iii

――――九八三年 薔薇ノ月十日



「はぁっ!」

「うわぁっ!?」


 侯爵家の庭園に、木刀をぶつけ合う音と幼い子供達の声が響く。ローランド侯爵の息子達、スティーブンとパトリックだ。

 力強く振り下ろされた木刀を受け止めきれず、パトリックはぺたんとしりもちをつく。その拍子に、彼が握っていた木刀は手を離れて遠くに飛んでいってしまった。


「なんだ、もう終わりなの?」


 木刀を携えたスティーブンはにやりと笑ってテラスに向かい、置いてあった二枚のタオルを取る。そしてそれを手に戻ると、悔しげなパトリックの頭上にタオルを落とした。

 パトリックは兄を睨むが、そんな弟の様子など気にも留めずにスティーブンはそれでがしがしとパトリックの頭を乱暴にこする。ただでさえ蒸し暑いこの季節に運動をしていたため、兄弟はすっかり汗だくだった。


「僕が目指しているのは文官です! 剣の腕など……」

「あはは、たまにはこうして身体を動かすのも大事なんだよ? 書類ばかり見ていたら、いざという時に身体が動かないからね」


 兄の手を払いのけながら、パトリックはぷいとそっぽを向いた。そんな弟を見てスティーブンは苦笑し、もう一枚のタオルで額の汗を拭う。

 初夏であるせいで空気は蒸し暑いが、滴る汗はなにも気候ばかりが理由ではない。兄の稽古に無理やり付き合わされたせいで、パトリックの息はすっかり上がっていた。スティーブンはスティーブンで、パトリックが来るまでは一人で素振りをしていたので、その分の疲労が影響しているのだろう。


「まあ、そんな時が来ないようにするのが僕の役目なんだけどね。文官までもが剣を取らなければならないような事態なんて、できればごめんこうむりたいよ」

「……兄様は、やはり騎士を目指しているのですか?」


 そう尋ねたローズグレイの瞳は不安そうに揺れていた。同色の瞳を優しく細め、スティーブンはそんな弟の頭を撫でる。癖のないまっすぐな銀灰色の髪は、兄の手によって優しく梳かれていった。


「もちろんさ。神だけがこの世界のすべてではないんだからね」


 ――――この世界が神に支配された世界である事は、この世界に生きる者なら誰もが知っていた。しょせん人間は、敷かれたレールの上を歩く人生しか用意されていないのだ。

 人はみな、生まれ落ちた瞬間に授けられた神託に従って生きる。恋愛も、将来も、すべてが神の思し召しだった。パトリックは神など崇めていないが、周囲のすべてがそうであるわけではない。神託を鼻で笑うパトリックとは対照的に、周囲はやたらと神託を推し、押しつけてくる。そんな彼らに流されるように、パトリックも漠然と神託を受け入れていた。

 政治的要職に就く者を多く輩出する名門侯爵家の次男として生まれたパトリックに授けられたのは、『宰相』という職と『栄光が約束された、幸福な一生』だ。そういった意味では、彼は生まれながらの成功者と言えるだろう。それが神を楽しませる駒としての人生でしかないという一点を除けば、だが。

 そしてパトリックは、その一点が無性に気になる性質たちだった。なんだかずるをしているような気がするのだ。とはいえ、こんな未来が欲しかったわけじゃないと、成功が約束されている人生なんてつまらないと、人前で堂々と嘆くわけにもいかない。たとえ自分がどう思っていようと、他者から見ればそれは選ばれた者の傲慢にしか映らないからだ。

 得たものだけで言えば、パトリックは神に愛されているといっても過言ではない。敬虔な信者を親に持つのに目も当てられないほど凄惨な神託を下される者がいる中で、自分のように神の力を疑っている者が神に愛されたような未来を手に入れるなど皮肉以外のなにものでもないが。

 そのうえ、神託というのは兄弟間であっても大きな差が生まれる。パトリックが恵まれた神託を下された一方で、スティーブンに下されたのはあまりいいとは言えない神託だった。

 さすがにその内容まではパトリックも知らないが、スティーブンの未来が『騎士』ではないというのは感づいている。スティーブンが剣の道に進む事について、両親は「後悔のないように、好きなようにやりなさい」と優しく笑っているからだ。両親のその反応はスティーブンの選択が神託きょうせいではない事の証明であり、そしてスティーブンの言葉は、彼に下された神託が受け入れ難いものである事の何よりの証明だった。

 しかしパトリックだって、別にスティーブンの選択に異を唱えたいわけではない。ただ、家に縛られなければ頼りもせずに自立した道を選ぶ兄の強さが少し羨ましくて、同時にとても誇らしいだけだ。

 神託があろうがなかろうが、ローランド家の人間であるパトリックは政治的な要職に就く事が求められる。それがローランド家に生まれた者の宿命だ。兄が武官を目指すなら、なおさら彼のぶんまで出世しなければならない。

 とはいえ、パトリックは物心ついた時にはすでに文官を志していた。たとえ神託がなくたって、アレクサンダーの右腕になるために全力を尽くしていただろう。兄がどう生きていようが、パトリックには関係がない。


「神託に従って生きるだけじゃない。自分で未来を作り、自分の力で運命を切り拓いて生きる事だって、僕達にはできるはずなんだ。だからこそ僕は、国を――民を守る力が欲しい。たとえ与えられた使命に叛いたとしてもね」


 そして何より、これほど晴れやかな顔で語るスティーブンに水を差せるわけがない。神から与えられた使命ではなく、自分で見つけた夢のために生きる事で発せられる輝きを、一体誰が奪えるというのだろう。

 手段は違うとはいえ、ローランド兄弟が目指しているものは同じだ。兄が剣を取って国を守り、弟はペンを取って国を守る。何を武器にするかは異なるが、国のために尽くしたいという本質的な部分に変わりはない。だからこそパトリックは朗らかに笑う。


「兄様ならきっとできますよ。僕も応援しています!」


* * *


「毎日毎日、よくもまぁ飽きないものだな。確かに、好きなようにやれと言ったのは私だが……」


 そんな兄弟の様子を屋敷の窓から見下ろしていた神経質そうな顔つきの紳士は、眼鏡を押し上げて小さく呟いた。その傍らに寄り添うように立つ淑女は何も言わずにただにこにこと微笑んでいる。スティーブンとパトリックの親、デニス・ローランドとキャサリン・ローランドだ。


「まったく、スティーブは何を考えているんだか。私には理解できん」


 デニスはやれやれとかぶりを振って深いため息をつく。敵対派閥の貴族の動向は読めるのに、実の子供の心がわからないとはなんという皮肉だろう。人は自分の事を国の行く末すらも見通す烈腕の宰相などと呼ぶが、長男の事もわからないような男には過ぎた評価に違いない。


「あら、喜ばしい事だと思いますけれど? パットだって、まんざらではなさそうですし」

「だが、パットは決して暇ではない。スティーブに付き合って、あれまで夢見がちな事を言いだしたら目も当てられないぞ。あれは私の……この家の跡継ぎだからな。スティーブのように、自由にさせるわけにはいかない」


 次にため息をつくのはキャサリンの番だった。じろりと自分を睨みつけてくる夫に向けて盛大なため息を零し、彼の頬を軽くつねる。


「貴方の愛情は偏りすぎですわ。どちらも平等に愛さなくてどうします。貴方が与えているものと言えば、スティーブには放任の愛でパットには過干渉の愛ではないですか。これでは逆に、兄弟間の溝を作ってしまいかねませんわよ?」


 厳しく接しながらも、その将来に期待するのは弟のほう。その将来については半ば諦めながらも、自由にさせるのは兄のほう。そんな扱いの差は、兄弟同士を嫉妬させて仲違いさせる一因になる。そんな事はデニスにだってわかっていた。だが、それ以外にどうすればいいのかわからないのだ。


「君はそう簡単に言ってくれるがな、これが中々に難しいんだぞ?」


 頬に触れる妻の手をやんわりと外しながら、デニスは苦々しく口を開いた。自分の跡を継ぐ、次期ローランド侯爵である次男には少々つらく当たる事も多い。だが、長男にはあまり口うるさい事は言わなかった。

 それに放任と言ったって、スティーブンの養育そのものを放棄しているわけではない。やりたい事はやりたいようにやらせているし、そのための援助もしている。それなのにこれ以上スティーブンを優遇すれば、パトリックはそれを差別と取るだろう。しかしデニスにできる事と言えば、せめてパトリックにも少しばかりの自由をと、王子やその乳兄弟と何をして遊んでいようと目をつぶる事ぐらいだった。

 パトリックを甘やかせばスティーブンはそれに引け目を感じるだろうし、スティーブンを甘やかせばパトリックはそれに対して不満を持つ。二人をどう扱えばいいのか、それはいつだってデニスの頭を悩ませていた。


「難しい事がありますか。貴方はただ、笑ってあの子達の頭を撫でるか、優しく抱きしめてあげればよいのです。どうしてそう、わざわざスティーブを問題児扱いしつつパットを自分の道具のように扱うのですか?」

「いや、さすがにそこまでの扱いをした覚えは……」

「何をおっしゃいます。スティーブが御前試合で準優勝した時は『しょせんお遊びのようなものだからそう本気になるな』、そんな突き放した事しかおっしゃらないでしょう」

「あれはただの慰めの言葉だ。あと一歩のところで優勝を逃してしまったと、スティーブがあまりにも落ち込んでしまったものだから、」

「それだけではございませんわ。パットが試験で満点を取って帰ってきた時も、貴方ときたら『私の子なのだからそれぐらいできて当然だ』というばかり。他にかける言葉があるでしょうに、少しはあの子達の気持ちも考えたらいかがです?」

「そ、それだって、あいつを認めているからこそそう言ったんだ。親としてパットの実力を誰よりも知っているからこその言葉であって、そうでなければそんな事は言いはしない」

「ええ、何とでも言い繕えるでしょうね。ですが、貴方のそれはわかりにくいのです。その気持ちを汲み取って欲しいと思うなら、もっと相手に伝わるようにおっしゃってくださらないと」


 困惑するデニスをよそに、キャサリンはそっぽを向きながら彼に対する不満をぶつけはじめる。

 やれ貴方のその辛気くさい表情や振る舞いを二人が真似したらどうしますだの、やれすでに社交界で貴方は宮廷の黒幕だの悪の腹黒宰相だのと呼ばれているのにこれ以上悪評がつくような真似をしないでくださいだの、キャサリンの文句はとどまるところを知らない。そしてそのすべてはデニスにぐさぐさと突き刺さって彼の心を的確に抉っていた。

 この神経質そうな顔は生まれつきで、目つきが悪いのは目が悪いからだ。妻に似て柔和な顔立ちのスティーブンはともかく、自分に似ているパトリックは将来、自分と同じ悩みを抱く事になるかもしれない。

 デニスは、悪人面と呼ばれても仕方ない自分の顔を密かに気にしていた。それをごまかすために愛想笑いを浮かべるのだが、すると今度は陰で何か企んでいそうだ、あの笑顔には何か裏があるに違いない、と言われるようになったのだ。

 しかし一度愛想笑いを浮かべてしまえばもう後には引けず、今さら真顔に戻ったところで余計に警戒される。結果、デニスは宮廷内では表情筋がつるまで作り笑いを浮かべ、家ではほとんど無表情でいるという奇妙な生活を送る事になった。ずっと笑い続けるのはいくらなんでも疲れるのだ。

 傷つくデニスをよそに、キャサリンはずけずけと歯に衣着せぬ物言いを続ける。彼女のその、誰が相手であっても臆する事なくそうやって正直に言いたい事を言うところも含めて惹かれたのだが、傷口に塩を塗り込んだうえで風の吹き荒れる外に放置するような真似だけはやめて欲しかった。

 いくら政略結婚とはいえ、時を重ねればその愛は実体を得る。惚れた弱みで強く言い返す事もできないまま、デニスは救いを求めるように再び窓の外へと視線を移した。庭園では、子供達がまた木刀の打ち合いをはじめようとしている。それを見下ろす父の口元には、本人ですら気づかないほどの微笑が浮かんでいた。

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