8 ニ輪荷車
イゾルテは悩んでいた。感情が昂っていたとはいえ、まさかテオドーラとキスをしてしまうとは。まあ、二度目なんだけど。でも今回は、ただ唇を合わせただけではない。舌が絡みあい、お互いを求めて激しく吸いあったのだ。あの時の息苦しくも蕩けるような心地を思い出すと……
「いかん、いかん!」
イゾルテは激しく
あの時イゾルテは冷静ではなかったのだ。これまでずっと、皇族の義務から開放される方法は死だけだと思っていた。国のために死ぬことは彼女にとっては救いでもあり、叔父たちの死に様には密かに憧れてもいた。だが、他国に嫁いでプレセンティナの皇女でなくなった自分が、それでも生き続ける場合もあり得るのだと考えた時、彼女は言い知れぬ不安にとらわれていた。
――私に残されるのは何だ……? ドルクの人々に忌み嫌われる『魔女』だけなのではないか? 許されぬ罪だけを背負いながら、何の義務も負わず、人々に憎まれながら、それでも生きなければいけないのか……?
依って立つ大地が揺らぐような不安の中で、彼女は反射的に父の元に押しかけ、衝動的に皇女として死ぬことを望み、情熱的に姉にキスしてしまったのだ。そしてその衝動的で情熱的で官能的な熱いキスの味は……
「いかん、いかん!」
――まさか私は女性が好きなのか? いやいや、私はノーマルだ! ノンケだ! 異性愛者だ! その証拠に、周りは男ばかりではないか!
イゾルテは身の回りの男のことを考えてみた。一番身近なのはムルクスとアドラーだろうか? だが年寄りだ。ムスタファも若く見えるがおっさんである。スキピア子爵も、年はムスタファと大してかわらない。彼らは話は合うものの、男同士の友人という感じだった。
おっさんといえば、第2分艦隊司令だった故セルベッティ提督には惚れたかもしれない。
――うん、私も最期は
男惚れである。恋愛とは無関係だ。
その息子のアントニオ少年はどうだろう。ほとんど話した事はないが、知り合いでは一番年が近いはずだ。12歳か13歳といったところだろうか。
――意外と良いかもしれないな……。
素直な年下の少年を可愛がるというのは、背徳的な何かがある。イゾルテは少し想像してみた。
「ふふふ、お姉さんが教えてあ・げ・る」
「ど、どんな事をですか?」
「…………」
想像は終わった。イゾルテはまともな恋愛の事なんて何も知らなかった。
水夫や水兵たちは、不潔なのでキスする気になれそうにない。
――陸の上ではちゃんと風呂に入っているのかな?
離宮に出入りする職人たちも、親方ばかりなので皆んなおっさん……いや、おやっさんである。。
――今度弟子たちにも会ってみようかな?
学者の中には多少は若いのもいた。
――でも、あいつら恋愛に興味がなさそうだしなぁ。
イゾルテは自分を棚に上げていた。
その他といえば、ムルス騎士団はどうだろう。だが、団長はおっさんだったので駄目だ。
――そういえば、随員に若いのがいたな。ベル……ベルテルン……だっけ? 顔つきは悪くなかったな。
でもなぜか、テオドーラとしたように愛を囁いたり、唇を交わす情景は想像できなかった。ましてや、あの蕩けるような甘く激しいキスは……
「いかん、いかん!」
イゾルテは激しく
「まぁいいか、一生独身でいると誓ったんだし」
イゾルテは悩みを棚上げにした。
かつて学者と職人たちが離宮に出入りするようになった時、古代の遺物――と説明しているが本当は神様からの贈り物――を整理するにあたって、まずその分類から始めた。その分類基準は幾つかある。
・その機能が判明しているかどうか
用途不明な物もたくさんあった。遠くと話す箱{無線機}や黒い板{ソーラーパネル}もかつては用途が不明だった。
・その機能が役に立つかどうか
使い方が分かっても愚にもつかない物もあった。例えば、叩くと「へぇー」とか「ガッテン」とかしゃべる何か{ボタン}だ。 これらは何の役に立つのか全く分からなかった。もっとも、実は叩く度に100km先で竜巻が起こっている可能性だって否定はできないのだが。
・大きさや重さ
乾いた筆{鉛筆}やインク入りの筆{油性ペン}のように小さなものから、白鳥{スワンボート}のような巨大で邪魔なものまであった。
・再現可能かどうか
遠くと話す箱{無線機}のように原理からして全く理解できないものもある一方で、羅針盤や濃縮器{蒸留器}のように現代の技術でも再現できるものもあった。糊の付いた紙{付箋紙}のように完全ではなくとも似たようなものなら作れるという場合もある。そして出来そうで出来ないとっても悩ましいものもあるのだ。その筆頭が二輪荷車{自転車}だった。
二輪荷車{自転車}の再現は、その類似性から馬車職人チームが主管していた。
「殿下、試作機が完成しました!」
「うむ、今までとはどう違う?」
「1號機では導力鎖{チェーン}の再現ができず、失敗に終わりました。そこで2號機ではシャフトを用いた訳ですが、強度が足りずに走行中に折れました」
「あれは痛そうだったな」
その試験走行では折れたシャフトが地面に突き刺さり、つんのめった運転手が凄い勢いで地面に頭突きをかましていた。木製の兜{ヘルメットのレプリカ}をかぶっていなかったら、脳震盪とむち打ちだけでは済まなかっただろう。
「それで3號機は?」
「今回は導力鎖{チェーン}もシャフトも使っておりません。御覧ください!」
ガバっと覆いを跳ね除けると、そこから現れたのは珍妙なものだった。
「なんだか……随分と違うな」
3號機は原型となった二輪荷車{自転車}と比べて、前輪が二回り大きくなっている一方で、後輪が劇的に小さくなっていた。
「今回は思いっきり妥協しました。まず厄介な変速機構を省くことにしまして、だったら直接車輪を回してはどうかということになりました。
そうすると運転姿勢に無理があるので、後輪ではなく前輪を回すことになり、同じく運転姿勢の関係で後輪が小さくなりました」
「レバーがついていないが、どうやって止まるんだ?」
「前輪を直接回すので、足を止めれば回転も止まります」
「なるほど。ちょっと乗ってみて良いか?」
「どうぞどうぞ。あ、兜{ヘルメット}はかぶってくださいね」
イゾルテがペダルに片足を乗せ、ぐっと踏み込みながら跨ると、試作3號機はゆっくりと進み始めた。
「おおぅ、これは結構難しいぞ!」
重心が異常に高い上に、足が地面から遠く離れているのだ。その上オリジナルと違って常にペダルを回さないといけないので、横転に備えて足を構えることもできなかった。だがオリジナルに乗り慣れていたおかげか、それともマストに登り慣れて高さの感覚が馬鹿になっているおかげだろうか、イゾルテは次第にコツを掴んできた。
「これはこれで、違った面白さがあるな!」
イゾルテは職人たちの見守る中で、中庭をぐるぐると何周もした。最後にはわざと急に回転を止め、つんのめるのを利用して前方に飛び降り、振り返ってハンドルを掴んだ。
「おおー!」
イゾルテの軽業に一同が拍手と喝采を送った。
「これは中々良いと思う。だが初心者には難しいぞ。この高さでは頭を打って死ぬ者まで出るかもしれない」
「馬よりは低いですよ」
「だが馬よりも遥かにコケ易いだろう。何か安定する工夫はないだろうか……」
「うーん。いっそ4輪にしますか? 馬車みたいに」
「4輪? 同じものを2つ繋いで、白鳥{スワンボート}みたいに2人で漕ぐのか?」
イゾルテはそう言いながら、自分の言葉に引っ掛かりを覚えた。
――同じものを2つ繋ぐ? どこかで見たような……
「いえ、さすがにそれは操縦が難しいでしょう。やはり前輪は1つ……ああっ!」
「どうした?」
「後輪を3つにしてはどうでしょう?」
「何?」
「現在の後輪の左右に、横転防止のための車輪を付けるのです!」
「おお、それは確かに安定するな! ……でも、取り回しも悪くなるぞ?」
「慣れたら外せば良いのですよ」
「なるほど」
こうして量産型ニ輪荷車{自転車}の方向性が決まった。もはや全くニ輪ではないのだが、細かいことに拘ってはいけないのである。
「では4號機は、後輪3つのを作ってくれ。後は柔らかい車輪{ゴムタイヤ}と滑らかな軸受け{ベアリング}が欲しいところなんだがなぁ」
黒くて柔らかい車輪|(ゴムタイヤ)の再現は、博物学者チームが材料探しをしているのだが、未だに再現の目処は立っていない。やたらと滑らかな軸受け{ベアリング}も、内部部品の真球の精度が出なくて再現の道は遠いままである。
「とりあえず車輪については、木と皮の間にフェルトを入れているんですが、すぐに潰れて硬くなってしまうでしょうね」
「前輪をもう一回り大きくしよう。そうすれば幾らが衝撃を減らせるはずだ」
「分かりました」
後日完成する試作4號機は、イゾルテの承認を得て量産が開始されることになる。
「それと、導力鎖|(チェーン)と変速機の研究も続けて欲しい。ニ輪荷車{自転車}には使えなくても、他で使い道があるからな」
「そのあたりは鍛冶職人チームがやっていますよ。大きな試作品は動くのですが、ニ輪荷車{自転車}のサイズまで小型化するのが大変らしいですね」
「なんだ、そうだったのか? ならば条件は全て揃ったな!」
「何の話です?」
イゾルテは面覆い{シールド}の下で口元をニヤリと歪めた。
「ふっふっふ。世界で最も小さな乗り物の次は、世界で最も大きな乗り物だ!」
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