xii
「パット……?」
驚きに目を見開き、スティーブンは呆然とパトリックを見つめる。パトリックは悲鳴を噛み殺し、震える声で問いかけた。
「何を……何をしていらっしゃるのですか、兄様……!?」
白い床は徐々に紅く染まっていく。冷たい床に横たわる両親は微動だにしなかった。どれだけ揺り動かしたって、二人が目覚める事は二度とないのだろう。
「ち、ちが……僕だって……こんなこと……したいわけじゃ……!」
スティーブンは否定の言葉を紡ごうとするが、その手に握られている血に汚れた短剣は彼の罪そのものだ。たとえ自分の意志で罪を犯していなくとも、どれだけ罪から目を背けても、その事実だけは消えはしない。
「神託、ですか……? これが神託だというのですか!? それともこれが神の裁きなのですか!?」
だが、聡い弟はすぐに気づいた。兄が無実の大罪人である事を。スティーブンはがたがたと震えながら頷く。ローズグレイの瞳からは一筋の涙が伝っていた。毒々しい赤色の中で、それだけが透き通っていて場違いなほどに美しい。
「嫌だ……死にたくない……」
肌に触れた冷たい刃に怖気づき、スティーブンは思わずそう呟く。だが、すぐにそれを後悔した。
行動と噛み合わない言葉は、彼の心の叫びだ。悪魔に操られている事に対する悲鳴だ。そして、それに応えられるのはパトリックしかいない。だが、彼がひとたびスティーブンを助けようとしてしまえば――――彼もまた、裁きの対象になる。
自分が親や使用人を殺したのは、きっとそのせいだ。自分が殺してしまった者達は、みな刃物を持った自分を止めようとしていた。それが神罰執行の妨害に当たると見なされ、スティーブンと同じように罰を与えられたのだ。殺人鬼と化したスティーブンから逃げ惑った者達は裁きの対象になっていないから、神も彼らを見逃したのだろう。
せめて彼らが妨害したのが神託だったら、罰を受けるのは自分一人で済んだのに。神罰の執行は妨害してはならない。妨害した者も、妨害された者も同罪だ。
だが、まだ間に合う。もうこれ以上、罪を重ねる前に。せめてパトリックだけは。自分が死ぬ事でしか、自分を止められないのなら。もう誰も殺したくない。どうか、どうか。
「おやめください!」
「ッ!?」
しかし、そんな祈りは届かなかった。いや、パトリックもわかっていたかもしれない。自分が手を出したらどうなるか。それでも彼は、スティーブンを止めようとした。
パトリックは小さい身体を精一杯に動かし、スティーブンの手から短剣を奪おうとする。このままパトリックに短剣を渡してしまえばどれだけ楽になるだろう。だが、神はそれを許さない。スティーブンは、スティーブンの身体を操る神は、弄ぶようにパトリックの手をかわして抵抗した。
しかしその拍子に、短剣がパトリックの顔を強く抉ってしまう。返り血のせいで視界が狭まり赤く染まった。それと同時に感じたのは、何か柔らかいものを取り返しのつかないほど歪ませてしまったような感覚だ。
「ぁぐッ――!」
声にならない呻きを漏らし、パトリックは傷口に手を当てた。その瞬間に隙が生まれる。そしてスティーブンは、その身体を乗っ取った神は、その隙を見逃さない。
「……ごめんね、パトリック」
微かに残る自我に従い、スティーブンは口を開いた。もう『自分』という存在そのものが危うくなっている。ほんの一瞬でも気を抜けば、わずかに保った理性ごと神に侵食されてしまいそうだ。
「にい、さま……?」
信じられないとでも言いたげに、パトリックは唖然としながら腹部を赤く染めゆく刃を見下ろした。しかしそれはごく短い間の事で、すぐにパトリックは崩れ落ちる。
ああ、ついにやってしまった。ついに弟まで、この手にかけてしまった。
だが、幸か不幸かパトリックはまだ息があった。自ら手にかけた弟が息を引き取る瞬間を、スティーブンは目にしなくても済んだのだ。自分で弟を殺そうとしておいて、なんて勝手なんだろう。スティーブンはつくづく自分の事が嫌いになった。
荒い息を吐きながら、弟は恐怖に引きつる顔を上げる。スティーブンは絶望と諦観が入り混じって歪んだ笑みを浮かべ、震える手を伸ばす弟の姿を目に焼きつけた。多くの者の命を奪い、彼自身をも傷つけた自分を、弟はまだ助けようとしてくれるらしい。パトリックはまだ、自分を兄として見てくれるのか。
「うっ……あ、ぁぁぁッ……!」
それでもスティーブンの身体はパトリックを拒む。小さなその手を踏み躙ると、弟の顔が苦痛に歪んだ。短剣は一度喉元を離れ、彼の背中めがけて振り下ろされる。赤い雫がぴちゃりとスティーブンの頬に飛び散った。徐々にパトリックの瞳から光が薄れていく。
「――やっぱり人は、神様には勝てないんだよ」
もう遅いのだ。自分を止めるにはこの命を絶つしかない。それ以外の手段など、神の前には通用しなかった。
人は神には、唯一絶対の支配者には勝てない。この世界を創りたもうた存在に、この世界で生かされる卑小な自分が逆らおうと思った事が間違いだったのだ。
そんな生き方は嫌だと嘆いても喚いても、何も変わらない。だから行動に移そう。自分の力で未来を切り開こう。そう思った事こそが、自分の犯した過ちなのだ――――人形には人形としての生しか、赦されてはいないのに。
* * *
「ぼっちゃ――ッ!」
パトリックを追って階段の前までやってきたジョゼフ・ボールドウィンの目に入ったのは、思わず顔を背けたくなるほど鮮烈な赤だった。
「そんな……」
血だまりに沈むのは、彼が長らく忠義を捧げてきた一家だ。その変わり果てた姿は見るも無残なものだった。かれこれ六十数年ほど生きてきたが、これほど凄惨な光景は初めて見る。
むせ返る血の匂いに吐き気を催しながら、ジョゼフはふらふらと階段を下りた。デニスの背中には深々と包丁が突き刺さっている。それはとても非力な子供の仕業とは思えず、やはりこの惨劇を演出したのは何か人外の――――そう、例えば悪魔のようなモノである気がした。
幸か不幸か、ジョゼフは突如乱心したというスティーブンをその目で見ていない。年季の入った侍女が私室で眠るジョゼフを叩き起こして真夜中の惨劇の詳細を告げるまで、彼は何も知らずに深い眠りに落ちていた。彼が屋敷の異変に気づいた時にはもう、複数の使用人がスティーブンに殺されてしまっていたのだ。
スティーブンの様子がおかしい事、同僚が次々と彼に殺されていく事を侍女から聞いたジョゼフは、まっさきにデニスとキャサリンの寝室へと向かった。そして二人にパトリックの事を頼むと言われ、大急ぎでパトリックの寝室へと赴いたのだ。
だが、こんな事になるなら行かなければよかった。どうしてあそこでパトリックを抑えられなかったのだろう。自分がパトリックを行かせなければ、彼だけは死なずに済んだかもしれないのに。
自責の念に駆られながら、ジョゼフはエントランスを歩く。足音だけがかつんかつんと虚しく反響していた。それを聴いているのは、ジョゼフ以外には死人だけだ。
それでも諦めきれず、ジョゼフは本当に彼らが死んでいるのか確かめようとする。おびただしいほどの血に胸元を染めたキャサリンの絶命は明らかだし、首の切り裂かれたスティーブンが今も生きているとは到底思えない。自分の行為は希望という名の幻想に縋るだけの無意味な行為だと、ジョゼフも薄々わかっていた。
しかし彼は気づく。よく耳を澄ますと、自分の足音以外にも聞こえる音があるのだ。か細くて今にも途切れそうな、か弱い呼吸が。
「……パトリック坊ちゃんッ!?」
足元でうつぶせに倒れていた少年のもとに駆け寄る。やはりパトリックも出血がひどく、その瞳は固く閉じられていた。だが、身体はほんのわずかに上下している。これが幻聴で、これが幻覚でないのなら――――もしかすると、助かる命があるかもしれない。
ジョゼフは慌ててパトリックを抱き起し、自らの身体が血で汚れる事も厭わずに彼の胸に耳を当てる。微かではあるが、確かに鼓動が聞こえてきた。しかしこの傷では、一刻の猶予も許されないだろう。即座に覚悟を決めたジョゼフは、ぐったりとしたパトリックの身体を抱きかかえて夜の街へと飛び出した。
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