テンペート
吹っ切れた感じはするのだけど、当面はどうしようもないのよね。さすがに押しかけ女房をやるのもどうかと思うし。なにかアクションが起こすにはキッカケが必要だけど、見当たらないから馬に熱中してる。
それとだけど、シノブは伊集院さんに天秤にかけられたのはわかる。ただね、その相手はどう調べたって神崎愛梨なのよ。神崎愛梨なんてお金持ちのワガママお姫様じゃない。そんな神崎愛梨から伊集院さんは逃げ回っていたはずなのに、どうしてシノブを選ばなかったんだろう。
だからチャンスは十分にあると期待してる。あの夜に、ああなったのは、伊集院さんの本心じゃなくて、世間のしがらみって奴に違いない。それが何かを突き止めて、解してやれば逆転できるはず。いや、逆転してやるんだ。
ひとしきり馬を走らせて、スッキリしてクラブハウスに戻ると小林社長に呼ばれたんだ。
「エライもんが来てるんや」
へぇ、甲陵倶楽部附属馬術会長杯障害馬術大会からの招待状か。
「あそこの会長杯は本物の金杯やねん」
戦前からあるものだそうだけど、
「あの金杯は甲陵倶楽部の門外不出の秘宝とされて、表彰式にさえ出てけえへんねん。出るのはレプリカだけで、授与されるのは保持者の栄誉だけやねん。理事長室にあるそうやけど、オレも見たことないぐらいや」
えらい御大層なカップだけど、実物も見れない金杯じゃ意味ないじゃない。
「ところがやな、あの金杯には伝説があって、もし外部招待選手が優勝したら贈呈される決まりになっとるそうや」
「贈呈って、まさかそのまま貰えるとか」
「そうなっとるって話や。そやけどオレの知っとる限り、外部招待選手なんか見たことも、聞いたこともあらへんけど」
金杯を失うリスクを冒してまでの招待となると目的はミエミエで、前の団体戦のリベンジ・マッチしかないじゃない。それにしても妙なのは招待相手がコトリ先輩じゃなくシノブなんだよね。
そこはともかく参加するにしても甲陵倶楽部の馬の質は抜きん出ていて、前に貸与馬として乗せてもらった野路菊クラブより格段にイイらしい。そもそもだけどシノブは馬持ってないし。
「自馬戦じゃ、出場は無理です」
「そうやけど、この際買ったら」
「気楽に言わないで下さい」
「まあ、そうやねんけど、出場して勝ったらあの金杯もらえるかもしれないんやで」
招待についてはその日に即答の必要もなかったので、馬を買う話も含めて保留にして三十階に帰宅。ここのところユッキー社長もコトリ先輩も出張続きで乗馬クラブはお休み。
「海外出張はかなわんわ」
相も変わらずの時差ボケで、海外出張の度にボヤく、ボヤく。
「ユッキー、大きし過ぎたんちゃうか」
「なっちゃったものは、しょうがないし」
大きくなったのはユッキー社長の手腕も大きいんだけど、それを手助けしたコトリ先輩の功績も巨大。二人が組んだら世界最強ってところ。大げさにいえば、この二人がどこに海外出張に出かけ、どこを視察して、どんな感想を漏らしたかだけで世界経済に影響するぐらい。
「政治家もかなわんな」
「でも断りにくいし」
エラン宇宙船騒動では地球側全権代表、さらにはエラン協力機構の代表を務め、見ようによっては地球大統領的な地位に就き、小うるさい有力国を丸め込み、押さえ込んだ手腕は世界中に轟いています。
エラン問題が片付くと、なんの未練もなく代表の座を退いたのも驚かれています。あの時のリスペクトは未だに残っており、海外出張の訪問国に行くたびに首脳との会談が申し込まれるものだから、
「ユッキー、あのまま地球大統領やってりゃ、良かったのに」
「政治はコリゴリよ」
「そやねんけど」
コトリ先輩は時差ボケだけでなく、妙に有名人になってしまっているのも海外出張を嫌う理由になってるぐらいかな。会長杯の招待状の話をしたんだけど、
「・・・へえ、そんな事があったんや」
「甲陵倶楽部の会長杯って、すっごい立派な金杯で十五キロぐらいあるのよ」
「いや二十キロって話もある。台座に馬が彫ってあるけど、台座まで全部金やねん」
そっか、殆ど顔出さないけど、ユッキー社長もコトリ先輩も甲陵倶楽部のメンバーだから見たことあるんだ。聞くと理事長室の防犯装置付のショウ・ケースに飾られているみたいで、誰も手にしたことがないから重さもわかんないんだって。
「あれでビール飲んだら旨そうやな」
「やっぱり、シャンパンじゃない」
「焼酎は合わんやろな」
そういう問題じゃないでしょうが。
「でも、どうしてコトリ先輩じゃないのでしょうか」
「あら、知らなかったの。今度の大会には神崎愛梨が出て来るのよ」
「えっ、帰って来てるのですか」
神崎工業と伊集院製作所のトラブルの調査をやった時に知ったんだけど、意外なことに乗馬をやってたんだよね。それも趣味じゃなくて本格派。いや、そんなレベルじゃなくて甲陵倶楽部随一の実力者。これでも言い足りない、アジア代表の松本さんさえ凌ぐ日本のトップ・ライダーの一人なのよね。なんと言ってもオリンピック強化指定選手だものね。
「あん時に神崎愛梨がおったら勝てへんかったやろな」
だろうな。あの時に甲陵倶楽部に減点ゼロがもう一人いたら勝ち目ゼロだったもの。
「しっかし自馬戦とはね」
「神崎愛梨の馬は凄いで」
神崎愛梨の持ち馬はメイウインドっていうのだけどウエストファーレンの葦毛。馬術用馬はハノーバが多いんだけど、ウエストファーレンもハノーバと原種が近くオリンピックでも優秀な成績を収めてるのよね。あの馬は甲陵倶楽部の中でも群を抜いている。
相手が神崎愛梨ならやりたいけど、メイウインドに匹敵する馬がいないと勝負にもならないよ。あれだけの馬は単にカネを積んだだけじゃ手に入らないのよね。
「神崎愛梨のメイウインドに対抗する馬をそろえるとなると、右から左に行かないですよね」
そしたらユッキー社長がニッコリ笑って、
「だったらちょうど良かったかも」
「なにがですか?」
「今回の出張のお土産」
今回の欧州出張はフランスが中心だったのですが、
「パリのルナも歳取ったけど生きとったで」
もう幾つだったっけ、ミサキちゃんが語学留学に行ってたはず。
「ルナも馬が好きなんよ。フランス馬術連盟の会長やっとった事もあって今でも理事や。庭に馬場まであるもんな。そやから最近乗ってる話をしたら盛り上がってもて」
「まさか、買ったとか」
「ルナのお勧めや。今は検疫中」
お土産に馬まで買うかと思ったけど、買ったのは
「セルフランセや」
セルフランセが成立したのは一九六五年とまだ歴史が浅く純系化がまだイマイチで、体型や性質のバラつきが多いのだけど、逆にセルフランセとして登録されたのは非常に優秀なものになってるって話。とにかく登録の条件がジャンプ力になってるぐらい。
「登録されたセルフランセとなると・・・」
「お土産の値段を聞くのは野暮よ」
何千万円は確実にするはず。
「ルナもフランス至上主義のとこがあるから、日本に売るのは国家的損失とか抜かしとった」
「だったら勧めなきゃイイのにね」
こりゃ、セルフランセの中でも特級品とか、
「コトリ先輩はどう見ましたか」
すると含み笑いをしながら、
「ルナがそこまで言うのがわかったぐらいや」
これは、もう間違いない。一億越えてるはず。
「馬の名前は?」
「テンペート」
英語で言えばテンペスト。嵐って意味だけど、
「セルフランセにしたら少々気性が荒いとこもあるけど、シノブちゃんにはピッタリやと思うで」
ここはわかんないけど、古代エレギオン時代のシノブの馬との相性を知ってるコトリ先輩がそう言うのなら、きっとそうなんだろう。
「北六甲クラブで飼えるでしょうか」
「それは心配ないやろ。厩舎はボロやけど、馬の世話は一流と見て良いはずや」
見た目は確かにボロだけど、しっかりしてるのは間違いない。台風被害の時に、屋内馬場は倒壊し、クラブハウスの屋根も吹っ飛んだけど、厩舎はビクともしなかったそうだもの。それと小林社長は厩務員上がりだから、
『馬の世話やったら日本一や』
『でもあの厩舎やんか』
そうコトリ先輩が言ったら、
『そんなことないで。そりゃ、見た目はボロッちいかもしれんが、馬のために・・・』
はいはい、どれだけ考え抜いてるかの講釈を何度も聞いてるのよね。検疫も終ってテンペートを運び込んだら小林社長は驚嘆してた。
「間違いない。エエか悪いかは目を見ただけでもわかるけど、これは一級品、いや特級品や。よく、まあ、これだけの馬を」
「掘り出し物やねん」
コトリ先輩が嘘八百の掘り出し秘話をやってました。よくあんだけ、壮大なウソ話を即興で作り上げるものですよ。毎度のことながらで、聞いてるとシノブもホントはそうじゃなかったかと信じてしまいそうなぐらいリアリティに富んでます。
シノブもさっそく乗ってみましたが、モノが違うのがヒシヒシと伝わります。それだけでなく、乗った瞬間に馬と心がピタッと合ってる感じさえします。この馬がいれば神崎愛梨にも対抗できるはず。
「小林社長、例の招待受けます」
「わかった。大会までにバッチリ仕上げといたるで」
ここで気づいたこと。シノブへの説明もウソが混じってること。お二人の今回の出張は馬が目的だったんだ。だからルナに頼み込んで最高のセルフランセを紹介させたんだ、
これはリベンジ・マッチを予想してたに違いない。あれほどの敗北を甲陵倶楽部が放置するとは思えないものね。そして出てくるとなると随一の実力者である神崎愛梨とメイウインドになり、神崎愛梨が出てくるとシノブに挑戦状を送るところまで読んでたんだよ。
そして見つけ出してくれたのがテンペート。これは何かの運命。この勝負の行方がシノブの恋の行方を大きく変えるはず。最高のプレゼントを確かに受け取った。
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