頼朝の目的
今日はもう五回目の歴史ムック。十日間で相模平定を終えた頼朝が、なぜに黄瀬川に急行したのがポイントだろうは意見が一致した。
「吾妻鏡は何かを編集しているのは間違いないと思うんだ。まず、単純には富士川の勝利を頼朝の手柄にしたかったのは確実にあると考えてる」
これは成功してると思う。今だって教科書的には富士川の源氏の御大将は頼朝だし、勝利者も頼朝になってるし。
「ただし吾妻鏡を崩すのは、それなりに難しい。そりゃ、現場の証人がその辺に転がってるわけじゃないし、玉葉だって限界がある。いや、吾妻鏡が玉葉や平家物語を踏まえてるから難しいとも言える」
「日本書紀みたいなものですね」
「政治が絡むと歴史が歪むけど、政治が絡まないと記録が残らないのが歴史の面白さかな」
スグルさんが注目したのが十月二十一日の記事。この日の頼朝は三島神社に参拝して神領を寄進したとなっています。
「頼朝の寄進状が社宝として残ってるんだよ」
「それは凄い」
見せてもらったけど崩し字だ。
「ボクも恥ずかしながら読めないんだけど、御園、川原ヶ里を寄進するって書いてあるそうなんだ。その気で見ると、ほら『三薗川原両所』て読めるだろ」
でも日付が変。治承四年の八月十九日と言えば、頼朝が蹶起して山木重隆を襲った日の翌々日。寄進するにも所領もないじゃないの。
「頼朝の残された文章にも偽造説が多くて、さらに十月二十一日の寄進状の記録にも問題が多いの指摘もあるんだよ」
「山木館襲撃の成功を感謝して、寄進の約束をして十月二十一日に果たしたの見方はどうですか」
「ボクの調べた範囲では、十月二十一日の寄進状は存在していない可能性が高い」
そりゃ逆だろう。取っておくのなら十月二十一日の分の気がする。
「寄進状の真贋鑑定となると手に負えないけど、三島大社に頼朝が参詣した日の自由度が広がると見れるんじゃないかい」
スグルさんの意図が見えてきた気がする。頼朝の黄瀬川は来る時も百キロを三日だけど、帰る時なんてもっと神業になるのよね。十月二十一日の三島大社参拝だけど、
『秉燭の程、御湯殿。三島社に詣でしめ給う。』
火灯し頃に風呂に入り、それから三島大社に参詣したとなってるから、黄瀬川を出発するのは十月二十二日朝になるはずだけど、十月二十三日には相模国府に着いちゃって論功褒賞までやってるんだよ。
「やはり軸は十月十九日の伊東祐親の詮議ですか」
「そうなんだよ、頼朝はこれをやるためだけに黄瀬川に急行しトンボ返りしたと見るべきじゃないかと」
スグルさんの仮説は大胆で、十月十六日に鎌倉を出発したとして、十月十九日に黄瀬川に到着、その日のうちに伊東祐親の詮議を済まし、夜は三島大社に参詣したかもぐらい。十月二十日朝に黄瀬川を出発して、十月二十三日に相模国府に帰ったぐらい。
これだったら行きは道中三泊で午前中に黄瀬川着とすると一日三十キロ弱ぐらいになるんだよね。帰りは当時相模国府が大磯にあったとすると七十キロぐらいになり、これも道中三泊だから一日二十キロぐらいになり、相模国府に余裕で午前中に到着可能なんだ。
「帰りはかなりユックリしてますね」
「相模国内の視察も兼ねてたんじゃないのかなぁ」
でもこのスケジュールなら、それなりの供回りを連れて黄瀬川に行くのが可能だよね。
「吾妻鏡でも一日三十五キロぐらいだから、不可能じゃないけど、たとえば千人ぐらい引き連れていたら、これぐらいの日数が欲しいと思うんだよ」
黄瀬川はまだ頼朝の版図と言えないところだから、不意の襲撃の危険性もあるもの。ん、ん、見えてきた。
「たとえば行きは吾妻鏡であったとしても、賀島に行ったのはスケジュールをかなり圧迫してますね」
「そうだろ。たとえば黄瀬川を二泊三日にして、十月二十一日に黄瀬川発なら帰路もそれほど無理がなくなると思うんだよ」
それが出来なかった理由は玉葉かも。玉葉では十月十九日まで平家軍が富士川にいたのは確実。しかし伊東祐親詮議の十月十九日が動かせなかったとすれば、
「だから平家物語の十月二十四日説なんて採用しようがなかったとも考えてる。相模国府に帰ってしまってるからね」
スグルさんも吾妻鏡の往路部分は正しい可能性は残るとして、
「これは復路は往路より近いですから、その分の黄瀬川滞在日数を引き延ばした操作の跡とか」
「そう考えてる。この時点で頼朝が相模を留守にして黄瀬川に四泊も留まるのは長過ぎると思うんだ」
伊東祐親詮議は祐親を鎌倉なり、相模国府に連行せず。黄瀬川まで出向くだけの意義を考えるべきだとスグルさんは主張して、
「個人的な因縁もあるとは思うけど、伊豆を支配下に置くための政治的なアピールじゃないかと考えてる」
伊豆の実力者であった伊東祐親が、伊豆の豪族の手に依って捕えられて頼朝の処分を乞う状態であれば、勢力拡張のチャンスだものね。
「伊豆は小さいから千人も率いて行けばなびくんじゃないかなぁ」
ここはもうちょっと考えても良さそうな。頼朝の手にしていた情報がどれぐらいかなのよね。たとえば十月十九日の夜に平家軍が撤退していたとして、黄瀬川の頼朝には十月二十日の夕までには届いた可能性はある。問題になるのは勝った武田がどう動くかだけど。
・平家軍を追撃する
・黄瀬川の頼朝を駆逐する
どちらも可能性はあると見て良いと思うんだ。黄瀬川に連れてきた兵力で武田と決戦は到底無理だから、十月二十一日に相模に帰ったは十分あり得ると思うのよね。武田とて相模に攻め込むより、駿河平定が優先するはずだし。
往路は吾妻鏡。伊東祐親詮議で伊豆支配を進めていた頼朝だけど、富士川の武田勝利を聞いて大慌てで相模に舞い戻ったとの見方なの。
「それも面白いけど、鎌倉ならともかく、黄瀬川まで来れば平家軍の接近と、富士川で待ち受ける武田軍の情報ぐらい手に入ったんじゃないかな」
言われてみれば、
「ボクがトンボ返り説を考えたのは、黄瀬川で平家軍、武田軍の情報を聞いて、必要最小限の祐親詮議だけ済ませて相模に戻ったと考えたからだよ。平家と武田のどっちが勝ったにしても、黄瀬川くんだりなんかにウロウロしていてもメリットはないだろ」
「すると伊豆を簡単に手中にするつもりで黄瀬川に来てみれば、富士川方面で大変なことが起っているのを知り、祐親詮議だけ見栄張ってやって逃げて帰ったってことになりますね」
頼朝は十月六日に相模に入り、敵対勢力の排除を十月十六日まで済ましてはいるけど、まだ荒ごなし状態だから、相模をそう簡単に動きたくないはず。ああいうのって、ちょっとでも油断するとお家再興とか、父の仇みたいな連中が湧いてくるのは常識だし。それでも黄瀬川に進出した理由が重大な気がする。
「ヒントは十月二十三日にある気もしてるんだ」
その日は相模国府に戻った日だけど、
『初めて勲功の賞を行わる』
コトリ先輩に聞いたことがあるけど、源平武者が戦い理由は大きく分けて二つで、
・自分の所領を守るため
・恩賞のため
この上に寄子寄親制があるんだって。どんなものかと言えば親分子分の関係。自分より強いところに所領を脅かされたら、親分が他の子分を率いて助けに来てくれるぐらい。当然だけど、他の子分のピンチにも出て行かないと行けないけど、ある種の攻守同盟みたいなものかな。
寄親の上にさらに大きな寄親がいて、頂点が武家の棟梁って感じ。ただ合戦の規模が大きくなれば、タダ働きってわけにもいかず、手柄に対して恩賞が出されるんだ。これを公平かつ不満をもたさずに出来るかどうかが武家の棟梁の鼎の軽重みたいなもの。
このシステムは当時の特殊な状況じゃなく、現在でも同じと考えてる。頼朝は見事にそれを成し遂げたんだけど、恩賞配るにしても原資が必要。大庭氏や、波多野氏を叩いたのも、敵対勢力の排除の意味もあるだろうけど、恩賞の原資の確保の意味もあったと思う。とにかくここまでの頼朝は徒手空拳みたいなものだし。
「十分可能性はあると考えてる。頼朝は大庭氏や波多野氏の所領から恩賞の原資を得てはいたろうけど、当時の頼朝の脆弱な立場からすると、ある程度大盤振舞にせざるを得ないはずなんだ」
大盤振舞すれば味方は納得するだろうけど、当然だけど頼朝の手元に残るものは少なくなるのよね。
「理由は一つとは限らないけど、お手軽に伊豆の所領が手に入りそうと考えて飛びついたのもあっても不思議ないと考えてる」
他には因縁の祐親の詮議もあるし、舅の北条時政の旧領回復の狙いもあったと伊集院さんはしてた。ただ、どれも決定打じゃないんよね。もう少しムックの必要性はありそうだけどこの夜はオシマイ。ムックは楽しかったんだけど、不満がある。
「ムックしかしていないじゃない」
伊集院さんと会うのは歴史ムックを楽しむためだけど、伊集院さんと会うのも目的なんだよ。もう五回目だよ。そろそろ何かリアクションしてくれてもイイじゃないの。そりゃ、いきなりホテルは困るけど、食事に誘うとか、昼間のデートに誘うとか。シノブは待ってるんだぞ。
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