xiii
――――九八三年 菊ノ月十八日
窓から差し込んだ朝日は部屋を柔らかく照らしていた。しかしその日射しも、寝起きの者にとっては不快なものでしかない。
パトリックは煩わしげに目を開ける。だが、そこは見慣れた自分の部屋ではなかった。薬の匂いが漂う室内には、銀でできた盆や皿、そしていくつもの薬瓶が並べられている。一体、ここはどこだろう。
「お気づきになられましたか?」
「……ジェイソン……せんせい……?」
いつもより視界が狭い気がする。疑問に思いながらも周囲を見渡すと、寝台の脇に座っていた禿頭の老人が目に入った。かかりつけの医師であるジェイソン・デューイだ。
「ジョゼフさんがここまで貴方を運んできてくださったのですよ。ご無事で何よりです」
宮廷医師であるジェイソンは貴族街の一角で施療院を営んでいて、多くの上位貴族が彼の世話になっているらしい。だが、自分は何故こんなところに運び込まれたのだろう――――そう思った途端、血の惨劇が脳裏をよぎった。
「せんせ――ッ……!?」
「まだ起き上がってはいけません。傷が完全に塞がったわけではありませんから」
がばりと身を起こしたパトリックは、突如走った激痛に顔を歪める。ジェイソンは痛ましげに目を伏せながら、優しくパトリックの身体を横たえた。
荒い呼吸を繰り返しながら、パトリックは改めてジェイソンを見上げる。その時、彼は初めて気がついた。ジェイソンの様子がおかしいのだ。
「……ぅえ?」
「どうかなさいましたか?」
まじまじと自分の顔を見つめるパトリックに、ジェイソンは怪訝そうな顔をする。それに構わずパトリックは手を伸ばした――――ジェイソンの手足や首に巻きつけられて天井へと伸びる、黒い糸のうちの一本に。
「――ッ!」
それに触れた途端、ひどい頭痛に襲われた。パトリックは慌てて手をひっこめて頭を押さえる。そして彼は見てしまった。自分の手首にもまた、同じような黒い糸が巻きつけられてぶら下っている事を。
糸は途中で切れている。ジェイソンに巻きつけられた糸のように、ぴんと張ってはいない。それどころか糸が絡みついている感覚さえなかった。
「大丈夫ですか? まだ安静にしていたほうが……」
呆然とするパトリックの真意に気づかず、ジェイソンは気づかわしげな言葉を投げかける。パトリックははっとして顔を上げた。
(さっき黒い糸に触れた時に、頭に流れ込んできたのは……あれはまさか、先生に下された神託……?)
ジェイソンの黒い糸に触れた瞬間、パトリックの頭を駆け巡ったものがあった。それは映像であり、文章だ。そしてそれは恐らく、ジェイソンの半生と彼にまつわる神託を示しているのだろう。
誰かの記憶を背景にして、誰かの半生を綴った年表のようなものが頭に浮かび上がり、神託らしき文言が渦巻く。それは異様な光景だった。パトリックは黒い糸に怯えたような視線を向け、今見たものは忘れようと心の中で呟く。それと同時に、彼は絡みつく糸を必死に
「……先生、父様達はどちらにいらっしゃるのでしょう」
妙なものを見てしまった。早く見知った家族の顔を見て安心したい。そんな思いで紡がれた言葉を、ジェイソンは愕然とした表情で受け止める。彼は言いにくそうに視線を彷徨わせ、慎重に言葉を選ぶかのように口を開いた。
「あ……それは……えー……」
「早くおしえてください。父様達にはいつごろ会えますか?」
きっと全員無事だ。父様も母様も兄様も、なんとか一命をとりとめたに決まっている。自分は生きているのだから、彼らが死ぬ道理はない。
そう自らに言い聞かせ、パトリックはキッとジェイソンを睨むように見上げる。何を言いよどむ必要があるのだろう。ジェイソン先生は腕利きの医師。当然、両親や兄も助かったはずだ。
「申し訳ございません。使いをよこした時にはすでに遅く……」
頭を勢いよく殴られたような気がした。
「……え?」
嘘やごまかしは通用しないと悟ったのか、ジェイソンは俯きがちに言葉を紡ぐ。
「……ジョゼフさんが貴方を見つけた時には、すでに旦那様がたは――」
そんなはずがない。暗殺者に腹部を刺されたミセス・ハウエルは生きていた。自分だって生きていた。それなのに何故、兄に刺された両親は死ななければならない?
これはきっと何かの間違いだ。ジェイソン先生は僕に嘘をついている。そうに違いない。パトリックは怯えたような目をしながら、引きつった笑みを浮かべた。
「先生、つまらない冗談は、」
「パトリックっ!?」
パトリックが口を開いた瞬間、病室の扉が開かれる。現れたのはアレクサンダーだ。
「う、うわあああああああん! パット、パトリックぅぅぅ!」
「で、殿下!? まだお見舞いにきてはならないとあれほど、」
アレクサンダーはまるで弾丸のような速度でパトリックの寝台に駆け寄り、縋るようにわんわんと泣き始めた。
彼は泣きながら何か言っているが、その言葉はまったく聞き取れない。ただ、ものすごく心配されていたというのは伝わってきた。その勢いに押され、思わずパトリックも謝罪の言葉を口にしてしまう。それでもアレクサンダーは泣き止まず、ジェイソンに引きはがされてからも泣き続けていた。
「殿下、お気持ちはわかりますが、パトリック様はまだ本調子とは言えません。パトリック様のお身体に障ってしまいます」
「……そう、だな」
ジェイソンに言い聞かされ、アレクサンダーは不服そうな顔をしながらもこくりと頷く。ロイヤルブルーの瞳にはまだ涙が光っていた。
「私が泣いていても、仕方がない……」
こんな言葉が適切かどうかはわからないが、と前置きし、アレクサンダーは涙を拭ってぎこちなく笑う。やはり彼の身体にも黒い糸が巻きついていたが、ジェイソンはもちろんアレクサンダーもそれに気づく素振りはなかった。
「――せめて君だけでも助かってよかった、パトリック」
「でんか……」
その一言で、パトリックは理解してしまった。やはりジェイソンの言った事は真実だったのだ。
もう誰もいない。父も母も殺された。兄に――――兄の皮を被った
そして兄でさえも死んでしまった。自分だけが生き残った。神に命を狙われてなお、生き延びた。しかし、この生に何か意味はあるのだろうか。
「……さて。私はまだ仕事があるので、そろそろ失礼させていただきます。パトリック様、何かありましたら、寝台の脇に置いてあるベルを鳴らしてください。殿下も、あまりパトリック様に無理をおっしゃりませんように」
「もちろんだ。もうとりみだしたりはしない」
恥ずかしそうに目をそらし、アレクサンダーは小さく呟く。ジェイソンは苦笑して部屋を出ていった。
「しかしパット、もう平気なのか? 本当はまだ寝ていたほうがいいんじゃないか? なんなら私は、」
「大丈夫、です。……どうか、そこにいてくださいませんか、でんか」
消え入るような声で呟き、パトリックは今にも泣きだしそうに顔を歪めた。傍に誰かがいて欲しい。自分は孤独ではないのだと、自分は一人ぼっちではないのだと、それを証明したいから。
シーツをぎゅっと握りしめたパトリックの指を優しく離し、アレクサンダーはその手を握る。寝台の傍に置いてあった椅子に座り、アレクサンダーはパトリックを安心させるようににこりと笑った。
「……わかった。なら、私は君の傍にいよう。君が私の事をうっとうしいと思う時までな」
「ありがとう……ございます……」
繋がれた手は温かい。伝わってくる温もりに、思わず涙があふれてきた。アレクサンダーは何も言わず、静かに泣き続けるパトリックの傍で目を閉じている。
「……お見ぐるしいところをお見せしました」
疲れたように笑い、パトリックは空いた手で目を拭おうとして――――気づいた。左目からは一滴も涙が流れていない。
不思議に思い、顔の左半分をぺたぺたと触る。まるで布でも触っているかのような、柔らかいが明らかに人の肌ではない不思議な感触がした。
「パット! あまり触らないほうがいい!」
そんなパトリックの様子に気づいたのか、アレクサンダーは慌てて立ち上がってパトリックの手を掴み、その顔から引き離そうとする。しかしその勢いが強すぎたのか、手を掴んだのはいいものの身体の均衡を崩してしまった。つんのめったアレクサンダーは、そのままパトリックの上に覆いかぶさるように倒れ込む。
されるがままのパトリックは、苦痛に顔をしかめながらも戸惑ったようにアレクサンダーを見上げた。アレクサンダーは慌てて飛び退き、ばつが悪そうにもにょもにょと弁明の言葉を口にする。
「すまない。だが、いくら包帯の上からといっても、触りすぎると傷が……」
だが、パトリックはそのほとんどが耳に入っていなかった。彼の頭の中は、偶然触れてしまったアレクサンダーの黒い糸の事で占められていたからだ。
「……でんか。一つだけ、よろしいでしょうか」
「ど、どうした!?」
不自然なほどに過剰に反応するアレクサンダーに、パトリックはごくりと息を飲んで二の句を継げる。これを尋ねる事で大事な何かが壊れてしまうような、そんな気さえした。だが、知ってしまった以上はもう後には引けない。
「おそれながら申し上げます。でんかは――王子でんかではなく、王女でんかだったのですか……?」
「な……」
時間が止まったような気がした。アレクサンダーは絶句して、凍りついたように動かない。ああ、やはり自分は禁忌に触れてしまったのだ。今更ながらにそれを悔やんだパトリックは、せめてこれ以上亀裂を大きくしないようにと言葉を重ねる。
「……申し訳ございません。今のしつもんは、わすれてください」
しばらくの間、答えは返ってこなかった。永遠にも思えるような長い沈黙の後、アレクサンダーは引きつった笑みを浮かべる。
「気にする事はないさ。それはそれとして……すまないが、急用を思い出してしまったんだ。私はそろそろいとましよう。……また明日、かならず来るから」
それだけ言って、アレクサンダーは逃げるように去っていってしまった。痛む傷口のせいで起き上がれないパトリックは、それを見送る事しかできなかった。
(なんだかすごく……疲れた、な……)
再び室内に静寂が戻り、パトリックは気だるげに目を閉じた。ジェイソンとアレクサンダー、二人に巻きつけられた黒い糸に触れた事による頭痛に加え、何故か左目までも熱を帯びたように熱く、灼けつく痛みを訴えている。
早くこの痛みを忘れたい。パトリックはその一心で、意識を手放すように眠りについた。
復讐劇に役者は何人必要か 角見有無 @Ca_D_mium-48
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