The First Act 【Who was behind this tragicomedy?】
聖女、あるいは詐欺師と呼ばれた女
――――一〇〇二年 鈴蘭の月二〇日
『わたしは赦されざる罪を犯したと人は言います。ですが、わたしは懺悔をいたしません。
わたしは友に、名誉に、そして何より自分自身に殉じたのです。何を恥じる事があるでしょう。
わたしは神に叛き、人の道に叛いたと人は言います。ですが、わたしは悔い改めません。
わたしはただ、思考停止したまま敷かれた道を歩くのをやめただけ。家畜としての生を拒んだ事に、後悔する必要はありませんから。
いずれわたしは死に、冥府の底へと繋がれるでしょう。ですが、この心臓を震わせるのは恐怖ではありません。これは、この胸の高鳴りは、むしろ喜びといって差し支えないでしょう。
死とはすなわち、この世界から解き放たれる事を意味しています。たとえ行きつく先が地獄であれ、わたしにとってはそれすらも祝福なのです。この世界で生き続ける事、それ以上の苦しみは存在しませんから。
わたしが産まれ堕ちたのは、無慈悲で残酷な男が統べる世界でした。この世界において、わたしはただの人形でした。
わたしには視えていました。神を名乗った男が手繰る黒い糸が、わたしの目にははっきりと映っていました。
わたしはそれを断ち切りたかった。その糸から人々を解放したかった。その結果がこれです。
わたしは、自分の行いが過ちであったとは思いません。これはいつか誰かがやらなければならない事で、だからわたしが立ち上がったのです。』
そこまで書いて、女ははたと手を止める。つい本音と建前が揺れ動いたような文章ができてしまった。
(……『わたし』らしくもない文章ね)
自嘲気味に口元を歪め、女は紙をくしゃりと丸めた。嘘で自らを飾り続けた彼女は、辞世の句でさえも虚飾で彩りたいのだ。もっとうさんくさくて、もっと綺麗事を並べたようなものでなければ、自分の最期の言葉にふさわしくない。
女はしばらく新しい紙に向き合っていたが、ペンは思うように動いてくれなかった。どうしても違う文章が書けないと悟った女は、やがて文をしたためる事をやめて立ち上がる。立ちくらみをこらえて一歩足を踏み出すたびに、足首から伸びる鎖がじゃらじゃらと音を立てた。
「神が伸ばした黒い糸からは逃れられても、人につけられた鎖からは逃れられない。……あはっ、やっぱりあたしが本当に憎むべきは人間だったのかもね。せっかく人形から
鎖の奏でる耳障りな音を聞きながら、女は小さな声で吐き捨てる。鎖のせいか、窓の外を眺めようと壁際に歩み寄る足取りは重かった。
ここは彼女のために用意された独房であり、彼女の最後の城だ。民を欺き神を貶めた彼女は、五日後に処刑される事が決まっていた。
「人形劇に傀儡師は二人もいらない――なんて、どうして思ってしまったのかしらね。人形の数が多ければ多いほど、傀儡師だって必要なのに。結局あたし達は、唯一絶対の支配者という固定観念を捨てきれなかったのかしら」
はめ殺しの窓から見える空は憎々しいほどに青い。黒く染まった女の魂とは対照的に、太陽はさんさんと輝いていた。冬とは思えないほど日射しは温かく、わずかに溶け残った雪は陽の光を反射してきらきらと光っている。
それに少しだけ顔をしかめながらも、女は空を仰いだ。しかし彼女が求めているのは、空の上にあるという楽園ではなく地の底にある冥府の牢獄に繋がれている青年だった。彼に向けて、女は決して届かない言葉を紡ぐ。
「貴方の舞台を動かしていたのは貴方。あたしの舞台を動かしていたのはあたし。……それなら、あたし達の舞台を動かしていたのはだぁれ?」
答えの返ってこない一方的な問いを投げ続け、女はくすりと笑う。それは狂気的でありながら、見る者を虜にするような魔性の笑みだった。
「あたしは貴方の事が大嫌い。だって貴方とあたしはよく似ていて、だけど決定的に違うから」
自ら好んで嘘に塗れた彼女と、自らの心に正直であり続けた彼。つき続けた嘘が暴かれる事はなかったから傀儡師と呼ばれる事のなかった彼女と、犯した罪を糾弾されたから傀儡師の称号を与えられた彼。死ぬ事なんて怖くないと嘘をつきながら魔女として処刑される彼女と、自ら進んで死を受け入れた結果暴君として処刑された彼。
勝ったのは、果たしてどちらだったのだろう――――いや、そもそも自分達は、一体何と戦い何を競っていたのだろうか。
「あたし達の間にあったのは、愛なんて甘い感情じゃなかったわ。貴方が愛していたのは女王様だし、あたしは誰だって愛さないもの」
彼女が憎む青年は、ただ一人の女に殉じた。それは彼の忠義であり、歪んだ愛の形だ。そこに彼女が入る隙はない。
彼女は憎む青年を、ただの一度も異性として見なかった。それは彼女の矜持であり、歪んだ想いの形だ。惚れた腫れたでは断じて片づけられないような、もっとどす黒いものの。
「あれはもっと苛烈で、毒々しくて、禍々しいものよ。それでも仮にあの感情に名前をつけるとしたら――嫉妬、支配欲、所有欲、独占欲? ……いいえ、そんなものでは表現できないかしら」
嫌いだから渇望した。妬ましいから支配したかった。疎ましいから欲しかった。憎いから独り占めしたかった。そんな二律背反の願望は女の心を占拠する。そしてその願いは彼女にとって、一切の矛盾を孕まない。
「ねえ、もしも出逢い方が違っていたら……もしも女王様がいなかったら、貴方はあたしのものになってくれた? ならないでしょう? そういう事じゃないでしょう? だって貴方も、あたしの事が嫌いだったから」
政敵、仇敵、あるいは恋敵。彼女が主役の舞台において、その青年こそ鮮烈な悪役だった。
「仮に何かが少しでも違っていたとしても、あたし達はやっぱり衝突していたのよ。現世ではその衝突が、どちらかが退場してもなお終わらないほど激しいものだっただけなの。でも、来世ではどうなるかわからないわ。……もっとも、あたし達に来世なんてないかもしれないけど」
だから来世なんて贅沢は言わない。冥府でもう一度逢いましょう。真雪の髪を指に巻きつけ、女は哀しげに瞳を伏せた。
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