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 ――――それから先の記憶は、ひどく不確かで断片的なものだった。 


 思ったよりも肉斬り包丁は使い勝手が悪い。熱に浮かされたまま、スティーブンは包丁の吟味を始めた。どれが一番切れ味がいいだろうかと、自分の腕を使って試し切りをしながら。

 ほどなくして、見習い料理人が侯爵家に仕える騎士達を連れて戻ってきた。いずれもスティーブンが憧れて師事していた、腕の立つ者達だ。しかしいかんせん、彼らは良くも悪くも『スティーブン・ローランド』という少年を知りすぎていた。その心根の優しさをよく知っているからこそ、油断していた。

 血塗れの厨房に眉をひそめながらも、騎士達はスティーブンににこやかな笑顔を向けていて――――彼らがスティーブンの異常に気づくや否や、スティーブンは問答無用で彼らを斬り殺した。警戒心をむき出しにする見習い料理人に至っては、障害にすらなりえなかった。スティーブンがあっさり騎士達を殺した事で、すっかり心が折れてしまったらしい。殺さないでくれと懇願する彼を、スティーブンは泣きながら殺した。

 もうやめてくれ。誰かわたしをとめてくれ。スティーブンは心の中で叫ぶ。だが、その声は堂々と歩く殺人鬼スティーブンにまで届かない。まるで心と身体がすっかり分離してしまったような、その感覚はひどく居心地が悪かった。

 次第に騒ぎは大きくなる。厨房を出てふらふらと廊下を歩いていたスティーブンとすれ違った使用人達は、悲鳴を上げて逃げ惑っていく。だが、中には何故かスティーブンに挑みかかってくる者がいた。スティーブンはためらう事なく彼らを刺し殺し、先に進んでいく。そこに『スティーブン』の意志はない。

 ほどなくして気がついた。自分はエントランスに――――いや、屋敷の外に向かっているのだと。

 そうだ、今日は菊ノ月の十五日。この日はパトリックの七回目の誕生日であると同時に、スティーブンがこの家にいられる期限が終わった日だった。本来ならスティーブンは、午前零時の鐘がなる前に出奔していなければならない。

 だが、スティーブンはそれに叛いた。神託を拒んだのだ。だとしたらこれは、それに対する神の裁きなのかもしれない。もしも今すぐ出奔すれば、神は自分を赦してくれるとでも言うのだろうか。


「スティーブッ!」


 夢遊病患者のようにおぼつかない足取りで歩くスティーブンを呼び止めたのは、父の悲痛な声だった。スティーブンはぎこちなく振り返る。予想通り、寝間着の上から上着を一枚かけた両親がいた。どうやら自分が起こした騒ぎは彼らをも叩き起こしてしまったらしい。この分だと、弟も起きてしまうだろうか。


「ああ……そんな……! 神よ、なんて残酷な仕打ちを……」


 キャサリンはローズグレイの目を見開き、わなわなと震えている。虚ろな息子の瞳から伝う涙は、この凶行が彼の望んだものではないという事を如実に示していた。

 デニスは無言のまま、悔しげに顔を歪める。不幸にも聡明だった……聡明すぎた男は、最後の最後で選択を誤ったのだ。この国の宰相として、侯爵家当主として、長男の自由を認めなければ。長男を罪人として捕えていれば。この悲劇は起こらなかったはずなのに。

 しかし、デニス・ローランドは政治家である前に、貴族である前に、スティーブン・ローランドの父だった。彼を切り捨てる事を、父の情が赦さなかったのだ。接し方がわからなくても、愛し方がわからなくても、自分なりにスティーブンを愛そうとした。そんな自らの甘さが招いた事態を、デニスは苦々しく受け止める。

 息子を、国家を揺るがす大罪人にしたくなかった。その結果がこれだ。確かにスティーブンは逆賊にはならないだろう。その代わり、彼は大量殺人鬼になった。一体、どちらが彼にとって幸福だったのだろうか。

 デニスは力なく膝をついてうなだれた。数多くの『暗殺者』達を処刑台に送ってきた、そのつけがようやく自分に回ってきたのだ。『簒奪者』の息子が産まれて来た時点で、こうなる未来は決まっていたのかもしれない。それでも生まれた子は心から愛そうと決めていたのに、このざまだ。

 自らが犯した罪に、そして息子に下された裁きに巻き込まれてしまった罪のない命に詫びながら、デニスはただ笑った。彼はよろよろと立ち上がって腕を広げ、スティーブンに一歩近づく。


「神よ。唯一神ハーヴェよ。人の子の身体を操り、狂気の喜劇を上演するのは楽しいか?」

「父様……」


 スティーブンは呆然と立ち尽くしていた。包丁を握った腕はだらりと垂れさがっている――――もしや、神の支配が弱まっているのだろうか。それならば、あるいは。

 戸惑うスティーブンを優しく抱き寄せた瞬間、デニスはそれが思い違いである事を知った。だが、顔を苦痛に歪める事だけは彼の矜持が、親の意地が許さない。顔を歪める代わりにデニスは笑い、スティーブンの頭を優しく撫でた。


「スティーブ、お前一人を死なせはしない――自由を望む事が罪だと言うなら、その背中を押した私にも責任があるから、な……」


 願わくばパットは起きてしまわない事を。せめて彼だけは何も知らないまま、夢の世界にいられる事を。あるいは妻とともに、二人で安全な場所に逃げてくれる事を。……いや、妻の事だから、逃げずに長男に抗おうとするかもしれない。それとも、この神は妻を逃がしてはくれないだろうか。

 だが、それでも妻はこう言うだろう。もしも神が屋敷の人間を皆殺しにするつもりでも、自分が狙われている間に他の者が逃げられるなら本望だ、と。

 ふがいない親ですまない。たった一人で遺してしまう次男に深く謝罪し、デニスは静かに目を閉じた。

 スティーブンは、重くのしかかる父の身体を気だるそうに押しのける。父が大理石の床に叩きつけられた音に少し遅れて、母の悲鳴が響き渡った。

 父の背中に深く刺さった包丁はなかなか抜けない。スティーブンは早々に包丁を諦めた。代わりにデニスの上着を漁って、いつも彼が身につけていた短剣を手に取る。

 息子が夫を殺すさまを目の当たりにしたキャサリンは、凍りついたように動かない。だが、その唇は微かに震えていた。


「やめ……なさい……」


 紡がれるのはか細い声。短剣を鞘から抜き取るスティーブンをめつけながら、キャサリンは制止の言葉を叩きつけた。


「人の息子を、おもちゃにするのはやめなさい!」


 その子はわたくしとデニス様の子で、パットの大事な兄さんなの。決して貴方の人形なんかじゃない。何者かに向けた言葉を吐きだしながら、キャサリンはスティーブンに掴みかかった。それは子を守ろうとした母が振り絞った最大限の勇気だ――――しかし哀しいかな、神の前では家族の絆など意味をなさない。

 誰かが階段を駆け下りる音がした。その足音は、徐々にこちらに近づいてくる。しかしスティーブンは構わずに短剣を振りかざし、母の胸を軽々と切り裂いた。噴き出した鮮血は周囲を盛大に染める。

 その瞬間、何者かによる支配が弱まったのをスティーブンは感じた。一時的とはいえ、身体の主導権が再び自分の手に戻ってきたのだ。しかし、それは最悪のタイミングでしかなかった。


「うそ……でしょ……?」


 たとえ意識が戻っても、勢いよく振り下ろされた腕がもたらした結果を変える事はできない。スティーブンは目を見開き、眼前の惨劇を拒絶するようにそう呟く。しかしこの場にはもう一人、そう叫びたい者がいた。

 鮮血を撒き散らしながら崩れ落ちる母の向こうに立っていたのは、彼女と同じローズグレイの瞳をもった少年で。

 母の血は、彼の顔や身体はもちろん父譲りの銀灰色の髪まで赤く汚していた。しかし滴る返り血を拭う事もせず、少年――――パトリック・ローランドは呼吸する事すら忘れてそこに立っていた。

 同じ色をした瞳が交差する。望まないままに殺戮者となった兄と、凶事に居合わせてしまった弟。そんな悲劇きげきの邂逅を、神はただ悦びながら眺めていた。

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