7 骨肉(後)

 ヒシャームによるプレセンティナとの交渉は、(その立場からして当然だが)通告というべき一方的なものだった。


「イゾルテ皇女を第3皇子エフメトの妻として迎え入れ、それを以って両国の平和と友好の橋渡しとしたい。それを望まぬということであれば、プレセンティナ帝国はドルク帝国との平和を望まぬものと解釈する」


 ルキウスはそれを読むなりくしゃくしゃに丸めて放り棄てたが、少し考えてから拾い直し、皺を伸ばした。彼は当然断るつもりだが、そうするとドルクはそれを大義名分として攻め寄せて来るのだろう。その時イゾルテの知るところとなるのなら、予め彼から言っておいた方が良いと思ったのだ。

「イゾルテを呼んでくれ。それとムルクスもだ」


 執務室に呼び出された2人は、くしゃくしゃの書状を見せられた。

「別に相手にするつもりはないのだが、いずれドルクがどうだこうだと言い立てて来るだろう。だから事前に伝えておこうと思ってな」

だがイゾルテは、ルキウスの言葉をろくに聞いていなかった。

「…………」

「殿下、大丈夫ですか?」


 イゾルテは自分でも驚くほどに動揺していた。合理的に考えれば彼女がドルクに嫁ぐことはあり得ない。「贈り物」がドルクの手に渡るのはどう考えてもまずいのだ。それに第3皇子が皇帝になると決まっている訳でもないし、もし皇帝になっても嫁の実家に攻め込まないとは限らない。それになにより、わざわざイゾルテと因縁のあるヒシャームに交渉させるところに悪意を感じる。

 この申し出はおそらく、イゾルテに対する嫌がらせと、ペルセポリスに攻め込むための大義名分作りに過ぎないのだろう。ルキウスの言葉を借りれば、秋も深まり晩秋となったということであろう。冬は目前だった。


 だがそういった合理的な思考の裏で、イゾルテは掴み所のない不安を掻き立てられていた。

――私は何に動揺しているのだ? ドルクが攻めてくることに? 大義名分に自分の名を使われたことに? それとも結婚に? 一人で敵の元に赴くことに? 祖国に二度と戻れなくなる可能性に?

 イゾルテは物心がつく前に亡くなった母親の事を考えた。彼女もスノミ人として生まれながらこの国に嫁ぎ、祖国に帰ることなく死んだのだ。

――私がドルクに嫁ぐとしたら、私はプレセンティナの皇女ではなくなるのか? ドルクの皇族として新しい義務を負って生きていくのか?

心が千々に乱れ、とても考えなど纏まりそうになかった。


「……すみません、父上。気分がすぐれませんので、失礼します」

「動揺させたようだな。ゆっくり休むといい」

ルキウスは狼狽する娘を見て、単にドルクに嫁ぐ可能性に怯えているのだと思った。彼はイゾルテに続いて部屋を出ようとするムルクスを捕まえるとその耳元で囁いた。

「私はイゾルテを他国に嫁がせる気など無い。況してドルクなんぞあり得んことだ。いずれあの娘には婿を取ろうと思っている。あの子を安心させてやってくれ」



 帰りの馬車の中でもイゾルテは一言も口をきこうとしなかった。そんな彼女をなんとか宥めようと、ムルクスは言葉を探していた。

「陛下はあのような申し出を受けるつもりはありませんよ。こんな申し出が来る前にさっさと結婚しろ、という遠回しの催促でもありません。それならまず、テオドーラ様に見せるはずですからね」

ムルクスはそう言って笑った。

「それにエフメト皇子は帝位を狙う有力な皇子です。本気で殿下なんか娶るはずがありませんよ」


 何事か考え込んでいたイゾルテも、さすがにこの言葉はスルーできなかった。

「……随分な言い草だな」

「ドルク人は姫のことを『黄金の魔女』と呼んで、たいそう怖がっているそうですよ」

「え? なんで魔女?」

「心を読むとか、人間を金塊に変えるとか言われてるそうです」

漂流船の噂も伝わって、新たに派生したバージョンである。もう何でもありだった。

「港を襲い、艦隊を全滅させ、ローダス遠征軍を壊滅に追い込んだ恐怖の象徴だそうですよ」

「…………」

主にムルクスがやったことなのに、なんでイゾルテのせいにされているのだろうか? ムルクスにも何か不本意な異名を付けてやった方が良いのかもしれない。

「ですので、殿下を嫁にしたらエフメト皇子の人気は暴落するでしょう。嫁ぐと言われても相手の方が困ってしまいますよ」


 イゾルテはようやく、ムルクスが単に自分の悪口を言っているのではないと気づいた。

「ひょっとして安心させようとしているのか? 父上が私を国外に嫁がせないことは分かっている。贈り物の事もあるからな」

「では、どうされたのです?」

イゾルテは溜息をついた。

「私が揺らいだのだ。私が私たる所以ゆえんが、な」


 遠い目をして訳の分からない事を言い出したイゾルテを見て、今度はムルクスが不安になっていた。またぞろ例のが起こっているのかもしれない。

 これが他の案件であったなら、イゾルテの一層の成長が期待できただろう。だがこの話には「嫁ぐ」か「嫁がない」の二択しかないのだ。ルキウスが「嫁がせない!」と言っているのにイゾルテが悩んでいるということは、逆に嫁ぐつもりになっちゃってるのかもしれない。例えば「ドルクを内側から乗っ取る!」とか言い出しかねないのがイゾルテの発想の恐ろしいところである。

――ま、まさかとは思うが……。ここは確実に輿入こしいれを妨害しておかなくては……

離宮にイゾルテ送り届けた後、ムルクスは再び皇宮へと向かった。



 皇宮に舞い戻ったムルクスは、テオドーラの宮殿を訪れた。

「テオドーラ様、ムルクス提督がお越しです」

「イゾルテの傅役の? 応接室にお通ししなさい」

 テオドーラとムルクスに直接の接点はなかった。イゾルテを介して顔を合わせはするものの、1人で訪ねて来られるのは初めてだ。ならばこの突然の訪問は、イゾルテの身に何かが起きたということだろう。

「ムルクス提督、イゾルテに何があったのです?」

「実はドルクから書状が届きました。ドルクの皇子の嫁として、イゾルテ様を貰い受けたいとの申し出です」

「な、何ですって!?」

――イゾルテが嫁ぐ? しかもドルクに!?

テオドーラの感情はいきなり沸点に達した。

「なんて厚かましいの!? イゾルテに負けたくせに、身の程知らずねっ!!」

ムルクスは慌ててテオドーラを宥めた。

「もちろん陛下は拒絶されるおつもりです。ですがイゾルテ殿下は、どうも自ら犠牲になるおつもりのようなのです」

「イゾルテが……?」


 テオドーラは、イゾルテがローダスへ向かう前、泣いて止めるテオドーラに言った言葉を思い出した。

『あなたとあなたの国に生涯仕えましょう』

――ひょっとして、私のためだと言うの……?

 テオドーラは、名指しされたのが自分だったらと考えてみた。イゾルテのように国のために働くこともせず、(イゾルテ以外とは)結婚もしないと言い放つテオドーラである。それで平和が買えるならと、ルキウスも承諾したかもしれない。

――そうだわ! だからイゾルテは、私の名が挙がる前に自ら犠牲になろうとしているのだわ!

 湧き上がる感情を抑えて、テオドーラは言った。

「教えてくださってありがとうございます。ですが、今日の所はお引き取り下さい」


 ムルクスが部屋を出るとテオドーラはその場に泣き崩れた。

「ああ、イゾルテ……!」

イゾルテとの別れが悲しかった。

ドルクに対する怒りが募った。

イゾルテの身を案じて不安にもなった。

自らの不明が招いたことだと、悔しくも思った。

だが何より、自分のことを想うイゾルテの気持ちが震えるほどに嬉しかった。

「でもダメよ、イゾルテ。あなたの気持ちは嬉しいけれど、私の方があなたを愛しているのだもの!」

決然と立ち上がると、テオドーラは父の元へと向かった。



 書斎で寛いでいた皇帝はテオドーラの突然の訪問に驚いた。しかも涙で化粧がぐちゃぐちゃになっていて驚いた。そしてテオドーラが開口一番言い放った言葉にも驚いた。

「お父様、私が嫁ぎます!」


 それを聞いて、ルキウスは一瞬喜びかけた。

――やっと結婚する気になってくれたか……!

だが「嫁ぐ」であって「婿を取る」では無いことに気付いて、ドルクの話だと分かった。がっかりしながら彼は言った。

「求められているのはイゾルテだ。皇家の娘が欲しい訳ではなく、イゾルテが邪魔なのだ」

「ではイゾルテを差し出すつもりなのですか!?」

「は?」

二人とも手放す気はこれっぽちも無いのに、なんで疑われなければいけないのだろうか。ルキウスは思わず怒鳴っていた。

「私は天王ゼーオスのように、自分の娘を冥界に嫁がせる気はない!」(注1)

それを聞いてテオドーラも、イゾルテが勝手に犠牲になろうとしているだけなのだと思い出した。父にその気はないのだと聞かされていたのに、一人で盛り上がっている間に忘れてしまっていたのだ。


 気まずい沈黙の中、再び来客が告げられた。

「陛下、イゾルテ殿下がお越しです」

テオドーラは慌てて隣の部屋に続く扉に向かった。

「お父様、私はこちらから帰りますわ。決してイゾルテをドルクにやらないで下さいね」

「あたりまえだっ! ……私はそんなに信用が無いのか?」

ルキウスはちょっとへこんでいた。


 入れ替わりに書斎に入ってきたイゾルテも、開口一番こう告げた。

「父上、ドルクへ行きます」

予想通りの展開に、ルキウスは幾分脱力気味に応じた。

「テオドーラにも言ったが、私は天王ゼーオスのように自分の娘を冥界に嫁がせる気はない」

「姉上に?」

「どこからか聞きつけて来て、代わりに自分がドルクに行くと言ってきたのだ」


 途端にイゾルテは真っ青になった。彼女の考える皇族としての責務の中には、テオドーラの血筋に皇統を継がせることまでが含まれていたのだ。

「なんてことを! 駄目です! 絶対にダメですっ!

 だいたい誰が姉上の耳に入れたのです!? 姉上には知らないままでいて欲しかったのに!

 ……まさか父上、あなたがそう仕向けたんじゃありませんよねっ!?」

イゾルテはルキウスに詰め寄り、突拍子もない濡れ衣を着せられた彼は慌てて弁解した。

「待て待て! なぜサーベルに手を伸ばす? 私は『自分の娘を冥界に嫁がせる気はない』と言ったのだぞ!」

「……そうでした。失礼しました」


 イゾルテの言葉を聞いて、テオドーラは自分の想像が正しかったのだと確信した。彼女は帰るふりをして、こっそり隣室で聞き耳を立てていたのだ。


「話を戻しましょう。父上のお気持ちは嬉しいのですが、私は父上の娘である前にこのプレセンティナ帝国の皇女です。国のために犠牲になる覚悟は出来ています。

 だだ心配なのは、国として私を差し出したとなれば、神がどのような罰を下されるかという事です。ですから私は自分からドルクへ行き、暗殺か何かを試もうと思います。それで殺されれば、神の怒りはドルクへと向くでしょうから」


 テオドーラは「神」とか「罰」という言葉に違和感を覚えた。だがそんなことよりも、イゾルテがわざと殺されに行くという方が遥かに重大なことだった。


「馬鹿なことを! 仮に嫁いだとしても、生きて祖国に戻れる可能性はあるのだぞ。皇子との間に人並みの幸せを得ることもできるかもしれん」

「ドルクで長く暮らせば贈り物が届くでしょう。それを隠すことはできません」

「いや、確かに贈り物がドルクの手に渡るのはまずいが……」

「それに骨肉相食こつにくあいはむドルクの皇子が、たかが妻の実家を攻めないとは限りません。そもそもエフメト皇子が皇位継承争いに敗れれば、私もどうなるか分かりません」

「だがそれを言うなら、そもそもお前がドルクに嫁ぐ必要も無いだろう!」


イゾルテは寂しそうに自嘲した。

「私は『魔女』だそうです。ドルク人の敵愾心を煽り過ぎたのかもしれません」

「根拠の無い誹謗や中傷など放っておけ」

「彼らの考えているものとは違いますが、根拠は有るじゃないですか。

 タイトンの神々も、彼らにとっては悪魔にすぎないのですから」


 ドルクや北アフルークで信仰されているムスリカ教は一神教である。彼らの信じる一柱の神以外は、全て「悪魔」なのである。当然タイトンの神々も「悪魔」だ。つまり、その神(悪魔)に愛されているイゾルテを「魔女」と呼ぶのは、むしろ当然の帰結なのであった。

「私がいては、プレセンティナの為にはならないかもしれません……」


「いいえ! あなたは『魔女』じゃないわ! あなたは『太陽の姫』なのよ!」

我慢できなくなったテオドーラは、寝室のドアから飛び出していた。

「皆があなたをそう呼んでいるわ! あなたこそがこの国に必要なのよ!

 私は今まで何も知らず、何も考えず、何もしてこなかったわ。貴方がプレセンティナの娘だと言うのなら、私こそがプレセンティナ帝国の長女よ。あなたの前に私が犠牲になるべきでしょう!?」

「お姉さま……」

「お父様、いえ、皇帝陛下。私をドルクへ嫁がせて下さい」


 テオドーラの言葉にイゾルテは目を潤ませた。一方的にイゾルテを求めるばかりだったテオドーラが、イゾルテと祖国のために犠牲になろうとしているのだ。嬉しさのあまり涙が溢れた。だが、だからこそ、決して認める訳にはいかなかった。

「いいえ、それだけは絶対に駄目です。お姉様には帝位を継いで頂きます。そして子を産み、皇統をつないで頂きます。それこそがプレセンティナ帝国の長女の努めです!」

頑なに譲ろうとしないイゾルテの言葉に、彼女が抱え込んでいた責務の重さが感じられた。それはテオドーラが投げ捨てていた分、イゾルテに圧し掛かっていた重さだった。テオドーラは喜びと、悲しみと、深い罪悪感を感じながら、愛する妹に向き直った。

「イゾルテ……私はなんて愚かだったのかしら。あなたを愛しく想うあまり、自分の勤めを今の今まで分かっていなかったわ。ごめんなさい、イゾルテ。

 私は結婚します。子も産みます。帝位も継ぎましょう。

 でもイゾルテ、忘れないで。あなたを愛しく思う気持ちは、いつまでも決して変わらないわ」

イゾルテもテオドーラを潤んだ瞳で見つめ返した。

「お姉様、私もお姉様を愛しています」


 見つめ合う二人はどちらともなく唇を交わした。それはかつて狂乱したテオドーラを落ち着かせるためにしたものとは違い、やさしく、甘く、切なかった。そしてなぜかだんだん情熱的になっていった。あきらかに舌が絡み合っていた。


 それは呆然とする父親の目の前で行われていた。彼一人を置き去りにして、二人の娘だけが勝手に盛り上がっていた。彼は何も悪いことをしていないのに、なぜかこんなことになっていた。それは彼に、二人の母親たちの在りし日の姿を思い起こさせた。


「て、テオドーラ、よく言ってくれたっ!」

父はそう叫んで、無理やり娘たちを引き剥がした。彼は天王ゼーオスではないので、近親相姦を許す気はなかったのだ。いや、女同士でも近親相姦になるのかどうか分からないけど。

「お前が結婚してくれるなら、私もようやく安心できるぞっ!」

そう言う彼の心は、別の心配でいっぱいだった。

「では私も安心させて下さいませ。イゾルテを決してドルクには行かせないと」

「もちろんだとも! 良いな、イゾルテ。私は決してお前を差し出したりしないし、お前からドルクへ行くことも許さんぞ!」

「……へ? あー、はい」

しかしイゾルテは陶然としていて、父の言葉など碌すっぽ聞いていないようだった。


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注1 天王ゼーオスの元ネタはギリシャ神話の天王ゼウスです。このセリフは娘のペルセポネの嫁入りの件を指しています。

既出ですが……ゼーオスが実姉(もしくは実妹)のデメテルをレイプして孕ませた子がペルセポネです。

そしてその後養育を放棄してデメテルに押しつけます。


一方でジャンケンに負けて冥界の王になっちゃった長兄(または末弟)のハデスは、ロリコンを拗らせて姪のペルセポネちゃんを好きになっちゃいました。(性的な意味で)

そんなわけで実父のゼーオスに「むむむ、娘さんをぼくにくだしゃいっ!」と言ってみたら「勝手に連れてっていいよー」と許可が出たので、ペルセポネちゃんを冥界に拉致監禁してしまうのでした。


一方許可を出していないシングルマザーのデメテルさんは怒り狂い、豊穣の女神の仕事を放棄してしまいました。おかげで世界は大飢饉。

さすがに拙いとおもったのか仲裁が入り、ペルセポネは年に4ヶ月だけ冥界でハデスと過ごし、残りは地上でデメテルと過ごすことになりました。一件落着(?)です。

でもデメテルは娘が居ないと鬱になって仕事が出来なくなっちゃったので、「冬」という季節が生まれたのでした。


要約すると、ゼウスはサイテーなダメおやじだということです。

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