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――――九八三年 菊ノ月十五日 午前二時



 目が覚めたのは、どこかで何か騒がしい音がしたからだった。


「んぅ……?」


 パトリックはあくびをしながら起き上がり、目をごしごしと擦る。時計は二時をさしていた。起床時間には早すぎる。もう一度眠ってしまおうかと考えていた矢先、扉が荒々しく開かれた。


「パトリック坊ちゃん!」

「……ジョゼフ?」


 ノックもせずに入ってきたのは、家令のジョゼフ・ボールドウィンだった。初老の家令は長くローランド家に仕えていて、聞けば祖父の代から屋敷にいるという。屋敷の誰より古株で、当主から信頼も厚い。彼の孫はパトリックのいい遊び相手でもあった。


「よかった……ご無事だったのですね!」

「どういいう意味だ?」


 まだ起きたばかりであるせいか、頭はうまく働いてくれない。一体、ジョゼフは何を言っているのだろう。


「ここは危険です! スティーブン坊ちゃんが来る前に早くお逃げください!」

「……まて。どうして兄様からにげなければならない?」


 訝しむように目を細めると、ジョゼフは気まずそうな顔をして目をそらした。その刹那、絹を裂くような悲鳴が響く。それを聞いた瞬間、パトリックの意識は完全に覚醒した。


「どちらに行かれるのですか!?」


 ジョゼフの制止を振り切って、パトリックは部屋の外へと駆けだす。あちこちで使用人が倒れていた。みな、住み込みで働いている馴染みの者達だ。しかし見知った優しげな顔は見る影もなく、彼らの顔はどれも恐怖や驚愕で彩られていた。

 周囲に漂う臭いは生臭く、ねっとりとまとわりついてくる。まるでそれから逃れるように、パトリックは全速力で人の姿を探した。しかし出会う者は誰もが倒れ伏していて、赤黒く汚れている。吐き気をこらえながら、パトリックは階段を駆け下りた。その果てに辿り着いたのはエントランスだ。そこには彼が探し求めていた人の姿があった。

 ――――目に映ったのは鮮やかな赤。頬にまで飛び散った生ぬるいそれは粘ついていて、苦い鉄の臭いがした。



――――九八三年 菊ノ月一五日 午前零時



「うっ……」


 零時を告げる、時計の鐘が鳴り響く。それと同時にスティーブンは目を覚ました。

 喉は灼けるような渇きを訴えている。厨房に行って水でも飲んでこよう。本当は果実水がいいのだが、寝る前に甘いものを飲むのは身体に悪い。寝ぼけた頭でそう考え、スティーブンはゆっくりと寝台から下りた。

 しかし、秋の夜というのは予想以上に冷え込むものだ。小さく身体を震わせたスティーブンは、早く水を飲んで布団に戻ろうと考えながら燭台に手を伸ばした。

 だが、マッチはうまく擦れない。湿気ているというわけではないだろうが、もともとスティーブンはこの動作が苦手だった。さらに寒さから来る震えもあいまって、いつも以上に動きが鈍くなっている。

 やがて彼は燭台に明かりを灯す事を諦め、手探りで寝室の外へと向かった。どうせここは自分の家なのだ。いくら視界が悪くても、家具の配置や間取りなどは大体わかっている。厨房に辿り着く事などわけないはずだ。それに、歩いているうちに目も慣れてくるだろう。

 夜の屋敷は静まり返っていた。家人はもちろん住み込みの使用人達ももう就寝しているはずだ。仮に起きていたとしても、自分の部屋で静かに過ごしている事だろう。もしかしたら明日の仕込みのためにまだ起きている使用人がいるかもしれないが、この静寂から察するとごく少数の者だけだろう。

 寝ている者達を起こさないように、スティーブンはそろそろと足を忍ばせて一階の厨房を目指す。階段を下りる途中で一度つまづきそうになったが、手すりに掴まりながら下りていたためすんでのところで手すりに縋る事ができた。ほっと胸をなでおろしながら、スティーブンはまっすぐに厨房へと向かう。

 厨房の扉からは微かに明かりが漏れていた。やはり、まだ起きていた者がいたらしい。そっと扉を開けると、料理長と二人の料理人が談笑していた。仕込みが一段落ついて、その余韻に浸っているのだろうか。


「おや、スティーブン坊ちゃん。どうなさいました?」


 スティーブンに気づき、料理人の一人がさっと姿勢を正す。料理長ともう一人の料理人も顔を引き締めた。スティーブンは恥ずかしそうに頬を掻く。


「なんだか喉が渇いちゃったんだ。水を一杯もらってもいいかな?」

「少々お待ちください。ただいま用意いたします」


 料理長はきびきびと動き、グラスに氷を入れて銀の水差しを傾ける。喉はまだ灼けつくほどの渇きを訴えていて、その冷たい水は何よりも美味しそうに見えた。

 礼を言ってそれを受け取り、一息に飲み干す。だが、渇きは治まるどころかさらに強まった。まだ足りない。もっと飲みたい。そんな衝動に突き動かされ、スティーブンは手ずから二杯目の水を注ぐ。料理長達は目を丸くしたが、そんなものは気にならなかった。とにかく今はただ、この渇きから解放されたいのだ。

 水差しの水をグラスに注ぐ一連の動作さえまどろっこしくなった頃、水差しは一滴の雫をぽとりと滴らせて沈黙してしまった。どれだけ傾いても、喉の渇きを癒してくれるはずの冷たい水は溜まらない。


「あ……」


 空のグラスに残念そうな眼差しを送り、スティーブンは小さくため息をついた。駄目だ、この程度ではまだ喉の渇きは癒せない。


「坊ちゃん、あまりお飲みになられるとお身体に触りますよ……?」


 やや引きつった顔の料理長がそう忠告するが、スティーブンは聞く耳も持たなかった。飲みすぎてなどいない。むしろまだ飲み足りないぐらいだ。もっと、もっと飲まなければ。


「ぐッ……う、あぁ……」

「坊ちゃん!?」


 小さなうめき声とともに、スティーブンは膝を折った。ああ、早く水を飲まないから。息が苦しくなってきた。灼けるような痛みは全身に回る。もはや寒さなど感じない。水を飲むだけでは足らないだろう。いっそ頭から水を被ったら、少しはこの熱さから解放されるだろうか。

 スティーブンは顔を上げ、水道の蛇口を睨むように見つめた。そしてそれと同時に、水道のすぐ側の壁に並べられた銀色を見つけてしまう。気休め程度とはいえ、自分に束の間の癒しを与えてくれた水差しの色は銀。そして壁に立てかけられたあれも――――

 立ち上がったスティーブンは、震える手を銀色に伸ばす。もしかしたら、あれが自分を救ってくれるかもしれない。そうだ、どうせなら『切れ味の良さそうな』『大きい』ものがいい。その一心で、スティーブンは肉斬り包丁を掴んだ。


「なにをなさっているのですか!?」


 何をなさっているかって? ……自分は、一体何をしているんだろう? 包丁が、どうして救いになると? 包丁の銀と水差しの銀は決して同列ではないというのに。

 だが、スティーブンは自分の身体でさえも制御できない。頭では自らの行動を疑問に思っているのだが、身体はひとりでに動き出すから止める事すらできないのだ。

 それはさながら壊れた人形のようで。まるでこの身体が自分ではない何者かに支配されて操られているような、そんな感覚さえした――――この苦しみから逃れたいなら、その刃物を自らに突き立てろ。そう囁く声が聴こえる事も、そんな錯覚を助長させているのだろう。


「おやめください!」

「離せ!」


 ただ事ではないと気づいたのか、料理長は強引にスティーブンを包丁から引き離そうとする。考える前にスティーブンの身体は動いた。料理長を乱暴に押しのけ、彼は荒い息を吐く――――飛び散った『それ』は哀しい色をしていた。


「……え?」


 スティーブンは戸惑いながら、手元に視線を写した。とっさに握った銀の刃は赤黒く汚れている。料理長は倒れたまま動かない。


「う、うわあああああああああああああ!」


 悲鳴は誰のものだっただろう。まだ若い見習い料理人か、副料理長とも呼べる寡黙な料理人か、それとも自分自身のものか。料理長の身体を中心にしてできた血だまりは、徐々に厨房の床を侵食していく。いつの間にか、自分の足元も赤黒く染まっていた。


「おい、人を呼んでこい!」

「はっ、はいっ!」


 普段は寡黙な副料理長が鋭い声を飛ばす。若い見習い料理人は裏返った声で返事をし、足をもつれさせながらも厨房を飛び出していった。


「……坊ちゃん、そいつを渡してください」


 いかめしい顔のまま、副料理長は手を差し伸ばした。だが、スティーブンは肉斬り包丁を手放す事ができない。いくら彼に渡そうとしても、身体がいう事を聞いてくれないのだ。


「坊ちゃん!」


 業を煮やしたのか、副料理長は声を荒げて一歩詰め寄る。


「ぼ、ぼく……僕の、邪魔を……しないで、よ……?」


 誰かが言った。この男は邪魔だ。

 誰かが笑った。しかし幸運な事に、お前の手にはこの邪魔者を排除できる手段がある。

 だが、スティーブンはそうは思わない――――それなのに、彼は包丁を構えた。その身体は小刻みに震えている。


「ぁ……ちが……」


 言動と思考は噛み合ってくれなかった。違う、副料理長の事を邪魔だなんて思っていない。今すぐにこの包丁を、料理長の命を奪った刃物を、彼に渡してしまいたい。これ以上意にそぐわない事をする前に、無理やりにでも止めてもらいたい。それなのに、どうして。

 言葉が通じないと悟ったのか、料理人は真剣な顔つきで飛び掛かってくる。そしてあっけなくスティーブンは彼に取り押さえられる、はずだった。

 誰かに支配されている感覚はそのままに、スティーブンは包丁を薙ぐ。料理人が自分を捉えるより早く、正確にその喉を抉って。

 ごぽり、と。鮮血が溢れ出て、そのまま彼は糸が切れた人形のようにどたりと倒れた。その瞬間、幼い子供の悲鳴が響く。だが、それが自分のものだと気づくのには数秒の時を要した。

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