18 冬の訪れ
やがて季節は夏が過ぎ、秋が流れて、冬へと至りつつあった。その一方でドルク軍の気配は未だ無く、秋のまま足踏みを続けていた。限られた人々のみが知るドルクからの要求も、無視されたまま今に至るまで何の反応もなかったのだ。だがその二つの冬が歩調を合わせてペルセポリスを訪れたのは11月29、奇しくもちょうど1年前、ローダス島の講和が成ったその日だった。
ガルータ地区(注1)はペルセポリスからペルセパネ海峡を挟んだ対岸にある、アルーア大陸に唯一存在するタイトン勢力の拠点である。海峡の南北の中央付近にあり、海峡の幅も約2kmと一番細いあたりだ。もちろんそれはプレセンティナ帝国の物であり、一般的にはガルータ地区もペルセポリスの一部とみなされている。
だが、ガルータ地区には正式な住民は1人もいない。敢えて海側からは攻めやすいように設計されたこの地区は、普段はドルクとの交易市場として利用され、いざ籠城となれば早々に放棄されるのだ。そのため、ガルータ地区では民間の建物は(極小数の例外をのぞいては)建築の許可がおりない。店舗も住居も天幕しか許されていないのだ。そして戦となれば、城壁で時間を稼ぐ間にそれらは撤去され、ペルセポリス本市へと海峡を越えて撤退することになる。そして攻略を諦めたドルク軍が撤退する際には、海峡を渡って再占領するのだ。
だだっ広い
ガルータ地区には、近くの村から野菜を売りに来るドルク人から、遥々1万kmの陸路を踏破して香辛料を運んでくるヒンドゥラ王国の商人まで、あらゆる種類の人と物が集まってくる。そしてももちろん情報もだ。ドルク軍20万がペルセポリス攻略のために北上していると言う情報も、商人たちの手によってガルータ地区にもたらされたのである。
冬は目前に迫っていた。
ドルク軍の情報はガルータ地区を警備する陸軍から宮廷へと奏上され、その日のうちに皇宮で御前会議が開催された。会議には陸海軍から各10名ほどの将官、各大臣と10人委員会の代表、それにイゾルテとテオドーラの両皇女も出席していた。陸軍の代表にスキピア子爵の姿があるが、海軍の代表団にはムルクスの姿はない。彼は今頃、イゾルテの無茶な要求に応えるために走り回っているはずだった。
一同が集まると、皇帝ルキクス自身が口火を切った。
「ドルク軍20万が首都バブルンを発して、一路我が国に向かっているとの情報が入った。率いているのは第3皇子のエフメトとヒシャームだ。
ドルクの侵攻が近いことは、内々に聞いていた者も多いと思う。これまで明らかにしてこなかったが、今年に入ってヒシャームから4度書状が届いている。その内容は全て、平和を望む証としてイゾルテをエフメトに嫁がせろという内容だった」
皇帝の言葉に居並ぶ廷臣たちはどよめいた。訝しむ者、憤る者、単純に驚く者。イゾルテは平然とした
「だが、余はこれを無視した。理由は幾つかある。皇太子であればまだしも、エフメトは皇位を争う3皇子の1人に過ぎない。エフメトが争いに敗れれば、返って我が国を攻める口実になりかねない。また仮にエフメトが即位したとしても、妻の故郷だという理由だけで攻めて来ないとは限らない。
……だが何より、私は自分の娘をドルクに差し出すのが嫌だったのだっ!」
激高したルキウスは、自分を落ち着かせるように左右に控えるイゾルテとテオドーラに目を向けた。
「イゾルテは自分からドルクへ行くと言ってくれた。テオドーラも、代わりに自分が嫁ぐと言ってくれた。だが、私はそれを許さなかった。
これは全て皇帝たる余の我侭だ。この件に関し、特別に余を責めることを差し許すが、イゾルテを責めることは断じて許さぬ。不服あるものはこの場を去れ」
皇帝の話は、並み居る廷臣たちに少なからぬ衝撃を与えていた。彼らはドルクの一方的な要求に反感を覚えた。そして皇帝の判断は妥当に思えた。だが、敢えて親の情を前面に押し出した皇帝の言葉は、理非を超えた共感を呼び起こしていた。他ならぬイゾルテも、父の言葉に胸が熱くなっていた。そして一同は、帝位を狙っているはずのイゾルテが、自ら犠牲になろうとしたことにも衝撃を覚えていた。廷臣たちは誰もその場を動かなかった。
「誰も不服はないのだな? 宜しい。では、作戦の指揮・立案をイゾルテに一任する」
さすがにその言葉は一同の意表を突いた。ローダス島の防衛戦の実績があるとはいえ、あの時の指揮官はあくまでムルクスだったのだ。しかも今回は国家の存亡に直結する防衛戦である。年若く、女の身であるイゾルテには荷が重いように思えた。だが、当のムルクスの策謀によって海軍は元より陸軍の中にもイゾルテの支持は広まっていた。あるいはイゾルテならばという期待と、きっと裏にはムルクスが居るのだろうという安心感があった。この場にムルクスの姿がないことが、返ってイゾルテを目立たせるための策であるかのようにも思わせてもいたのである。
皇帝の脇に控えていたイゾルテは、一歩前に出た。
「私はこの一年、常にこの日のことを考え、この日の為に手札を用意してきた。まずは私の考えを聞いてから、意見を聞かせて欲しい。
ドルク軍の20万という数はいかにも少なく、9年前の半分にも満たない。ペルセポリスを力攻め出来る数ではなく、敵の意図は明らかではない。これには3つの可能性があると思う。
1つ目は、別働隊が居る可能性だ。別働隊はこれまでの侵攻と同様に、大型船に乗ってメダストラ海かアムゾン海を通ってウロパ大陸へと渡ろうとするだろう。先のローダス島防衛戦に参加した者の一部には伝えてあるが、我々には遠く離れた者同士で会話をする道具がある」
そう言ってイゾルテは、遠くと話す箱{無線機}を掲げてみせた。
「暁の姉妹号、暁の姉妹号、こちらイゾルテ。聞こえているか? ドウゾ」
『こちら暁の姉妹号。殿下、どうされました? ドウゾ』
遠くと話す箱{無線機}から聞こえてきた声に一同はどよめいたが、イゾルテが口元に人差し指をあてるとすぐに静まった。
「火炎壺はどれだけ積み込めた? ドウゾ」
『船倉には3000発とちょっとが限界でした。今は上甲板に積み上げています。ムルクス提督によると合計5000発ほどになるとのことです。ドウゾ』
「そうか、やむを得んな。積み込みを急いでくれ。通信終わり。ドウゾ」
『了解です。通信終わり』
海軍の提督たちは遠くと話す箱{無線機}の事を知っていたが、彼らにはその会話の内容が衝撃的だった。小型投石機はどう頑張っても1分に1発撃てれば良い方だというのに、一隻に5000発もの火炎壺を積み込むのは尋常の事ではない。
「これはおよそ100km離れていても使うことが出来る。帆船を使って哨戒線を張り、発見の後にこれを使って連絡すれば、攻撃隊に先回りさせることが充分に可能だ。
2つ目は、彼らが20万で充分と考えている可能性だ。もちろん力押しでペルセポリスを攻略することは不可能だろう。ローダスでしたように『
そう言ってイゾルテが見回すと、列席者はうんうんと頷いていた。根本的にプレセンティナ人はみな籠城戦に自信を持っているのだ。
「だが、陸路を断たれることで経済活動は著しく落ち込むことだろう。長期にわたって包囲することで、我が国が疲弊するのを待つつもりではないだろうか。あるいは、我々がそれに焦れて野戦を挑んでくるように仕向けるために、わざわざ20万まで数を抑えた可能性もある」
再び列席者を見回すと皆が渋い顔をしていた。基本的にプレセンティナ人は、(軍人であっても)商売っ気が抜けないのだ。
「何れにせよこの場合、目の前にいる20万は我らの力を削ぐのが役目で、主力として2陣、3陣を送り込んでくるつもりなのだろう。つまり渡河に成功した時点で、第一陣の目標はほぼ達成されたことになる。
3つ目は、政治的な駆け引きの結果、20万しか出せなかった可能性だ。ヒシャームの失脚を望む者が策動したか、皇子同士の足の引っ張り合いで数を減らされたのだ。
この場合は後続の予定はないだろうが、我々が疲弊してしまえば別の皇子が漁夫の利を狙って攻めてくるかもしれない。そして厄介なことに、ヒシャームとエフメトが破れかぶれになっている可能性も高い。容易には撤退しないだろうし、ドルクに撤退するのではなくウロパ大陸内陸へと攻め入ってそこで割拠しようと目論むかもしれない」
実際に過去の戦いでは、ドルク軍はペルセポリスを包囲しながら周辺のタイトン諸国――特にお隣のホールイ三国――を荒らし回ったりしている。最終的には撤退して本国に帰っていったが、本国に居場所が残っていなければその場に残って建国しちゃう可能性は十分にあった。
「そこで私は、目前に迫るドルク軍に対しては、渡河を阻止することで防ごうと思う。ここまでの認識に異議があるものは居るか?」
提督の1人が手を挙げた。
「海峡を渡河すると言っても、海峡は完全に我らの制圧下にあります。ドルクには陸路で小舟を運んでくるしか手がありません。ガレー船に蹂躙されることが分かっていて渡河を試みるでしょうか?」
「恐らく月明かりのある夜を選んで、松明を焚かずに渡河を試みるのだろう。そうすれば我々には容易には見つけられない。それに、網を撒いておけばガレー船は脅威ではない」
「浮網か……!」
イゾルテの言葉に提督たちが動揺した。ローダス島沖の戦いでは一方的に網を利用していたため、相手に使われるという心づもりが充分ではなかったのだ。それに大型船同士の堂々たる海戦ならともかく、小舟を駆逐するというイレギューラーな戦いであるためこちらが浮網を使うという選択肢がなく、相手も使わないと思い込んでしまっていたのだ。
「だが、彼らがそう思っているだけだ。ガレー船も軍用帆船も、今では20門程度の小型投石機を装備している。足を止められても攻撃手段は残されている」
「しかし、浮網は小舟にとっても邪魔になります。恐らくは船団の左右両端にだけ網を撒くのでしょう。ガレー船が両端で足を止められれば、中央はがら空きです。大半に渡河されてしまいます」
イゾルテは頷いた。
「そうだな。提督の意見はもっともだ。だがガレー船は両端から射撃して、敵を中央に寄せてくれればそれで良い。海岸は帆船が固め、中央には新型ガレー船が突入する」
「ですが、狭い海峡で夜間に帆船を動かすのは危険です。しかも海岸線沿いとなると座礁の危険が高まります。それに新型ガレー船はまだ『暁の姉妹』一隻しかないではありませんか」
イゾルテはすっと天井を指差した。
「先日、この上の尖塔に大型望遠鏡を設置した。海峡全域はおろか、アルーア大陸側も含めた約50kmを見渡すことが出来る」
ペルセポリス市は、港湾部を除いて(おそらくは水難避けのため)海抜20~50mほどの小高い場所を中心に作られている。皇宮はペルセポリス全域を見渡せる更に小高い丘にあり、一番高い尖塔は高さが70mほどもある。そのため、アルーア大陸側の大地とも標高差は200mほどになる。もちろん起伏があって見通し距離は方角によってまちまちだが、それでも海峡に船を浮かべるよりはるか以前にその姿を見ることが出来るはずだ。それに小舟を担いだ兵士たちが、普段と同じ速度で歩けるわけではない。
だが将軍の1人が疑念を示した。
「殿下、ドルクは月明かりのある夜を選んで松明を焚かない、そう仰ったではありませんか。望遠鏡ではとても見つけられません」
「あなたの言うことはもっともだ。だが、あなたの知っている望遠鏡はこんなサイズだろう?」
イゾルテは親指と中指で輪を作って見せた。
「だが尖塔に置いた望遠鏡の直径はこんなだ」
そう言って今度は両腕で輪を作った。
「まさか、そんな巨大なレンズがある訳……ひょっとして、例の鏡を使った望遠鏡ですか!?」
「そうだ。直径60cmの鏡を使っている。直径が15倍だとすると、面積と集光力は……225倍だな。もちろん月明かりでは高倍率には出来ないが、低倍率でも船を担いだ大軍を見つけるくらいのことは充分に出来るだろう」
量産された鏡式望遠鏡(ニュートン式反射望遠鏡)のレプリカは、海軍を中心に細々と配備され始めていた。
だがそんな中で、イゾルテは大型望遠鏡の作成を優先させた。見通し距離がマストの高さに制限される船での使用だけでなく、高低差を利用すれば50kmとか100kmとかいう桁違いの見通し距離を得られる陸での使用が予想されていたからだ。幾何学の得意な学者が形状を計算して大型凹面鏡の設計図を引き、通常サイズの生産ラインから熟練工を引き抜き、磨き工程に至っては昼夜兼行で3ヶ月に渡って磨き続けたという。出来上がった大型望遠鏡は、もはや「え、何ソレ? ひょっとして柱?」というサイズだったが、塔の上で使う分にはそれでも充分だった。(もはやマストの上では絶対使えないけど)
「ドルク軍の動きは逐一知ることが出来るから、帆船でも余裕を持って先回りできる。そして『暁の姉妹』はただの船ではない。5000発の火炎壺を積み、1分間に600発を発射できる」
「600発……!?」
イゾルテの言う桁外れの数字に、提督たちだけでなく陸軍の将軍たちも唖然とした。小型投石機を1発撃つためには、どう頑張っても1分はかかる。つまり『暁の姉妹』号は並みのガレー船の30倍以上の射撃能力があるということだった。提督の1人が思わず叫んでいた。
「変な形だとは思っていましたが……あの新造艦はそんな化け物だったんですか!?」
イゾルテは不満気に唇を歪めた。
「変な形とは何だ、変な形とは! だが、化け物という表現は的確だ。敵にとっては正に化け物。その脇を通って対岸に向かおうなどと、誰が思うだろうか?」
「…………」
一同の脳裏には、火の海を悠々と進む異形の巨船の影が浮かんでいた。
「大型船は普通、船長以下10人からの士官が指揮をとっている。だからこそ艦隊の為の犠牲になったりもできる」
イゾルテはそう言うと、数秒の間瞑目した。
「だが、それは海軍の考え方だ。今回の相手は小舟、しかも乗っているのは陸軍だ。陸軍の小隊・分隊が、単独でどれほど理性的な行動が出来るだろうか?
上官の指示も得られず、それどころか上官がどこに居るのか、生きているのか死んでいるのかも分からない暗闇の中で、初期の命令に従って化け物の脇を抜け、敵地に赴くことが出来るだろうか?
スキピア子爵、我が陸軍にはそれが可能か?」
子爵は首を振った。
「恐らく無理でしょう」
「では、ドルク軍に可能だと思うか?」
「いいえ。彼らは力と恐怖で以って兵を統率しています。その象徴である上官が目の前にいなければ、統率など取れようはずもありません。まして上官は既に死んでいる可能性があるとなれば、あっという間に瓦解するでしょう。だからこそ、9年前も勝てました。
少なくとも、士官の乗っていない船はあっさりと逃げ出すことでしょう」
イゾルテは満足気に頷いた。
「驚き、混乱すれば、兵の多寡にかかわらず軍勢は崩れる。特に暗闇の中では。『暁の姉妹』の猛威を前にすれば、必ず敵を撤退させられるだろう」
イゾルテは一同を見回してもう一度言った。
「ここまでの認識に異議があるものは居るか?」
一同は沈黙していた。
「よろしい。では次は陸軍だな。陸軍には討ち漏らした敵の掃討を行って欲しい。野盗にでもなられると面倒だ。また、万一に備えて予備役を召集し、籠城の準備を開始しろ。だが義勇兵の募集はまだしなくていい」
常に籠城戦を想定しているプレセンティナ陸軍には予備役制度がある。予備役兵は普段は普通の市民として生活しつつも、年に10日ほどの訓練を受け、対価として税の減免を受けている。招集されれば速やかに部隊を編成し、現役士官の指揮の元で城壁の守備に就くことができる。その代わりに常備兵は5000に満たず、しかもそのうち約半数が士官だ。これはイザという時に大量の予備役兵を招集し、速やかに軍の指揮下に組み込むための指揮機能を準備しておくためである。
一方で義勇兵はその枠を超えて市民から新たに募るものなので、予備役兵と違って組織化するのに時間がかかるし、そもそも最低限の訓練すらも受けていない。敵が力攻めをしてこないと考えるイゾルテは、義勇兵を募る必要まではないとイゾルテは考えていたのだ。それどころか彼女にとっては、予備役の招集すらもあくまで万が一のためだった。
「それとスキピア子爵、ガルータ地区の防衛を任せたい」
突然の指名に、子爵だけでなく一同が驚いた。
「……ガルータ地区を放棄しないのですか?」
「民間人は避難させるし、死守しろとも言わない。退路は海軍で確保しておくし、陸軍が撤退するための船も残しておこう。だが、ガルータは橋頭堡として重要な意味を持つ。火炎壺をたんまりと持って行って、可能な限り守ってほしい」
「……御命令の主旨は理解しました。でも、なぜ私なのですか?」
イゾルテは冷たい目で子爵を見つめた。
「がっかりだな、子爵。これが叔父上なら、そんなことは聞かなかっただろう」
一同は何故ここで9年前に戦死した2人の皇子が引き合いに出されるのか訝しんだ。だがスキピア子爵は雷に打たれたように硬直すると、蒼白になって頭を下げた。
「失礼しました。全力を尽くします」
会議を終えて兵営に戻ったスキピア子爵を、ベルトランが待ち構えていた。まだ神殿(事実上の出城)を持たないムルス騎士団は、今はまだただの外交使節に過ぎないので、蚊帳の外に置かれているのだ。だが戦いとなれば血が騒ぐのは抑えようもなく、子爵から情報を得るために押しかけてきたのだ。
「よう、コルネリオ! 作戦はどうなった?」
子爵は言っていいのかどうか少しの間迷ったが、遠くと話す箱{無線機}や大望遠鏡{反射望遠鏡}の事さえ黙っておけば問題ないだろうと判断した。どうせすぐに分かることだ。
「海軍主体で渡河を阻止することになった」
「なんだ、俺達の出番はまだ先か」
「……お前も戦うつもりだったのか?」
ベルトランは意外そうな顔をした。
「ここじゃ一般市民まで戦うんだろ? 酒場で普通のおっさんたちの手柄話を何度も聞かされたぜ。俺が戦っても問題ないだろう」
だが子爵は素気なく言った。
「殿下は予備役を招集するだけで、義勇兵は公募されないおつもりだ」
「殿下? まさか、イゾルテ殿下が指揮を執っているのか!?」
ベルトランはイゾルテを信じていない。その考えや能力に舌を巻くことは幾度もあったし、ローダスでは彼女に救われた身であったが、その人間性がどうにも信用出来ないのだ。イゾルテが指揮を執るとなると、どんな非情な作戦が行われるのか不安になってくる。ましてこの戦いは、兵士だけでなく多くの一般市民を巻き込む戦いなのだ。
「殿下はこの日のために周到に準備されておられたよ。ローダス島沖の戦いがあれほど一方的だったのも、なるほどと思えた」
「そりゃあ、あのイゾルテ殿下なら周到に準備するだろうけどなぁ……」
二人の意見は一致しているようでいて、その感想は真逆である。
「それより、コルネリオは何をするんだ?」
「俺はガルータ地区の防衛の指揮を執ることになった」
「ガルータって……対岸じゃねぇか! あそこはさっさと撤退する決まりだって聞いたぞ!?」
「殿下が守れと命じられたのだ。何かお考えがあるのだろう」
「まさか、殿下がコルネリオを指名したのか……?」
「ああ」
ガルータ地区は内部の面積こそローダスのムルス神殿に匹敵するかも知れないが、城壁も低く修練の壁(円形迷路状の補助城壁)もないのだ。そこにドルク兵20万が押し寄せるのだから、とても守り切れるとは思えない。
――まさか、コルネリオを捨て駒にする気なのか!?
だがベルトランがその疑いを子爵に話したところで、彼が難を逃れるすべなど無いだろう。まして生真面目な子爵のことだ、「国のために死ねるのなら本望だ」とでも言い出しかねない。ベルトランは内心苦々しく思いながらも、努めて明るく振る舞った。
「傭兵なら問題ないんだろ? 俺も連れて行けよ。今ならカクテル1杯で雇われてやる」
12月5日になって、東から現れたドルク軍はガルータ地区を包囲した。包囲して有り余るその大軍は広く野に広がり、その大半は本営の大天幕の張られた小高い丘の向こうにいる――ように、プレセンティな側は錯覚していた。20万という触れ込みのドルク軍の実態は、半分以下の7万あまりであった。実数の倍の数を号することも稀ではないが、20万でさえ少ないと思われているのに実はその3分の1しかいないというのは、プレセンティナ側の誰も予測できなかった。そもそも7万ではペルセポリスを包囲することも覚束ないのだから、そんな数で攻めてくる理由など誰にも思いつかなかったのだ。わざわざ負けに来たのだという事は、当のドルク軍でもほんの数人しか知らないことである。
ドルク軍はこのうち4万で渡河を試みる(ふりをする)予定である。たった4万ではあるが、一度に渡るためには10人乗りの筏でも4000艘も必要になる。彼らは途中の森で木を切り倒し、筏や丸太船を作って運んできていた。
その陣中の小高い丘の上に張られた大天幕の中で、ヒシャームとエフメトが作戦を練っていた。
「3日後の満月の夜、ガルータ地区の北2kmから渡河を試みる。潮は僅かに北向きに流れているだけで、流される心配もないはずだ」
「殿下はガルータ地区の押さえをお願いします。渡河の指揮は私が執ります」
「いや、渡河は俺にやらせてくれ。俺はまだ、プレセンティナと対峙したことがない」
気負いの無い様子のエフメトに対して、ヒシャームは不安を抱いた。プレセンティナに対して油断は禁物である。
「……分かりました。ですが、間違っても殿下まで渡河しないで下さい」
「はははは、要らぬ心配だ。ヒシャームこそ、無駄にガルータを落とそうとするなよ。どうせすぐに返すのだからな」
「しかし、それなりの攻勢を見せなければ敵が訝しみます。明日から3日間は、落とすつもりで攻撃させましょう」
「確かにそうだな、分かった。だが兵に無理はさせるなよ」
ヒシャームはエフメトの意外な言葉を訝しんだが、エフメトの言葉には続きがあった。
「兵は運河で殺した方が数をごまかせるからな」
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注1)ガルータ地区のモデルは一応ガラタ地区です。
しかしガラタ地区は海峡の向かい側ではなく、金角湾の対岸(北岸)にありました。つまりヨーロッパ側にありました。
そんでもって当時黒海貿易を任せていたジェノヴァ人の居留地になっていましたので、フツーに発展していました。
ちなみに金角湾には鉄の鎖で封鎖出来るようになっていて、メフメト二世が船を山越えさせて運んだことで有名ですね。
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