サンディ! 急に走らないでください!」


 匂いのもとを辿りながら競うようにして駆け出す少年達の背中を、オリビアは唖然としたように見送る。しかしそれはごく短い間の事で、やがて少女は嬉しそうに顔を綻ばせた。


「……二人とも、ありがとう」


*


「ここが……」

「き、緊張してきたな。パット、お金は足りそうか?」

「もちろん。この日のために、たくさん貯めてきたんですから」


 二人の目の前にあるのは、街の片隅に建つ古ぼけたコーヒーハウスだった。財布をぎゅっと握り、パトリックとアレクサンダーは目くばせをしてコーヒーハウスの扉を開ける。ベルがちりんちりんと軽やかな音を立てた。

 店内に客の姿はない。気難しそうな顔の店主が一人いるだけだ。グラスを拭いていた店主は顔を上げてパトリック達をじろりと睨み、すぐに視線を戻して手を動かし続けていた。


「ここは子供が来るようなところじゃねぇぞ?」


 発された声は低く、静かな威圧感を伴っている。だが、その程度で怯むようなパトリックではない。彼は堂々とカウンターに歩み寄り、精一杯背伸びをして店主を見上げた。


「僕達だって立派な王国しんしだ。この店の客としてのしかくは十分にある」


 アレクサンダーもそんなパトリックの傍に寄り、うんうんと何度も頷く。店主はきょとんとした顔で二人を見下ろした。だが、やがてそのいかめしい顔をふっと和らげる。


「そうかそうか。……悪かったな、小さな紳士と小さな淑女。注文の品は何だ?」

「しゅくじょ?」


 今度はパトリックとアレクサンダーがきょとんとする番だった。パトリックは怪訝そうに振り返って首をひねる。一方、アレクサンダーは怯えたような眼差しを店主に向け、震える声で尋ねた。


「……私が、か?」

「おうよ。ここは紳士の社交場、レディをエスコートする場所としちゃあ不適切なんだがなぁ。今日は特別だ。そこのジェントルマンに免じてやるよ」

「サ、サンディは、」

「いいんだ、パット」


 ぎょっとして反論しようとしたパトリックを、他ならないアレクサンダーが止める。アレクサンダーは頬を緩ませ、店主に指を三本突き立てる。


「こーひーを三つもらおうか。それと、何か食べられるものを」

「ったく、親にでも影響されたのか?」


 店主は苦笑しながらも器具を用意し、手慣れた仕草で作業を始める。香ばしい香りが次第に強くなっていくような気がした。


「パットとサンディ……パトリックとアレクサンドラか。三つって事は、外にも友達がいるのか?」


 “サンディ”というのは、“アレクサンダー”の愛称であると同時に、その女性形である“アレクサンドラ”の愛称としても通用する。“パット”は男性名の“パトリック”あるいは女性名“パトリシア”の愛称になるので、そこから店主は二人の名前を言い当てたのだろう。しかしアレクサンダーはあくまで“アレクサンダー”だ。断じて“アレクサンドラ”ではない。だが、アレクサンダーはそれを訂正しようとはしなかった。


「ああ。とびきり可愛い女の子がね。今日の私達は、パットにエスコートしてもらっているんだ」

「へえ、両手に花ってか。羨ましいねぇ、パトリック」


 あわあわと視線を巡らせるパトリックとは対照的に、店主とアレクサンダーは軽やかに会話を弾ませている。そこにパトリックが入り込む余地はなかった。一体いつ自分がアレクサンダーをエスコートしたのか教えて欲しい、とパトリックは内心で頭を抱える。

 やがて店主は肩をすくめながら、盆の上に三つのカップを並べだした。そのどれもが湯気の立った漆黒の液体で満たされている。それと同時に盆に乗せられた見慣れない揚げ物に、パトリックとアレクサンダーの目は釘づけだ。一体、この食べ物は何なのだろう。


「外の友達も呼んで来い。どうせ他に客はいねぇんだし、店の中で食べてけよ」

「じゃあ、僕がリビーを呼んできます。サンディ、一人で先に食べないでくださいよ」

「い、言われなくてもわかっている! まったく、パットは私をなんだと思っているんだ!」


 何故か新聞紙に包まれている揚げ物に手を伸ばしかけたアレクサンダーははっとその動きを止め、パトリックに向けてべぇっと舌を出す。パトリックは呆れたように眉根を寄せたが、さっさと店の外に出ていった。

 生垣の煉瓦の上に座り、オリビアは所在なさげに足をぶらぶらと揺らしている。コーヒーが手に入った事、そして見た事もないが美味しそうな食べ物も用意できた事を告げると、彼女もまたわかりやすく顔を輝かせた。アレクサンダーが淑女扱いされてもなお気分を害さない事についてはオリビアも首をかしげていたが、結局何も言わずにパトリックについていく。アレクサンダーがいいならそれで構わないのだ。

 ちりん。扉に垂れ下ったベルを鳴らすと、いかめしい顔を少しだけ崩した店主とそわそわと落ち着かない素振りを見せるアレクサンダーが同時にパトリック達を見た。


「二人とも遅いぞ! 早く早く!」


 もう待ちきれない、と言った風のアレクサンダーがパトリック達をせかす。二人は呆れた顔をしながらも、アレクサンダーを挟む形でカウンター席によじのぼるように腰かけた。


「あら? ねえ、ナイフとフォークはありませんの?」


 オリビアがこてんと首をかしげると、店主は大げさなため息をついた。蒸気で蒸らした布を三人の前に並べ、彼は揚げ物を指さす。


「何のために新聞紙に包んであると思ってんだ。それを持って食べるんだよ」

「え……」

「……正気か?」


 パトリックとオリビアは、手元に並べられた揚げ物に胡乱な視線を送る。しかしアレクサンダーはすでに話を聞いていたのか、特に躊躇する事なく揚げ物に手を伸ばした。彼が揚げ物を咀嚼するたびに、さくさくと香ばしい音が聞こえてくる。


「ふむ……少し熱いが、実に美味だな。たまにはこういう食べ方も悪くない。ほら、二人も早く食べたらどうだ?」


 揚げ物をゆっくりと飲み込み、アレクサンダーは華やかな笑みを浮かべた。そんな風に彼に促されては、断るものも断れない。パトリックとオリビアは意を決したようにぎゅっと目をつぶり、揚げ物を口へと運んだ。


「……さくさくしているな」

「悪くはない、ですわね……」

 それから三人はしばらく無言で揚げ物を頬張った。新聞紙で包んであるとはいえ、こうして食べ物を手で掴んで食べた事などない。だが、たまにはこういう食べ方も悪くないようだ。


「それはフィッシュアンドチップスって言うんだ。作り方はさほど難しくねぇから、家に帰ったらパパとママに作ってくれるように頼んでみな」

「なるほど。では、帰ったら料理長に頼んでみよう」


 店主の言葉に、アレクサンダーは頬を緩める。三人がそれなりに身分の高い家柄の子供だという事は店主も薄々察してはいるだろうが、それについては深く切り込まない事に決めたらしい。


「さて。……そろそろいい頃合いだな」


 ごくりと息を呑んだアレクサンダーの視線の先にはコーヒーがあった。湯気はもう立っていない。これなら飲める温度になっているはずだ。三人は顔を見合わせ、おずおずとカップに手を伸ばした。特に音頭を取ったわけではないが、三人はいっせいにコーヒーを口に含む。


『――ッ!?』


 そして、ほとんど同時に悶絶した。その後の反応は三者三様だ。アレクサンダーは思わず咳き込み、荒い息を吐きながら怯えた視線をコーヒーに向ける。ぎょっとした顔のオリビアは素早く口を離し、おしぼりで何度も口元を拭っていた。パトリックは涙目にながらもコーヒーを飲み込み、店主をきつく睨んでいる。


「貴様、僕達に毒を飲ませたな!」

「毒だと思うなら飲み込むなっての。……ったく、これだからお子ちゃまは」


 店主は肩をすくめて背を向け、ごそごそと棚を漁りはじめる。パトリックはがるがると唸るようにその背中を睨み続けていたが、アレクサンダーとオリビアはコーヒーという未知の味に遭遇した衝撃が忘れられないのか、軽い放心状態に陥っていた。

 漆黒の液体はとにかく苦かった。今は冷めているとはいえ先ほどまではもうもうと湯気が立ち込めていたし、その熱さと味からいっても悪魔の飲み物と形容するのがふさわしいだろう。こんなものが美味しいなど信じられない。


「お前らにはエスプレッソなんて十年早いんだ。おとなしくココアにしとけばよかったのによぉ」


 再び振り返った店主はやれやれと首を振り、三人のカップにどばどばと砂糖やミルクを注ぎ入れてかき混ぜる。漆黒はあっという間に褐色に変わり、徐々に白みを帯びていった。砂糖とミルクのおかげか、微かに甘い匂いも漂ってくる。


「ほら、騙されたと思ってもう一回飲んでみろ」

「……二人は少し待っていてください。僕が先に飲みます」


 ローズグレイの瞳を警戒するように細め、パトリックは恐る恐るカップに舌先を伸ばす。その表面を掬い取るように舐めた瞬間、彼は驚きに目を見開いた。


「おいしくなってる……!?」


 苦味はまだある。だが、先ほどとは違ってわずかながらに甘味も感じられた。パトリックの感想を聞き、アレクサンダーとオリビアも疑わしげな眼差しを向けながらカップを手に取る。その顔が、予想をいい意味で裏切られたという驚きに変わるまでにそう時間はかからない。

 店主はどこか嬉しそうだ。そいつはカフェラテだ、と指をさし、店主は簡単な説明をしてくれる。そのほとんどはパトリック達にはちんぷんかんぷんだったが、苦いエスプレッソにミルクと砂糖を混ぜると、共和国でよく飲まれているカフェラテという少し甘さのある飲み物に変わる、というのは伝わった。帝国でよく飲まれているカフェオレだともっと甘くなるらしいが、エスプレッソではカフェオレは作れないらしい。

「コーヒーの味がわかる大人になったらまたここに来い。その時は、最高に旨いコーヒーを飲ましてやる」

「……毒だって言って、ごめんなさい」


 そう言って、店主はにかりと笑う。パトリックは言いにくそうに視線をそらしながら、蚊の鳴くような声で謝罪した。


「食べ物も飲み物も、とっても美味しかったですわ」

「そう遠くないうちに、私達はまたこの店に来る。だからその時まで、貴方の言うおいしいこーひーを楽しみにしていよう」


 パトリックの言葉に追従するようにオリビアとアレクサンダーが口を開くと、店主は笑いながら頷いてくれた。代金をカウンターの上に置き、三人は椅子から飛び降りて店の外へと出る。時間が経ったおかげで雲が出てきたのか、少し涼しくなったような気がした。


「リビーが戻ってきたら、また三人でこの店に来よう。約束だ!」


 何故他国にいかなければいけないのか、いつまでいればいいのか、何をすればいいのか。オリビアに下された詳しい神託の内容は、パトリックやアレクサンダーも知らない。それでも二人は信じた。必ず彼女は祖国に戻ってこられると。


「ええ。その頃にはきっと、わたくし達も立派な王国しんしと王国しゅくじょになっているはずですわ」

「あれを苦いまま飲めるような、ね」


 オリビアは朗らかに笑い、パトリックもふっと微笑む。アレクサンダーはにぱっと笑い、身を翻して大通りへと駆けていった。駆け足で遠ざかっていくその背中はまるで時間は有限だとでも言っているようで、残されたパトリック達も慌ててアレクサンダーの後を追う。この楽しい時間を少しでも無駄にしないために、再び会える時が少しでも早く訪れるように、三人は競うように道を駆けていった。

 少年少女はじゃれ合いながら笑いあう。かわした約束が、いつか必ず守られると信じて。

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