2 悪酔い

 ヘメタル歴1522年が明けて様々な祝賀イベントが行われる中、イゾルテは離宮に引きこもっていた。帰国してからというもの、彼女が皇宮にいるとやたらとチヤホヤされるのだ。年若い令嬢方にきゃーきゃー言われるだけならまだ良いのだが、寄ってくるのが脂ぎった役人やら元老院議員やらだとなると良くなかった。ただでさえテオドーラとの関係がややこしいのに、この上帝位継承候補として期待されても困るのだ。あと爽やかなイケメンたちが寄ってきても、やっぱりテオドーラ関係でややこしいことになるだろう。そんなわけでイゾルテは、仮病を使って離宮に引き篭もり、全ての宮中行事をサボり倒していたのである。


 そんなある日、アドラーとムスタファが新年の挨拶にやって来た。約束通りムスタファにニ輪荷車{自転車(マウンテンバイク)}を披露すると、イゾルテは颯爽とそれに乗ってみせた。ぐるりと中庭を一周し、びっくりしているムスタファの目の前でズザザァーっと後輪を滑らせながら止まると、丸兜{ヘルメット}の面覆い{シールド}を跳ね上げてニヤリと笑った。

「ふっふっふ、お前にこれを乗りこなすことが出来るかな?」

「え、乗ってみて良いんですか!?」

「特別だぞ。そのうち量産品が出来ると思うが、今現在では世界に一台しかない乗り物だからな」

ムスタファは大喜びしてニ輪荷車{自転車}に跨った。

「よーし、ここに跨って、足をこう……とっとっとっ!」

ガシャンとひっくり返ったムスタファを見てイゾルテは大爆笑した。

「わはははっ! 大の男がコケるのは、何故か無性に楽しいな!」

「くぅ、まだまだ!」


 ムスタファがムキになってニ輪荷車{自転車}に挑戦している間に、イゾルテはアドラーを作業室に連れ込んで新しい贈り物を見せた。

「これは……また訳の分からない物ですね」

 それは銅で出来た2つの器{アランビック蒸留器}だった。大きな方には注ぎ口と思われる細い管が付いているのだが、妙に横の方に突き出していて非常に注ぎにくそうな形をしていた。小さい方の器はもっと奇妙で、上から入った銅の管が器の中をぐるぐると螺旋状に回って最終的に器の外に突き出ていた。これでは管に水を入れても器の外に流れていくだけだし、器に入れた水は管からは出ないはずだ。

「だが、モノ自体は我々でも再現できそうだろう?」

「やかんやランプと大差ないですしね」

イゾルテは贈り物に付属していたペラペラの本を開いた。文字は読めないが、絵を見れば何となく使い方が想像できた。

「どうやら2つの器に液体を入れて繋げるようだ」

「大きい器の下にあるのはランプですか? ここに入れた液体を炙っているようですが」

「ふむ、ちょっとやってみるか」


 イゾルテは呼び鈴を鳴らしてメイドを呼ぶと奇妙な注文を出した。

「何か液体を2種類持ってきてくれ」

「え? 液体……ですか?」

「ああ、何でも良いから適当に頼む」

「はぁ……」

 イゾルテはこういう訳のわからない注文をされることが稀によくある。メイドは戸惑ったが、「ひょっとして飲んじゃうかも?」と思い、安全のために飲めるモノ――冷えたワインと熱い紅茶――を用意した。

 それを渡されたイゾルテは、どうせ過熱するのならとランプで炙る方に紅茶を入れ、管が貫通している方にワインを入れた。しばらくして紅茶が沸き立つと、ワインを入れた器の端から透明な液体がポトポトとしたたり落ちた。

 イゾルテはそれを指に取るとくんくんと匂いをかぎ、ペロリと舐めた。アドラーはぎょっとして叱りつけた。

「姫様! 毒だったらどうするんですか!」

「いやいや、もともと紅茶だろうが。それにこれはたぶん……水だな」

「水? 紅茶じゃなくて?」

アドラーもペロリと舐めてみると、それは確かに水だった。正確にはぬるま湯だが。

「ひょっとして、これは……真水を作る装置なのかな?」

「おお、それはすごい! ですが、あんまり役には立たないですな」

「代わりに燃料が必要だからなぁ」

ランプの油だってタダじゃないのだ。薪ならだいぶ安くすむだろうけど、ポトポトと落ちる程度の僅かな水しか得られないのでは、とても採算がとれないだろう。

「まあ、籠城戦の時に水を断たれたら、家を焼いてでも水が欲しくなるかもしれませんが……」


 釈然としないイゾルテは、再びペラペラの本を手に取った。その表紙には楽しげに乾杯している男たちの絵が載っていた。

「いや、やっぱり何か違うと思う。見ろ、この表紙。この絵では明らかに酒を飲んでいる。ただの水でこんなに盛り上がれるヤツがいるか?」

「じゃあ今度はワインを温めてみますか?」

「うーん、ホットワインはあまり好きではないんだけどなぁ。体は温まるけど、酒精{アルコール}が飛んでしま……」

急に押し黙ったイゾルテに、アドラーは訝しそうに尋ねた。

「姫? どうしたんです?」


ひらめいたエウレカー! なるほど、なるほど、そういうことか! 理屈はわからんが、これは飛ばされた酒精{アルコール}を回収する装置なのだ! ……たぶん」


アドラはー首をひねった。

「でも、さっきは水でしたよ?」

「そうだ。さっきは紅茶を沸騰させて水を飛ばしただろう? だから水が出てきたのだ」

アドラーははっとして大きく目を見開いた。

「おお! じゃ、じゃあワインを温めて酒精{アルコール}だけを飛ばせば……」

イゾルテがニヤリと笑って頷いた。

「あぁ、酒精{アルコール}だけが取り出せる!」

エール(度数2~3%)やワイン(度数5%)を超える未知の酒――それは全ての酒飲みの夢であった。(注1)

 2人は頷き合うと、大きい器から紅茶を捨てて残りのワインを入れた。

「沸騰しないように、ゆ~っくりと加熱するのだ!」

やがて小さな器の端から、再び透明な液体が滴りだした。(注2)

「これは……すごい匂いだ。味は……うぐっ」

その数滴の雫を舐めてみたイゾルテは、思わずくらりと体を揺らした。

「姫様っ!?」

「こ、これはすごい。僅か数滴でボワッときたぞ。口の中でなくなってしまったが、ワインほどに飲んだらとんでもないことになりそうだ」

アドラーは興奮して叫んだ。

「おお、コップ、コップに溜めて飲んでみましょう!」



 ニ輪荷車{自転車}になんとか乗れるようなったムスタファが擦り傷だらけで作業室にやって来ると、そこは既に惨憺さんたんたる有り様だった。アドラーは床に倒れ伏し、イゾルテは見えない誰かと話をしていた。それだけならオカルトかサイコっぽいシチュエーションなのだが、濃厚な酒の匂いと茹でダコのようなイゾルテの顔色で大体の事情は分かった。


 15歳でワインを飲むのはタイトンでもドルクでも割りと普通のことだ。そもそも彼女たちの飲んでいるワインは、度数がせいぜい5%だった。糖分が分解されずにたっぷり残っているため、さらに水で割って飲んだりする。特に長い航海では、食品衛生の問題から腐りやすい真水ではなくワインを薄めて飲水にする必要があった。そんな訳で2人は薄いワインは飲み慣れていたのだが、今回はあまりにも相手が悪かったのである。


 完全に据わった目をしたイゾルテが、ムスタファに気がついた。

「む? むすたはか? ちょうろいい、ちょっろこい」

「殿下、大丈夫ですか?」

「うるしゃーい。わらしはもうころもれはないのら。ともかくここにすわるのら」

イゾルテはバンバンと自分の座る長椅子を叩いた。ムスタファがしぶしぶ長椅子に座ると、イゾルテが嬉しそうに笑った。

「ずっとむすたはにしたいことがあったのら」

「……何です?」

「それは……こうら!」

イゾルテはムスタファに飛びかかると、彼を長椅子の上に押し倒した。

「わらしはるっとこうしたかったのら! はぁはぁ、もうらまんれきん!」

「で、殿下、いけません。こんなの誰かに見られたら……」

「そんらのみせつけてやればよいのら!」

イゾルテは抵抗するムスタファの顎を掴むと、その口に無理やり押し付けた。


……インク入りの筆{油性ペン}を。


「なっ、何を……?」

「わははは、もじゃもじゃじゃ~」

イゾルテはムスタファの顔をインク入りの筆{油性ペン}で髭モジャにしていったのである。ああ、なんと非道なことであろうか! 

「このインクはなかなかきえないろー。これれいつまれもひげもじゃじゃ~」

だが、実際に描き上げてみると何だかしっくりこなかった。やはりボリュームがないからだろう。

「……まえとちらう。らっかりだ」

「ヒ、ヒドイ。しくしく」

「ないとらんで、おまえものめ!」

押し倒されたままのムスタファに、イゾルテは高濃度酒精{アルコール}を無理やり飲ませた。

「ご、ごぼごぼッ……って、殺す気ですか!?」

溺れかけたムスタファが飛び起きて口周りを拭うと、今度は袖が真っ黒になった。

「な、なんじゃこりゃーーっ!」

インク入りの筆{油性ペン}のインクが酒精{アルコール}で落ちるという(割りとどうでもいい)発見の瞬間だった。



 翌日、人生初の二日酔いを経験したイゾルテは、八つ当たり気味に高濃度酒精{アルコール}の飲用禁止を宣言した。そして正月早々職人たちを動員してこの蒸留器を量産すると、離宮の一角で高濃度酒精{アルコール}の生産を開始した。そしてそれはあくまでも、医療用(消毒用)、掃除用(油汚れ専用洗剤)として出荷されていったのである。

 だがその裏で、生産された高濃度酒精{アルコール}が飲用としても出回ったことは言うまでもない。それはイゾルテの目を逃れるため、原料のワインに偽装して木の樽に入れられ、そのまま密かに出荷されていった。


 そして約1年後、倉庫の片隅に隠蔽されたまま忘れらていた樽の1つが再発見されることになる。

「あれ? アドラーさん、なんか美味くなってますよ」

「おぉ、本当だ。樽に入れておいただけなんだがなぁ」

これが後にネクテー{ブランデー}(注3)と呼ばれる酒である。だがそれは、まだまだ先の話であった。


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注1 中世ヨーロッパでは、酒の質≒アルコール度数だったそうです。

酵母菌の限界が20%くらいだそうですので、ワインも日本酒もそのあたりが上限になります。

しかしそんなギリギリまで発酵を進めるには相当な技術が必要です。

だから「高い度数の酒を造るには、高い技術力が要る」という認識はあったのでしょう。

まあ蒸留技術が広まっちゃうと、度数を競争する意味は無くなっちゃうんですが。


注2 5%のアルコール水溶液からは一度の蒸留で40%くらいのアルコール水蒸気が取れるそうです。

でもそれをまた蒸留することで濃度が上がります。

5%のアルコール水溶液 → 40%くらい

40%のアルコール水溶液 → 80%くらい

80%のアルコール水溶液 → 90%くらい

4回以降はあんまり意味が無さそうです。90%もあれば医療用にも十分でしょう。

電子機器の掃除とかなら無水アルコールが欲しいところですが……今のところ作中の世界にそんな需要はなさそうです。


注3 ネクテーの元ネタは「ネクタル」です。英語読みだと「ネクター」。

果実をすり潰して作られるソフトドリンク……ではなく、ギリシャ神話で「神の飲み物」とされている謎の液体です。

ちなみに「神の食べ物」とされている謎の物体は「アンブロシア」です。

どっちもファンタジーでは有名なヤツですね。

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