富士川の地形
コトリ先輩が言っていた地形の問題に取り組んでる。調査部使えば簡単だけど、それをやったら趣味のムックの意味無い物ね。まずは当時の東海道からだけど、西から進めば玉葉の記録どおりに、
十月十三日 手越駅
十月十六日 高橋駅
十月十七日 蒲原駅
ここも十月十七日に蒲原駅に居たとは玉葉には書いてないけど、こう進んでいたで間違いない。この辺は海岸線沿いの狭いところだから、そんなに変わりようもないし。問題は十月十八日になるけど、そのためには当時の富士川の様子を確認しないと。まず十六夜日記は重要だと見てる。
『ふし河わたる、朝川いとさむし、かそふれは十五瀬をそわたりぬる』
富士川を渡るのに十五ヶ所の瀬を渡ったとなってるのよね。これは富士川の支流が河口部にそれだけあったとして良さそう。言い換えれば今よりもっと川幅が広くて、中洲が点在していた感じだよね。
現在の富士川は十七世紀の治水工事で変わったとなってるの。かつては東側にも幾つもの流れがあったのを、現在の富士川一本にまとめたぐらい。現在の富士川を西流とすれば、東流というべきものがたくさんあった事になる。
ここでだけど現在でも田子の浦港があるけど、あれは吉原湊とも言って、中世の流通拠点だったのよね。それが江戸時代には衰退したのは、富士川の流路変更のために港の水位が下がってしまったとなってるのよ。つまり富士川の東流は田子の浦まで流れ込んでいたことになる。
問題は当時の富士川の流れと東海道の走行よね。当時の富士川は東にも多くの支流を持っていたのはわかるとして東海道の駅家は蒲原の次が柏原なんだ。だけど蒲原駅からは北上して岩淵に東海道は進んでる。おそらく当時は富士川の河口付近を渡るのは難しかったからかもしれない。
岩淵から真っ直ぐ東に向かうと・・・そっか、そっか、中道往還に当たるんだ。中道往還は甲斐から駿河に向かう街道なのよ。富士川の合戦に武田軍が来てるのは玉葉からも明らかだから、武田軍は中道往還を使って富士川に来ていたに間違いない。
ん、ん、ん、平家越遺跡の辺りが東海道と中道往還の合流地点ぐらいになるじゃない。今なら富士市の本吉原駅の南側ぐらいだけど、ここなら富士川の東岸の平地みたいなところだから、陣地を置いても自然じゃない。こういうものは地図に書いてみないと。
柏原駅は須津沼の南側になってるけど、西に進むには吉原湊が通れないから北上してるんだ。そして平家越のあたりから岩淵に進んだんだ。
地図では省略しちゃったけど、現在の富士川を西流とすると、当時は吉原湊に流れる東流もあって、その間はたくさんの支流があって、中洲が点在している感じ。 ほんじゃあ、平家軍は蒲原駅からどこまで進んでたんだろう。富士川辺に陣地を構えたとなってるけど、岩淵じゃ遠い気がする。
岩淵と平家越じゃ直線距離でも七キロぐらいあるもんね。なるほど富士川を挟んで合戦をやりたいなら、この広大な富士川を源平どちらかが渡らないといけないんだ。
ほいでもって渡河する方が不利よね。十カ所以上も川を渡るだけで消耗しちゃうもの。だってユリウス暦の十一月だよ。寒さにもやられちゃうよ。
探したら国土地理院に興味深い地図があった。土地の条件を示した地図なんだ。 これから見るとかつての富士川は東流もかなり大きかったのがわかるのと、東流と西流の間にかなり大きな中洲があったんじゃないかと推測できそうなの。
当時の東海道は岩淵からまず西流を渡って中洲を横断し、それから東流を渡って平家越に至るって感じに見えるの。 さらに言えば現在の富士市吉原本町駅辺りが平家越になるけど、その辺りは微高地みたい。だから武田軍は陣営を置いたんだろうって、
ここで問題になって来るのが浮嶋原。武田軍は蒲原駅に居た平家軍に挑戦の使者を送ってると玉葉に書いてあるんだ。その決戦指定場所が浮嶋原。 浮嶋原がどこかだけど、その前に浮嶋沼ってのがある。これが一つの沼じゃなくて愛鷹山の麓に広大な規模の湿地帯を指すのよね。
東海道が海岸線沿いに走っているのは浮嶋沼の南側の微高地地帯であったと見て良さそう。じゃあ、浮嶋原がどこかになるけど、浮嶋沼の西側に隣接する平家越あたりになると考えるのが妥当な気がする。
源平武者の戦術は騎射特化だし、馬に乗った小領主が進めないところは、軍勢も進まないぐらいに考えて良いはずってコトリ先輩も言ってた。理由を聞いたら、矢を防ぐための鎧が重くなりすぎて、徒歩じゃ亀になっちゃうみたい。だから戦うなら平地を出来るだけ選ぶはず。
なんとなく合戦の実相が見えてきた気がする。この辺で源平武者が大規模な合戦を行うなら、浮嶋原か、せいぜい富士川の中洲ぐらいになるんじゃなかろうか。ちょっと整理すると、
・武田軍は富士川の東側の浮嶋原に陣を構えていた
・平家側は蒲原駅から岩淵に進んだ
この時点で七キロあるけど、川を渡ったのは平家軍のはず。戦術的には川を渡るだけで不利になるけど、平家軍は朝廷の命を受けた討伐軍だから、敵を目の前にして引き返す選択はないし、のんびり対陣できるほど兵糧も無かったはずなんだ。
平家軍は玉葉によると十月十八日に富士川辺に陣を構えたとなってるけど、もうちょっと具体的には富士川西流を渡り、東流を前にして中洲で陣を構えたと考えて良いはずだ。武田軍もこれに呼応して富士川の東岸に軍勢を進めてきたぐらいかな。これは延慶本の描写にも一致するところがあるんだよ。
『ひがしみなみきたさんばうはかたきのかたなり』
東と南と北の三方を取り囲まれる心理状態になったと読みかえても良いはず。この状態は岩淵で陣を構えていたら全面包囲になっちゃうもの。ここまで情報を整理したところで、
「シノブちゃん、進んでる」
コトリ先輩に聞いてもらったら、
「さすがはシノブちゃんだね。コトリがやった時には、ここまで調べてないよ」
よっしゃ、これで次回の準備はバッチリだ。
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