ACT.Ⅰ 【The happiness that I lost】
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――――983年 菊ノ月十五日
目に映ったのは鮮やかな赤。頬に飛び散った生ぬるいそれは粘ついていて、苦い鉄の臭いがした。
兄と視線が交差する。同じ色をした瞳はどちらも恐怖に揺れていた。自分の世界は赤い色をしている。それなら兄の瞳に映る世界は、どんな色をしているのだろうか。
「パット……?」
「何を……何をしていらっしゃるのですか、兄様……!?」
白い床は徐々に紅く染まっていく。冷たい床に横たわる両親は微動だにしなかった。どれだけ揺り動かしたって、二人が目覚める事は二度とないのだろう。
「ち、ちが……僕だって……こんなこと……したいわけじゃ……!」
兄の手に握られているのは血に汚れた短剣だ。蒼白い顔も返り血に染まっている。そんな兄の姿は醜く、彼が自分の兄であるなどにわかには受け入れがたかった。
――――ああ、そうだ。
「神託、ですか……? これが神託だというのですか!? それともこれが神の裁きなのですか!?」
噛みつくように問いかける。兄はがたがたと震えながら頷いて、ローズグレイの瞳から一筋の涙をこぼした。毒々しい赤色の中で、それだけが透き通っていて場違いなほどに美しい。
「嫌だ……死にたくない……」
流す涙を拭う事もしないまま、兄は短剣を自らの喉元にあてる。行動と噛み合わない言葉は、彼の心の叫びだ。悪魔に操られている事に対する悲鳴だ。そして、それに応えられるのは自分しかいない。
「おやめください!」
「ッ!?」
少年は弾け飛ぶように兄に掴みかかり、その手から短剣を奪おうとする。それでも兄は抵抗した。その拍子に、短剣が少年の顔を強く抉る。視界が狭まり赤く染まった。それと同時に今まで感じた事のない強烈な痛みと、何か柔らかいものが取り返しのつかないほど歪んでしまったような感触が少年を襲う。
「ぁぐッ――!」
声にならない呻きを漏らし、少年は思わず傷口に手を当てた。そして兄は、兄の身体を乗っ取った悪魔は、その隙を見逃さない。
「……ごめんね、パトリック」
「にい、さま……?」
じわり。腹部に走る、鋭い痛み。兄からもたらされたそれは熱くて冷たかった。全身から力が抜けて立っていられなくなる。少年は耐え切れずに崩れ落ちた。ぐわんぐわんと世界が回る。
息が苦しい、灼けるように身体が熱い――――この苦しみから逃れたいなら、自ら剣を取りその胸に突き立てろ。家族のもとに行きたいだろう? 一人ぼっちは、嫌だろう? そんな声が聴こえた気がした。
それでも少年は顔を上げる。自分まで悪魔の囁きに負けるわけにはいかない。絶望と諦観が入り混じって歪んだ笑みを浮かべる兄に向け、少年は震える手を伸ばした。
「――やっぱり人は、神様には勝てないんだよ」
嘆くようなその声は、掠れた吐息とともに少年の耳に届く。兄と慕う人の首から噴き出した色は、滲んだ世界の中でなおも鮮烈に少年の網膜に刻まれて。
家族を喪った少年の、ローズグレイの右目から溢れる涙に色はない。しかし閉ざされた左目から伝う涙は、哀しいほどに緋い色をしていた。
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