viii

――――九八三年 紫苑ノ月十日



 アレクサンダーの部屋にオリビアの姿はない。彼女はすでに隣国へと渡ってしまったからだ。予定通りの日程で、けれど予想外の後味の悪さで。

 とはいえ、彼らは別にいつだって三人で遊んでいるわけではない。口うるさい『女の子』という生き物がいたらできないような危険な遊び、あるいは興味を示さないような遊びをする時はアレクサンダーと二人きりだったし、現に幽霊屋敷の探索をした時もオリビアはあえて誘わなかった。

 だが、それでもやはりオリビアを含めた三人で行動する事のほうが多かったし、もう彼女に会えないかもしれないと思うと心のどこかにぽっかりと穴が開いたような気分になってくる。そんな中でアレクサンダーが告げたのは、その暗い気分をさらに助長させるものだった。


「あの男は、死刑になるらしい」

「そうですか……」


 その言葉はパトリックの心に深く刺さった。一度会っただけの男なのに、アレクサンダーを傷つけようとした挙句にミセス・ハウエルに深手を負わせた男なのに、どうしてこんなに心が痛むのだろう。


「どんな形であれ、王族に剣を向けた者をゆるしてはならない。前例をゆるせば、王の名が揺らいでしまうから」


 アレクサンダーはパトリックの顔を見なかった。パトリックに背を向けたまま、アレクサンダーは言葉を紡ぐ。


「――そう、たとえあの男が私の命を狙った理由が、神託にあったとしても」

「……え?」


 呼吸が止まった。アレクサンダーは今、なんと言った?


「『第一王子を暗殺しようとするも失敗し、王族暗殺未遂の罪で処刑される暗殺者』。それがあの男の運命だったそうだ。……そしてそんな運命の星の下に生まれてきたのは、あの男だけじゃない」


 パトリックの顔を見ながら尋ねたアレクサンダーは、泣いているのに無理に口角を吊り上げていた。まるで男が死ぬ事なんて何とも思っていないと言うように。

 だが、涙で潤んだロイヤルブルーの瞳は彼が非道の王子を演じきれていない何よりの証拠だ。


「彼らは今までなんのために生きていた? 私は、私と父上はどうするべきだった? しょけいを望む彼らの声をむしし、しんばつにさらせばよかったのか?」


 アレクサンダーは語る。あの男は誰も殺さなかったと。誰も死ななかったと。ミセス・ハウエルも一命をとりとめ、腹部に傷は残るものの大した後遺症はないらしいと。それでも、犯した罪は犯した罪なんだと。

 あの男には妻がいたらしい。仲睦まじいと評判の、貧しいけれど幸せそうな夫婦だったそうだ。それに二人の間には、産まれたばかりの子供もいたという。それでも彼の妻は、彼を処刑する事に決めた王家に恨みごと一つ漏らさずにただ黙って頭を下げたそうだ。


「それとも私も彼らと一緒に死んでやれば、彼らの人生はむだではなかったのか? 彼らを一人で死なせずに済んだのか? 彼らの一生に、少しでもむくいてやる事ができたのか?」


 産まれた子に下された神託は、必ず王家に報告しなければいけない。それは国を担う次代の中枢を市井に埋もれさせないための措置であり、国家を揺るがす犯罪者を事前に見つけるための安全策だ――――だが、誰もがそれに従うわけではないのもまた事実だった。

 昔、国家を転覆させる逆賊となるよう定められた赤子を処刑した国王がいたという。本来なら、王は国を救った賢王として讃えられるはずだった。だが、いかなる理由があれど神は運命を捻じ曲げる事を赦さない。逆賊をまだ赤子のうちから処刑して国家を平定させたはずの王とその重臣は、神の怒りをその身に受けた。そして結局、瞬く間に国家の中枢を喪ったその国は滅んでしまったという。そんな前例があるからこそ、王家に虚偽の申告をする者は後を絶たなかった。下手に運命を覆して神罰を下されてはたまらないのだ。

 幸か不幸か、この国において神託の真偽はその神託を下された当人とその親にしかわからない。子は生まれた時から己の未来を与えられ、親もまた我が子の運命を知らされる。そこに第三者が立ち入る隙はなかった。結局、報告されて集まった神託が正しいかどうかは王でさえも判断できないのだ。きっとあの男も、偽の神託を報告する事で今まで王の目をかいくぐって生きたのだろう。失敗するとわかっている第一王子の暗殺を決行しようとした、あの日まで。

 彼は一体、何を思って今まで生きてきたのだろうか。王子を殺せば問答無用で処刑され、あるいは失敗できなかったとして神罰が下される。決められた時までに王子を殺さなければ、運命を拒んだとしてやはり神託が下される。その死と絶望で彩られた未来には、もはや何の活路も見いだせなかった。


「……耳を塞いでも塞いでも、誰かの声が聴こえるんだ」

 

 壊れた表情のまま、アレクサンダーは小さく呟く。気高いロイヤルブルーの瞳に映る世界は、どんな姿をしているのだろう。


「神の支配から逃げたいって、こんな運命嫌だって。……これは私が、今までころしてきた人々のなげきなんだ。王族あんさつの使命を持って生まれてきたあんさつしゃ達のひめいなんだよ。だけど、それだけじゃない。……この声は、私が守ると決めたこの国の人々の声でもある」


 アレクサンダーはうさぎのぬいぐるみを抱えていた。彼の七歳の誕生日に、パトリックが贈ったものだ。ねことうさぎ、そしてくま。三人でわけた宝物は、パトリックの寝室にも飾られている。


「ねえ、教えてよパトリック――神は、正しいと思う?」


 告げる言葉を間違えれば、きっともうアレクサンダーと一緒にいられない。彼が自分の事を見限ってしまうから。何故かそんな気がした。

 だが、だからこそパトリックは迷わない。嘘偽りのない、本心からの言葉を告げればいいだけだからだ。

 アレクサンダーが自分の事を切り捨てようが、そんな事はパトリックにとって些細な問題だった。その程度で切り捨てられる関係だったらそれまでの事。たとえアレクサンダーに拒まれても、その右腕にはなれなくても、少し離れたところから影のように彼を支える事さえできれば問題はないのだから。


「いいえ。僕はそうは思いません、でんか。人の命をまるでおもちゃのようにあつかう神が正しいだなんて、僕は絶対にみとめませんから」


 パトリックは小さく、しかしはっきりとアレクサンダーの問いを否定した。あいにくと、神の正当性はもちろん必要性すらも彼は一切感じていない。神がいなくても、神託がなくとも人は生きていけるに決まっているのだから。


「……そっか。なら、私も間違ってないんだよね?」


 きっと、アレクサンダーもパトリックと同じように神の正当性を疑問視していたのだろう。パトリックがこくりと頷くと、アレクサンダーは憑きものが落ちたように笑った。壊れてもいなければ歪んでもいない、いつも通りの明るい笑みだ。

 アレクサンダーは涙を拭い、もう一度口を開く。しかし言葉が放たれようとした刹那、ノックの音が響き渡った。


「パトリック様、いらっしゃいますか? ローランド卿がお呼びですが」

「あ、はい! ただいま伺います!」


 聞こえてきたのは侍女頭の声だ。宰相として宮廷で政務をこなす父が、同じく宮廷内にいる自分を呼び出す事はままあった。その多くは宰相の仕事内容をパトリックにも学ばせるためだ。まだ子供であるパトリックが執務室に入っていいと言われるほどに楽な案件ばかりだが、どんな形であれ父の仕事に携われるというのは決して嫌ではない。


「でんか、申し訳ありませんが……」

「気にするな。パットには私の右腕になってもらうんだから、そのための勉強をするのは当然だろう?」

「身にあまるお言葉、光栄でございます。では、僕はこれで」


 アレクサンダーに一礼し、パトリックは部屋を出ていってしまう。そんな彼を寂しげに見送りながら、一人になったアレクサンダーは誰に聞かせるわけでもなく小さな声で呟いた。


「……間違ってるのが私じゃなくて神様なら、いつか本当の事を言ってもいいのかなぁ」

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