ガレー船

「諸君には寛大な処置を約束するぞ。私、イゾルテ・ペトルス・カエサル・パレオロゴスの名においてな!」

単身ガレー船に乗り込んだイゾルテがそう宣言すると、彼女を取り巻く全ての人々がどよめいた。

 ムスタファはその名に驚いた。タイトンにおいてカエサルを名乗れるものは、皇帝と皇位継承権を持つものだけなのだ。……ということまでは彼は知らなかったのだが、彼女の偉そうな態度を見ていて、

――そういえば、プレセンティナ皇帝の名にカエサルとかパレオロゴスとかあったような……ひょっとして、皇帝の親戚!?

……と気付いちゃったのである。だが、イゾルテの名前に驚いているのは彼だけだった。

 ほかの海賊たちはタイトン語を話せないし、当然ながら他国の姫様の名前なんて知らなかったのだ。そんな彼らがどよめいているのは、彼女の異様な装いと、ロープ一本で軽やかに舞い降りた身のこなしと、そしてタイツと手袋に覆われた細い手足の美しさだった。別に彼等はタイツフェチではなかったが、海に出て半月あまり経ち、そろそろ女の肌が恋しい時期だったのだ。

 そしてゲルトルート号で上がったどよめきは、彼女が一人で勝手に乗り込んじゃった上に名前を名乗っちゃったせいだった。「やっぱり降伏するのや~めた」と言って人質にでもされたら目も当てられない。彼らは慌てて接舷すると、固縛するのも待たずに次々に海賊船に飛び降りた。


「姫、何やってんですか!」

先頭を切って飛び降りてきた男が、イゾルテの丸兜{ヘルメット}をガツンと力いっぱいどついた。金髪を短く刈り込んだ筋骨たくましい初老の男だ。その馬鹿力にしばらく頭を抱えてしゃがみこんだイゾルテは、奮然と立ち上がると丸兜{ヘルメット}を脱いでその男に投げつけた。

「アドラーこそ何をする! 痛いではないか!」

 あらわになったその顔は太陽のもとでは現実感を失うほど白く、潮風にたなびく長い髪は陽光を帯びて黄金の輝きを放っていた。ムスタファはその幻想的な美しさに息を呑んだ。

――そういえば、ウロパ大陸の北の方に住むゲルム人には、黄金の髪を持つものがいるそうだが……

だがその金髪の二人は、ムスタファの目の前でケンカを始めてしまった。

「もしこの者達が姫を人質にでもとったら何となさいますか! 陛下に申し訳がありませんぞ! というか、あまりにマヌケ過ぎて申し上げたくありません!」

「バカモノ! 降伏の意を表したものをイタズラに警戒するようでは、王者としての資質を問われかねぬぞ!」

「姫は王者じゃなくていいんです! 淑女になってください!」


 二人のやりとりに唖然とするムスタファたち海賊に対して、ゲルトルート号の水兵たちは手早く武器を回収して海賊たちを後手に縛り上げていった。二人の漫才(言い争い)はゲルトルート号ではいつものことだし、止めるにしても彼らではイゾルテに手を触れる訳にはいかない。だって皇女だし。それに未成年だし。精神的に愛するのは(ギリギリ)良いけど、肉体的に触れては(ゼッタイ)ダメなのだ。「YESイゾルテ、NOタッチ」である。その掟の数少ない例外の一人が「おむつを替えたこともある」と公言してはイゾルテに殴られている船大工のアドラーであった。


 水兵たちが甲板上の海賊を全て縛り終えても2人はまだ漫才を続けていたが、そこにゲルトルート号から声がかかった。

「二人とも、そろそろいいのではないかね? まだ続けたいというのなら、罰として便所掃除を申し付けるので、続きはそこでやってくれるかな?」

引き締まった細身の肉体に日に焼けた肌と黒い髪を持つその老人は、温厚そうな表情と柔らかい口調でそう言った。彼の名はムルクス。プレセンティナ海軍の重鎮であり、イゾルテの傅役もりやくでもあり、そして彼女に対してタッチが許されるもう一人の人物だった。既に一線を退いていたのだが、今は員数外の試験艦であるゲルトルート号の試験航行の指揮を執っていた。彼は常に冷静沈着で、表情と口調もいつも柔らかい。それは舞踏会で踊っている時も、敵の返り血にまみれていても変わらない。……まあ要するに、元の顔が笑い顔という残念な無表情キャラなのだ。お陰で笑顔のように見えて実は怒り狂っていたりするのである。そして二人は、彼の怒りの恐ろしさを身にしみて知っていた。


「私のことを心配してくれてうれしいぞ、アドラー!」

「敵もひれ伏す姫の威厳、姫は我らの誇りです!」

がしりと握手を交わした二人は、一件落着とばかりにゲルトルート号に戻ろうとした。

「ちょ、ちょっと待て! いや、お待ちください。降伏の条件を確認させて頂きたい」

存在をすっかり忘れ去られていたムスタファは、慌てて彼女を引き止めた。武器を奪われた上に縛られちゃった後なのに条件もクソもないものだが、自分たちの扱いについて何一つ具体的なことを聞かされていないのだ。本当なら武器を持ち抵抗する余力を残して交渉するべきであり、恫喝をまじえて強がってみせるべきだったのだが、今となっては相手の機嫌を損ねるような事は何一つ出来なかった。だから自然と彼の口調は丁寧になった。

「私はムスタファと申します。ドルク帝国海軍に所属する独立遊撃艦隊の准提督です」

実際には船一隻っきりの海賊なのだが、最近もらった肩書では一応そういうことになっていた。

「おい、やはりドルク軍だったぞ」

イゾルテはなぜか得意げだった。

「むぅ、海賊だと思ったのですが……」

アドラーは少し悔しげだった。ひそひそと言葉を交わす二人はどちらも正解なのだが、ムスタファは敢えて無視して話を続けた。

「私は殺されても異議はありませんが、部下には寛大な処置をお願いしたい」

ムスタファはそう言ってこうべを垂れた。


 彼としても本当は部下より自分の命のほうが惜しかったのだが、こうなっては自分の命はどうあっても助からないだろうと諦めていた。せめて部下ぐらいは助かって欲しいし、へんにゴネて機嫌を損ねると悲惨な殺され方をしそうに思えて、精一杯格好をつけたのであった。

「見た目に似合わず、立派なやつだな」

「いえ、見た目通り立派な男なのです」

自分も海賊っぽいアドラーは、あっさり態度を翻した。それに彼の先祖は勇猛な海賊として有名な民族だった。だから言外に自分も立派だと言いたかったのかもしれない。

 ムルクスは放っておいては話が進まないと思い、彼女に促した。

「姫、どうなさいますか?」

「爺にまかせる」

イゾルテが即座に丸投げすると、ムルクスは笑顔のままさらっと応じた。

「でしたら皆殺しですな。生かしておいても百害あって一利なしです。腕を切り落として海に放り込めば、サメが処分してくれるでしょう(注1)」

ムスタファはその笑顔に震え上がり、イゾルテとアドラーも凍りついた。タイトン語の分からない海賊たちだけはムルクスの笑みを好意的な物だと誤解していたが、ゲルトルート号の水兵たちも固まったように動きを止めていた。

「待たれよ! イゾルテ姫はその名にかけて寛大な処置を約束なされたはずです! あなたの名はそんなに軽いものなのですか!?」

ムスタファは縛られたままイゾルテににじり寄ってそうなじった。

「むむむっ~」

イゾルテはしばらくの間眉根を寄せて低く唸ると、こう宣言した。

「よし、ではこうしよう。士官と兵は捕虜として拘束する。プレセンティナに帰国した後、士官についてはドルクに身代金を要求し、受け入れられれば開放する。受け入れられない場合は、奴隷として売り払う。

 兵については1年の労役を課し、その後にはドルクへの帰国を許す。

 舟漕ぎ奴隷については、タイトン人は即座に開放する。ドルク人を含むその他の者は6ヶ月の労役を課し、しかる後に奴隷身分から開放する。

 ただし、プレセンティナへ帰順する者は3ヶ月に短縮する。なお、プレセンティナに戻るまでの期間は民族を問わず櫂を漕いでもらうが、その期間は先に言った労役の期間に含めるものとする」

イゾルテは「どうだ?」という視線をムルクスに向けた。

「いささか寛大すぎる気が致しますが、姫が約束したことですから仕方ありませんな」

その言葉に反してムルクスは満足気に(微妙に)まなじりを下げた。どうやら合格点を貰えたようだとイゾルテはにっこり微笑んだが、ムスタファにはさっきの皆殺し発言の時の表情との違いが分からなかった。だから

――姫の裁定に不満たらたらなのか?

と、内心で冷や汗をかいていた。


 海賊達は足かせを付けられてゲルトルート号の船倉に押し込められたが、ムスタファだけは個室に閉じ込められた。普通は水兵どころか士官にだって個室は与えられないのだから、捕虜にしては良い待遇だった。もっとも、反乱を警戒して隔離しているだけかもしれなかったが。

 ムスタファはベットに腰掛けると腕を組んで考え込んだ。正直、生き残れたことは望外の極みである。だが実は、彼には身代金を払ってくれるアテがないのだ。政府や海軍が払ってくれる訳がないし、家族もいなかった。隠し財産はあるのだが、本当に隠しているので部下たちも知らなかった。解放されれば取りに行くことも出来るのだが、取りに行けないから身代金も払えない。ジレンマだった。

 持ち逃げされる危険を犯して部下に隠し場所を教えるか、全額没収されることを覚悟してイゾルテに隠し場所を教えるか。あるいは逃亡できる可能性に賭けて一旦奴隷に売られるか。

「難しい問題だ……」

彼はひたすら考え続けた。



 夕食の席、士官食堂ではイゾルテと士官たちが一同に会していた。皇族と同席と言っても毎日のことだし、船大工とどつき漫才をしているイゾルテである。士官たちは一様にリラックスして周囲の者と思い思いに話し込んでいた。食事を終えたイゾルテも、ワイン(注2)を飲みながらムルクスに何気なく話しかけた。

「ところでガレー船はどうなった?」

「士官3名と水兵・水夫合わせて20名を移乗させました。ガレー船に乗船経験のある者を選びましたので、航海に問題はありません。ただし戦闘は無理です」

帆走するだけならマストが1つしかないガレー船は、返って人手を必要としない。そのためそれだけの人数でもなんとかなるのだ。

「奴隷たちはどうした?」

「事情を伝え、足かせは取り外しました。ベットで寝たいという要望がありましたが、数が足りません。交代で使うということで納得させました。他には特に不満は上がってきていないとのことです」

「そうか。明日もう一度移乗しよう。彼らとも話してみたい」

イゾルテの言葉を耳にして士官たちが急に押し黙った。イゾルテは不審げに眉根を寄せたが、彼女が口を開く前にムルクスが答えた。

「分かりました。碇を上げるのは午後になりますが宜しいですか?」

だが彼女が了承の返事を口にする前に、今度は士官の一人が声を上げた。

「お待ちください。彼らにはプレセンティナに帰ってから謁見なされば良いではありませんか。今のままでは身支度一つ整えることもままなりません。折角の栄誉なのですから、彼らにも準備の機会を与えるべきでしょう」

「なるほど、そういうものか。分かった、そうしよう」

彼女はあっさり納得したが、ムルクスが首を振った。

「いえ、明日お会いになるべきです」

士官は驚いた顔で声を上げようとしたが、ムルクスが手を上げて制した。

「いい機会です。是非、明日お会いになるべきです」

士官はしばらく難しい顔をしていたが、やがて納得したように頷いた。

「そうですね。長い目で見れば……その方が良いのかもしれません」

そして、イゾルテに忠告を加えた。

「ただし殿下、明日の朝食は抜いた方が宜しいでしょう」

「ん? なんでだ?」

「明日になれば分かります」



 翌朝、イゾルテはムルクス達を伴ってガレー船に渡った。イゾルテはタイツにチュニックに手袋という昨日と同じ白尽くめの格好だったが、今日は戦闘ではないので黒いチョッキ{防刃ベスト}と丸兜{ヘルメット}は身につけていなかった。だがその代わりに顔全体を覆う黒い面覆い{顔面サンバイザー}を付けていた。まだ丸兜{ヘルメット}の方が防具としての体裁があるから理解できるのだが、面覆い{顔面サンバイザー}を身につけた姿は初めて見た人をギョッとさせる。でも色白で肌の弱い彼女はちょっと陽に当たるだけで肌が赤くなってヒリヒリするので、それを防ぐために身につけているのだ。

 昨日のうちにガレー船に移乗していた士官と水兵たちは既に甲板に整列していたが、そこに奴隷たちの姿はなかった。

「奴隷たちは船の中か?」

イゾルテの質問に臨時の船長を務めている士官が答えた。

「はい。ムルクス提督から可能な限りありのままを見せよ、との指示を頂きましたので」

彼の言葉はイゾルテの質問への回答だったが、その視線は発令者であるムルクスを向いていた。「本当に良いんですか?」という意図が込められていたのだが、ムルクスはいつもの笑顔のまま深く頷き、イゾルテを促した。

「では姫、中に行きましょう」

「うむ。船長、案内を頼む」

彼女は船長の案内に従って意気揚々と船内に乗り込んだ。


 船内に足を一歩踏み入れると空気が変わった。イゾルテは面覆い{顔面サンバイザー}を外してくんくんと匂いをかいだが、決して良い匂いではなかった。彼女の知るものの中では厩舎が一番近いだろう。つまりは獣の体臭と糞尿の匂いだ。しかも歩を進めるごとに次第に匂いが強まった。彼女は耐え難い匂いに顔をしかめ、この先の惨状を予想したが、自分が言い出したことなので引き返すことも出来なかった。

「この下の第三甲鈑には、一段目の櫂、左右それぞれ10本があります。それぞれ三人で漕ぎますので、定員は合計60人です」

そう言って船長が床扉を開けると、濃密な、暴力的とまで言えるほどの臭気がイゾルテたちを襲った。凄まじい匂いに彼女は一瞬気が遠くなり、思わず鼻を摘んで顔を顰めた。船長はそのまま階段を降りていったが、イゾルテは思わず立ちすくんだ。そんな彼女に誰かが後ろから声をかけた。

「今朝は風が凪いでいましたので、特に酷いのですよ」

その声は昨日の士官のものだった。

――だから臭くても仕方がないというのか?

振り返ると付き添いの士官達も皆顔を顰めて鼻を摘んでいた。例外はくだんの士官とムルクスだけだ。そのムルクスが笑顔のままイゾルテに声をかけた。

「どうされました? 彼らと会って話をするのでしょう?」

――話を……?

彼女は驚いた。ムルクスの言葉に驚いたのではない、そもそも話をするために来たのだというのに、あまりの悪臭にその目的すら忘れかけていたことに驚いたのだ。そして鼻を摘む士官たちに向き合った彼女は、一瞬自分が嫌悪されているかのように感じて立ちすくんだ。だが同時に自分も同じことをしていることも思い出した。


 彼女は不潔な人間は嫌いだった。そう公言しているし、入浴をサボって悪臭を漂わせている水夫を叱り飛ばしたこともあった。だがそれは入浴の機会があるのに身綺麗にしないからだ。これから会う奴隷たちは、掃除も入浴もままならなかったのだろう。だというのに悪臭を理由として嫌悪するのはお門違いだ。

――それでは戦場で血を流す兵士を、不潔だとなじるようなものではないか!

彼女は指を無理やり鼻から離すと、大きく深呼吸してみせた。悪臭と嫌悪感からむせ返りそうになったが、彼女は我慢してにこりと微笑んだ。

「よし、では行こうか!」


 イゾルテが船長を追って階段を下ると、そこは思ったよりも綺麗だった。ゲルトルート号の水兵用トイレ(掃除前)くらいには綺麗だった。それに、奴隷たちも思ったより生き生きしていた。かつて目にした、何もかも諦めたようなドルクの戦奴たちよりはちょっとはマシだった。想像を絶すると思っていたのに想像の範囲内だったのだ。ほっと安堵の溜息を吐いた彼女に、だが船長が囁いた。

「申し訳ありません。『現状のままにせよ』という指示を頂く前に掃除をしてしまいました」

「は、ははは、仕方ないさ……」

そう言いながらも彼女は人知れず冷や汗をかいた。

――じゃあ、その前はどんだけ酷かったんだ……?


 奴隷たちは3人ずつベンチに座っていた。どうやらベンチごとに一本の櫂を担当するようだ。ベンチの下には何やら汚れた桶やツボが置かれていたが、ここのところトイレ掃除の経験が豊富な彼女にはすぐにピンときた。

――なるほど、足枷をして鎖に繋がれていたら当然トイレなんか行けないから、トイレの方を手近な所に用意する必要があるのか。

その非人間的な扱いに怒りと嫌悪を感じながらも、同時にイゾルテはその合理性に感心してもいた。


 イゾルテの美貌にぽかんとする奴隷たちの間を通って、船尾側――つまり奴隷たちの前に立つと彼女は声を張り上げた。


「私は、イゾルテ・ペトルス・カエサル・パレオロゴス。プレセンティナ皇帝の娘であり、現在はこの船の所有者でもある。諸君らと話をしたいと思ってやってきた。顔は見えぬが下の階の者にも聞いてほしい」


 皇女と聞いて奴隷たちは驚愕した。漕ぎ手部屋になど、船長はおろか海賊だってめったに降りて来ないのだ。奴隷の世話すら奴隷にさせるのがガレー船という地獄の流儀だ。高貴なしかも年端もいかない少女が、漕ぎ手部屋に入って嫌な顔も見せず、卑しい奴隷と話したいというのだ。


「既に聞いたと思うが、諸君は出身民族に応じた期間の労役の後、奴隷身分から開放される事となった。だが、やはりそれは改める。労役は課すが、それはあくまで開放された身分で行うものとする。

 つまり、君たちは既に奴隷ではない。その証拠として最初の仕事を与える。肥壺や桶を持って上甲板に上がれ! そして器ごと海に棄ててしまえ! 君たちを縛る鎖は既に無い。そんな物は、諸君には不要なものだ!」


 イゾルテは船長に向き直った。

「船長、甲板に風呂を用意しろ。どうせ10日もせずに帰港するのだ、じゃんじゃん薪を炊いてヤケドするほどの熱いお湯を用意しろ。それと石鹸だ。ありったけの石鹸も用意しろ。 私の私物も残らず供出するぞ」

「はい、直ちに!」

彼女は再び開放奴隷たちに向き直ると、唖然としている男たちに怒鳴り散らした。

「何をしている? 早く行かんか! 言っておくが、私は不潔な人間が嫌いだ。臭いまま戻ってきたら許さんからな。徹底的に奴隷の垢を落としてこい!」

奴隷改め解放奴隷達が慌てて階段に向かうと、船長が先に立って上甲板へと誘導して行った。


 彼等が全て出て行くと、彼女は両手の手袋を脱いだ。

「誰かアドラーを呼んできてくれ。昨日の罰当番がまだ済んでいなかったからな」

ムルクスが珍しく茶々を入れた。

「罰当番は便所掃除のはずですが?」

彼女は肩をすくめて答えた。

「仕方ないだろう? 便所は今頃海の底だ」



 ゲルトルード号と補給船(ムスタファが追っていた亀)のかまどまで総動員して用意されたお湯と高価な石鹸を堪能した解放奴隷たちは、用意された着替え――水夫たちの着替えを供出させた――に袖を通した。さっぱりして生き返ったような心持ちになった彼等は、今後のことを仲間たちとワイワイ話していた。

「風呂がこんなに気持ち良い物だとは知らなかったぜ」

「奴隷になってからは、お湯で身体を洗ったことすらなかったからなぁ。まして石鹸まで使わせて貰えるとは!」

「まさに生き返った気分だな」

「ああ、おかげでさっぱりしたし、匂いも消えた。でもまたあそこに戻ったら、すぐに臭くなっちまうだろうな」

「仕方ねぇさ。10日以内に寄港するって姫様が言ってただろ、それくらい我慢しようぜ」

だが漕ぎ手部屋に戻ろうとした彼等は、様子がおかしい事に気づいた。水夫がひっきりなしに漕ぎ手部屋に海水を運び入れていて、中では大勢がドタバタと何かをしている様子だったのだ。彼らが不審そうに中を覗きこむと、水夫や士官たちに混じって泡だらけの床を磨くイゾルテの姿があった。


 結局、この日の抜錨ばつびょうは翌日に延期された。


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注1 あんまりイメージが湧きませんが、地中海にはホホジロザメが多く生息しています。

映画『ジョーズ』のモデルになった、人喰いザメと名高い例のサメです。


注2 航海中は真水を補給できないので、出港時に積み込んでおく必要があります。しかし塩素が入ってる訳でも無し、雑菌が繁殖しちゃう危険性があるのです。そこで船旅では水の代わりにワインを飲むのが一般的でした。アルコールによる殺菌作用が期待できるからです。

別にイゾルテが若年性アルコール中毒な訳ではありません。

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