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――――九八三年 菊ノ月十四日
「それが、お前の出した結論か」
ソファにもたれて座る父は、どこか疲れたような顔をしながら問いかけた。彼の隣に腰かける母は、哀しそうにローズグレイの目を伏せている。
応接間の壁にかけられた時計は二十時を示していた。弟は今頃、自室で読書か勉強をしているのだろう。あるいは、明日に備えてもう眠る支度をしているかもしれない。
「はい。誰に何と言われようと、もう決めた事ですから」
そんな両親を正面から見据え、スティーブンは決意に満ちた表情で頷く。そんな息子の姿を見て、デニス=ローランドは諦めたように笑った。
「それならば、私達もお前を止めるような無粋な真似はよそう。お前はお前の、自分が信じた道を行くがいい」
「十年前、貴方に下された神託を陛下にお伝えしなかったときから、わたくし達はその覚悟を決めていました。……いいわ、好きなようにお生きなさい。貴方の人生は、貴方だけのものなのだから」
そう呟き、キャサリン・ローランドは顔を上げた。瞳は潤んでいたが、その眼差しは胸を張って息子を送りだす母の慈愛と誇りに溢れている。しかし、二人がそう決断するまでにはきっと長い葛藤の時があったのだろう。両親の想いをひしひしと感じながら、スティーブンは小さく頭を下げた。
「父様、母様、ありがとうございます。……このスティーブン・ローランド、ローランド家の血を引く者として――貴方達の息子として、これからも生きていきたいと思います」
「ああ。……だが、家督はパトリックに譲る。これを今さら変更する気はない。それで構わないな?」
「はい。騎士に家督は不要です。いつ死ぬともわからない身で、家を継ぎたいなどと無責任な事は申しません」
家は弟が継ぐ。それはかなり前から決まっていた事で、スティーブンもそれを承知していた。あんな神託を下された自分が名門侯爵家当主の名を背負うわけにはいかないし、神託を拒んだとしても騎士になるという夢がある以上は爵位など重荷にしかならないからだ。
せめてローランド家が騎士の家系ならば当主自ら騎士として叙勲を受けていてもおかしくないが、ローランド家の先祖は文官ばかりだ。騎士になるには、そんな家の長男というだけならまだしも当主の肩書は少々重すぎる。その肩書は、父の後を継いでこの国の宰相となるパトリックが名乗るべきだろう。
そもそもスティーブンにとっては、勘当されないだけでありがたかった。これから先もローランドを名乗り続けられるだけで十分なのに、そのうえ家督まで欲しいなどと贅沢は言わない。それどころか、『神託通り騎士になるため、家督を弟に譲った男』という評価のほうが欲しかった。
そのほうが、兄を差し置いて当主になった弟を周囲の好奇心に満ちた視線から守れるし、自分達に対する余計な詮索をされなくて済む。そのうえ、実はスティーブンは愛人の子で、侯爵家の家督は本妻の子であるパトリックに……、といった下種な噂話が流れる恐れもなくなるため、両親の名誉を守る事にも繋がるのだ。痛くもない腹を探られるのはごめんだし、根も葉もない噂のせいで家名に傷がつくのもまっぴらだった。いわれのない誹謗中傷を受けずに済む手段があるのなら、それを最大限に活用するつもりだ。
「……そうか。それならいい。さぁ、もう下がっていいぞ。……なるべく早めに眠りなさい。明日の主役はパトリックとはいえ、その兄が寝不足では話にならないからな」
神経質そうな目を優しく細め、デニスは柔らかく笑った。そう、明日はパトリックの七歳の誕生日だ。明日の今頃には、次期侯爵とはいえまだ十の洗礼すらも終えていない幼い子供の誕生日を祝うものとしては少々大げさにも思えるような祝いの席が開かれている事だろう。
貴族の子弟の誕生日というのは、その親にとってめでたい席であると同時に他の貴族に対する武器でもあった。宴の規模や招待状を送れる客など、さまざまなところで家の力を他家に見せつける絶好の機会なのだ。
子供の誕生日を祝う裏側で、大人達は熾烈な争いを繰り広げている。だが、そんな事はまだ幼いスティーブンやパトリックが知らなくてもいい事だ。どうせ貴族社会の中で生きていくうちに知る事になるだろうし、今はまだ純粋に誕生日を楽しんでいればいい。
「はい。では、失礼いたします」
スティーブンははにかみながら立ち上がり、いそいそと応接間を後にした。向かう先は弟の部屋だ。彼に話しておかなければならない事がある。そしてそれは、恐らく今日中に伝えたほうがいいだろう。明日でもいいかもしれないが、できれば早いほうがいい。自分の運命を決定づけるのが、今日の夜中なのだから。
*
「パット、いる?」
「兄様? どうかなさったのですか?」
扉を数度叩くと、すぐに開かれて弟が顔をのぞかせた。どうやらまだ眠る気はなかったらしく、寝台には数冊の本が散らばっている。
「ちょっと大事な話があるんだけど……寝る前に本を読んでいたら、夜ふかしをしてしまうかもしれないよ? 続きが気になって目がさえちゃうからね」
くすりと笑うと、パトリックははっとした顔をしつつも寝台の上の本に未練がましい視線を送った。ノックの音には反応したとはいえ、やはり読書に夢中になっていたらしい。
「明日は大事な日だからね。夜おそくまで起きていて、ねぼうしちゃったらだめだよ」
「わかっています、兄様。……でも、二十一時までならいいでしょう?」
「あはは。しょうがないなぁ。ちゃんと一人で起きるんだよ?」
「もちろんです!」
嬉しそうに笑う弟を微笑ましげに見下ろし、スティーブンは促されるままに部屋に入る。机の上に飾ってある小さなくまのぬいぐるみは、確か三ヶ月ほど前にパトリックが買ってきたものだっただろうか。
「それで兄様、話とは?」
「……僕に下された神託と、ローランド家の今後についての話さ。いいかい、パット。これから話す事はとてもとても大切な事なんだ。だから、しっかり聞いていてね」
スティーブンの様子がいつもと違う事に気づいたのか、パトリックは少し不安そうな顔をしながらも頷いた。そんな弟を安心させるように、スティーブンは目を細めて笑う。
「僕は『さんだつしゃ』になる事が神によって定められている。……僕は王家に刃向かってディオン朝を滅ぼし、この国の王座を奪うんだ。そして最後には、正義の徒によって討ち取られる。それが僕に与えられた未来なんだ――僕はね、生まれついての悪人なんだよ」
「それって……」
パトリックの顔はみるみる色を失っていった。今の彼の頭の中には、何が浮かんでいるのだろう。自分に対する嫌悪や恐怖でなければいいと願いながら、スティーブンは言葉を続けた。
「だけど、僕はその運命を否定しよう。僕の人生は僕が決める。だってこれは他の誰のものでもない、僕自身の人生なんだからね」
そのままスティーブンは滔々と語った。本来なら自分は、今日の夜中に家出しなければならない事。そしてローランド家と決別し、王位を狙う簒奪者として生きる事。それが自身に与えられた、運命だという事を。
けれどスティーブンはそうはしない。このまま家に残って弟の誕生日を一緒に祝い、これからもスティーブン・ローランドとして生きていく。
それは固い決意の言葉だった。母譲りの瞳に宿った強い意志は、たとえ何があろうと揺るがない。それでもパトリックはスティーブンの服の裾を強く握った。
「本当ですか? 兄様は、どこにも行ったりしませんか?」
「もちろん。僕はずっとここにいる。……でもね、パット。僕は家督を継げないんだ。僕がなりたいのは騎士だからね」
一代貴族としての爵位ならともかく、代々続く名門、しかも騎士の家系でもない貴族家の爵位を持つ者が騎士になるなどありえない。騎士というのはいつ死んでもおかしくない職業だ。侯爵家の当主がそうやすやすと就いていい職ではない。
「では、父様の跡を継ぐのは……」
「うん。……パット、ごめん。どうか僕の代わりに、ローランド家を継いでくれないかな?」
パトリックは静かに頷いた。騎士になりたい兄が家督を継ぎたがるわけがない。それはパトリックだって知っていた。いつかそんな選択を迫られる日が来ると、彼は最初から受け止めていたのだ。だからこそ、パトリックは迷う事なく答えを出した。
「ありがとう。これで安心して、騎士の夢を目指せるよ」
「いえ、とうぜんの事ですから。僕は兄様の力になりたいんです。僕にできる事なら、なんだってやってみせます」
そう言って、パトリックは嬉しそうに笑った。その笑顔は、スティーブンが何より好きなものだった。温かくて優しい、その表情が。
もちろんそれは弟のものに限った事ではない。スティーブンが見たいのは誰かの笑顔だ。個人に限定したものではないし、笑顔を浮かべてくれるのなら見ず知らずの他人でもいい。自分がやった事で、言った事で他の誰かが笑ってくれるなら、それに勝るものはなかった。
「こうしてちゃんと話せてよかった。……おやすみ、パット」
「はい。おやすみなさい、兄様」
スティーブンは弟の部屋を後にした。きっとこのあと、弟は寝台に飛び乗って読みかけの本を開くのだろう。
兄弟の寝る時間にはまだ早い。けれどスティーブンは、このすがすがしい気分に浸ったまま眠りにつこうと考えた。
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