後編

 翌日の早朝。先にマンションを出た泰介は周囲を見渡した。付近に怪しい車や人影は見当たらない。朝早くから行動するとは予想しなかったのだろう。

 確認は済んだ。一旦自宅へと引き返す。


「いこう、美桜。今なら平気だ」


 首肯しゅこうした彼女が部屋から出てくる。鍵を閉め、急いで部屋を後にした。

 向かう先はまだ調べていない場所──美桜の家があるはずだった郊外の住宅地だ。ここから歩いて二〇分くらいのところにある。


「雨か……美桜、平気?」


 マンションを出る寸前、美桜に声をかけた。白のシャツに空色のキュロットスカートという夏らしい格好をした彼女が目に映る。


「うん。傘あるでしょ?」

「あるよ。って……あれ、美桜。傘は?」

「家には一本しかなかったよ。だから入りまーす」


 なんの前触れもなく美桜が傘の中へと入ってくる。よく考えると一人暮らしなのだから余分な傘がないのは当たり前だった。

 傘を持つ二人の手が重なり合う。仲睦まじいことを表すかのように。


「な、なんの冗談ですかね……美桜さん?」

「だって濡れたくないもん。それにほら、玉川って人は私が漂流物って知らないんでしょ? ならこうやって相合傘で恋人装ってる方が怪しまれないかなーって」

「なるほど……」


 一理あると泰介も膝を叩いた。変によそよそしい態度よりかは恋人として当たり前のように振る舞う方が自然だ。

 ただ納得していないこともある。


「友達じゃダメだったんですかね?」

「いやいや。男女二人が部屋から出てきて、朝から外出だよ? 友達は無理でしょ」

「あー……それはそうですね、はい」


 自分のしてきたことを思い返すと急に棒読みになった。思えばとんでもない状況だった。

 見知らぬ女子高生を家に連れこんで、半同棲まがいの日々を過ごして……よく手を出さずにこらえたと自身を褒めたくなった。


「わかったら、ほら。いこ?」

「う、うん」


 二人は再び歩を進める。雨音はしとしとと聞こえる程度で強くはない。

 目的地に着くまで、泰介は天国と地獄を彷徨さまよい続けた。手を繋げた嬉しさと想いを押し殺さなければいけないわびしさ。

 美桜に近づくたびにシャンプーの匂いが鼻腔びくうをくすぐり、なおさら心を掻き乱す。心の矛盾がなければどんなに楽だったか。

 頭を切り替え、それから二〇分かけて心臓を落ち着かせた。タイムスリップの考察を頭の中でしていたら、ほんの少しだがマシになった。


「ここ、ここだった確か。私が家に戻ろうとしてたどり着いた場所」


 郊外を歩いていると美桜が白い家の前で立ち止まった。ふと近くの電柱を見遣る。記載されている住所は道中で彼女から聞いたものと同じだ。ここに間違いない。


「美桜の家って建ててから何年くらい経つ?」

「だいたい一五年くらいだと思う」

「ここらへんの雰囲気からして全く違うな」


 壁の汚れが目立っていないあたり、築一〇年も経っていないのだろう。周りの建物もほとんどが比較的新しい家だ。

 事前に調べていた泰介はおおよその見当がついていた。


「一時期この辺の空き家を全部不動産屋が買い取ってたって話があるんだよ。それがこの前話した一〇年くらい前の再開発の時らしい。だからこの辺は新しい家が多いんだろうな」

「不動産屋が買い取るくらいの再開発なんてあったかな……」


 納得のいってない表情を美桜が見せる。泰介は理由がわからず首を傾げた。自分の言葉に違和感はない。

 ただそこはかとなく齟齬そごを感じた。タイムスリップしてきたとはいえ、美桜は自分とほとんど同じ時の流れを経験しているはずだ。違いはここ二、三年。なのに時たま話が噛み合わないことがある。

 目の前の家もそうだ。一〇年近く前の再開発時に建てたなら、二〇一八年ではまだ残っていたはずの美桜の家と矛盾する。


 ──なにかが確実にズレている。ここ数年……いやもっと昔から?


 頭を悩ませているそんな時。美桜があるものを発見し、傘から飛び出していく。慌てて彼女の後を追う。

 視線の先にあったのは神奈川県知事選の掲示板だった。候補者のポスターがびっしり貼られている。


「ねぇ、泰介。これおかしくない?」

「うん? なにが?」

「だって町田は東京でしょ?」

「あー出た出た。『町田は東京か神奈川か論争』。未だにする人がいるとは思わなかったよ」


 地元の人間ならではの語り草──それが『町田は東京か神奈川か論争』だ。

 車や電車などで移動すると一瞬だけ東京に入ったかと思ったら、また神奈川に入っている。立地やそんな現象を揶揄やゆして『町田は神奈川』なんて冗談を昔はよく口にしたと泰介は思い出した。


「じゃあ、泰介は神奈川だと思ってるわけ?」


 だがこの論争は。なぜなら──


「いや? どっちでもないだろ。だって町田は神奈川と東京の資本が流れる経済特区だよ?」

「え……? 冗談でしょ?」

「冗談なんかじゃないよ。真相を調査してるのに嘘ついてどうすんのさ」


 美桜の表情が凍った。泰介にはなぜ驚嘆しているのか理解ができない。この街では当たり前の常識だ。


「どういう……こと?」

「町田は二〇一二年に経済特区化が決定して、二年後には実現している。だから一部住民には神奈川県知事選の投票権があるんだ。この地区の再開発だってその影響だって聞いた」

「経済特区!? 私のいた時代ではそんなできごとなかった! それじゃあ私がきたのって……」

「まさか……」


 刹那、美桜がきた時に話していたことを思い出す。


 ──「色々検索しても県知事選の記事とか知らない芸人のゴシップとかで見覚えないニュースばかりでした」


 あの時週刊誌にすっぱ抜かれたのは芸歴一五年以上の中堅芸人だった。八年前に漫才の大会で優勝してブレイクしたのだから、二〇一八年の美桜が知らないはずがない。

 つまり美桜の世界と泰介の世界の違いは。時間移動では辻褄つじつまが合わない。もし時間軸のズレが副次的な作用で本質的なものではないとしたら。


 ──「いっそどこかにいって自由になりたい」

 ──「このにもともと存在しなかったもの。言わばの歪み」


 美桜の願いと玉川の言葉がフラッシュバックする。ズレてはまっていたパズルのピースがようやく繋がった。


「タイムスリップなんかじゃない……だ」


 彼女がきたのは──並行世界だ。願いは言葉通りに叶っていたのだ。

 この宇宙にはありえたかもしれないIFの世界が無数に存在しているとされている。自分の世界と美桜の世界が分岐して繋がっていないのなら、家が存在しないことの筋が通る。


「その通りだよ」


 不意を突くように男の声が響く。停まっている黒のセダンからスーツ姿の男──玉川が現れる。

 泰介は身構え、守るように美桜の前へと出た。


「いやはや……別世界からの漂流物は女の子だったか」


 男の狐目が射抜くように美桜を睨む。

 玉川の意思は固かった。絶対に彼女をこの世界から排除しようという覚悟が宿っている。


「あなたは最初から知っていたんですか?」

「それはもちろん。我々が観測している事象は並行世界移動──パラレルシフトだ」

「別世界からの漂流物を排斥するのが……あなたの仕事」

「ああ。そうだけど……どうやら言葉がよろしくなかったみたいだ」

「え?」


 玉川は突然、ふっと笑みを浮かべた。まるで肩の力が抜けたように。纏っていたオーラが瞬く間に消える。


「確かに排斥はする。だがそれは存在を消滅させるわけじゃない。


 彼の言う『排斥』の真意を知った。

 送り帰すことで美桜の存在をこの世界から消す。異物という世界の歪みを取り除き、もと通りにする。そういう意味では『排斥』であることに間違いない。


「それじゃあ……」

「同行してくれるかい。詳しくは車内で話そう」


 美桜を見遣る。目があった瞬間、彼女は深く首肯した。


 ──これでいいのか……? けど、美桜が決意したのなら。


 従うしかない。泰介は渋々、車へと乗りこんだ。


 美桜を先に後部座席へ乗せ、後から泰介が腰を下ろす。それを確認すると、玉川は車を発進させた。


「まずは一言謝らせて欲しい。我々も漂流物が少女だとは思わなかったんだ。そのため『物に対する言葉遣い』をしてしまった。本当に申しわけなかった」

「なんとなくそんな気はしてました」

「私は全く知らなかったから、謝られても……」


 頭を少し下げた玉川がルームミラーに映る。それを見て、美桜が胸前であわあわと両手を振った。

 「お互い誤解していただけなんでこの話は終わりにしましょう」と伝え、泰介は話題を切り上げることにした。


「理解のある人でよかった。別世界からの漂流物を保持し続ける危険性を伝えるには、立場上どうしても物々しい言い方をしてしまうんだ。さて……どこから話そうか」

「どうしてパラレルシフトなんて現象が起きたんですか?」


 開口一番、美桜が率直な疑問を口にする。自分が別世界に転移した原因。気になって当然だろう。


「パラレルシフト自体は頻繁に起こっているんだよ。今に始まったことじゃない」

「そうなんですか?」

「例えば身の回りのものがなくなることってあるだろう? なくしたわけでもなく、わかる場所に置いたはずなのになぜか消えている」

「確かにありますよね。そういうこと」

「あの現象の原因もパラレルシフトによるものだと考えられる。つまり知らないうちに物が並行世界へと転移してるんだ。転移する時間軸のズレによってはなんの変哲もない物がオーパーツとして見做みなされることもある。ファフロツキーズ現象もこれに該当すると考えられるね」

「ふぁふろつきーず?」

「雨のように空から物が降ってくる現象のこと。魚が空から降ってきたなんて聞いたことない?」


 困惑する美桜に泰介が補足説明をする。それを聞いて、どうやら納得できたようだ。

 泰介も詳しく知っていたわけではなかったが、オカルト掲示板を漁っていたせいで知識として身についてしまったのだ。

 今度は泰介が問う。


「けど人間のパラレルシフトなんて頻繁に起こるものじゃないでしょう?」

「昔はほとんど起きていなかった。きさらぎ駅の都市伝説は知っているかい?」

「まあなんとなくは。電車に乗ってたら存在しない無人駅に到着したっていう都市伝説ですよね」

「あ、その話は私も知ってる!」

「そう。稀だけど以前から人間のパラレルシフトは確認されていたんだ。なにかの拍子に自分の世界とは違う世界に飛ばされる事件がね」


 細部こそ異なるが、玉川が挙げた例は的を射ていた。きさらぎ駅が『自分の世界には存在しない駅があるパラレルワールドに迷いこんだ話』なら、その逆バージョンが美桜の身に起きた現象だ。

 『自分の世界に存在するはずのものがないパラレルワールドに迷いこんだ』のだ。彼女がもともと住んでいた地域は経済特区化する際に再開発が行われた。同じ現代日本でも大きな差が現れている場所だった。


「けれど、ある時を境に変化が起きたんだ。二〇一二年、宇宙に存在する光の帯──フォトンベルトに地球が突入した時にね」

「『フォトンベルト突入による高次元移動』……! アセンションですか」

「その通り。フォトンベルトによる影響は魂の高次元への昇華アセンションだと言われている。だが……実際に起きたのは高次元の別世界へといざなわれる現象──パラレルシフトだったわけだ」


 美桜を置いてけぼりにして、二人の話が進んでいく。それに気づいた泰介は「ここまでの話ついてこれてる?」と、隣を見遣った。


「まあ一応。地球が光の帯に包まれたら、人の転移が多発しちゃったってことだよね?」

「理解が早くてよろしい」


 美桜のさとさに感心したのか、玉川がミラー越しにはにかんで見せた。


「これは仮説だけど……この宇宙は最高次元の世界を一つだけ残し、それ以外の並行世界を消そうとしているんじゃないかな? 増えすぎたデータは整理されるように、並行世界もこれ以上増やしたくないんだ」

「つまり整理のために高次元の世界に適した人間だけを移送している……?」

「だろうね。観測したところ、経済特区町田はほかの世界にはない存在であることが判明したんだ。言うなれば高次元特有の異質性だ。それが呼水となって、この街ではパラレルシフトが多発しているってわけさ」


 経済特区町田の存在。それが美桜の世界より、泰介の世界の方が高次元であることの証明だった。先進的な制度を導入している世界の方が高次元であるのは理にかなっている。


「役所に漂流物対策課なんて裏の部署があるのもこのためだね。まあ、実際は大きな分岐点を作らないための水際対策係なんだけど」

「美桜は……美桜は帰さなきゃいけないんですか?」


 震える声で泰介が問う。玉川の役目は分岐点発生の阻止だ。そんな彼に事情を全て話した以上、後戻りはできない。


「もちろん。漂流物がこの世界に多大な影響を及ぼす前に帰せば被害は最小限で済むからね。世界の細分化に歯止めをかければ、並行世界は整理されないかもしれないってわけさ」

「待ってください。彼女は普通の女子高生だ。影響を及ぼすとは思えない!」

「では、彼女自身が並行世界からの使者だと告白したら?」

「それは……」


 なにも言葉が出てこない。彼が口にしているのは主観的な感情論だ。物事を客観視できていないと現実を突きつけられた気分だった。


「その事実だけで世界はくつがえってしまうんだ」

「じゃあどうしろって言うんだよ……美桜はもとの世界に居場所がなくて、ここにきたんだろ? それなのに生きづらい世界に帰せって言うのか!?」

「泰介……」

「そうだよ。自分の居場所は自分の世界で探すしかない」

「クソ……! こんな終わり方はあんまりだ」


 泰介は憤りのままに目の前の助手席を殴った。いき場のない感情が止めどなく溢れる。

 美桜が自分の世界に帰ることは二人の道が二度と交わらないということを意味していた。彼女が帰る時間は泰介の知っている二〇一八年ではない。どこまでいっても並行線の世界なのだ。


 ──タイムスリップだったらどれほどよかったか。もう一度この世界で美桜に出会えるのなら、笑顔で見送れたのに。


 願いは天に届かない。自分にはなんの力もなくて、約束された結末を回避することができない。終幕は目前だ。

 気がつくと、車のエンジンが止まっていた。周りを見渡す。どうやら地下駐車場のようだ。

 漂流物対策課の施設にたどり着いた。ついに美桜との別れの時が訪れてしまう。



 天井が高い、ドーム状の部屋にそれはあった。運搬用のエレベーターのようなフレームが剥き出しの昇降機。次元エレベーターというらしい。

 今、美桜はその中にいる。照明が少なく薄暗いせいで彼女の顔が不安げに映る。

 感慨なんてものは一切ないが、呼び起こされる思い出はいくつもある。朝飯を食べたり、一緒に買い物をしたり、ゲームしたり。最後の捜索は相合傘でデートをしていたようにすら思えた。

 たった数週間のつき合いのはずなのに何年も一緒にいるかのように錯覚した。泰介にとって彼女との日々はそれくらい有意義な時間だったのだ。


 ──それも……もう終わりだ。


 二人を分かつ無機質な隔たりを越えることはできない。泰介はただ呆然と眺めることしかできなかった。


「君の世界はすでにこちらで把握している。君はそこにいればいい」

「……はい」


 緊張しているのか、美桜がか細い声で応答した。俯き加減なのが泰介の不安を掻き立てる。胸のざわめきがとどまる所を知らない。


「やっぱりおかしいよ。異世界人は帰さなきゃいけないって! どうしてだよ!」

「泰介くん。君の気持ちはわからなくもないけど──」

「だって……! 好きになっちゃったんだ!! どうしようもないくらい美桜のこと!!」


 玉川に耳を貸さず、想いのたけを叫んだ。

 声を上げるなら今しかない。土壇場になってしまったが、このまま別れればきっと後悔が残る。これが最後のチャンスなのだ。


「こんな別れ際に想いを告げてごめん……本当はもっと早く伝えたかった。けど言えばようやくできた居場所が壊れると思って言えなくて。いざ君が帰らないといけないってなったら言うのは重荷になる気がして……僕は本当になにもできない意気地なしだ」

「でも最後にちゃんと言ってくれたよ。恐れずに一歩踏み出してくれた」


 美桜は心の底から嬉しそうだった。「過程がどうあれ、一歩踏み出したんだからそれでいいじゃん」と語りかけているようだった。


「そうか……ちゃんと踏み出せるんだ、僕だって」

「うん。泰介はなにもできない意気地なしなんかじゃないよ。大事な瞬間に一歩踏み出してる。だから私は救われたし、こうして無事帰ることができるの」

「けど……けど……」


 言葉が続かなかった。「帰って欲しくない」とわがままを言いたいはずなのに理性がそれを拒んだ。

 想いを届けたいけど届かない。自分が迎えたいハッピーエンドの形すら、思い描くことができない。

 そんな泰介を元気づけるように美桜は告げる。


「私も泰介のこと好きだよ。友達としてじゃなく……異性としてかな」


 照れて頬を掻きながら彼女は言葉を継ぐ。最後のその瞬間まで、想いを恐れずに。


「わがままを一つ言えるとしたら、私はこの世界に残りたかった。泰介の想いに応えたい。でも私は帰らないといけないんだ。ここにいても別れは絶対にくるってなんとなくわかるから。だったら最後の瞬間まで言葉が交わせる別れ方をしたいって……私は思った」


 心の奥で泰介も同じことを考えていた。別れは確実に訪れる。この出会いは宇宙の意思が起こした気まぐれに過ぎない。

 明日か五年先かはわからないが、美桜とありふれた日々を過ごしていく中で突然消えるかもしれない。この世界よりも高次元の世界へ渡ることになるかもしれない。それならばもとの世界へ帰せるうちに帰した方がいい。


「なによりこの世界にきて、泰介と出会って……私は私の世界で自分と向き合おうって思えた。世界にはいい人も自分に手を差し伸べてくれる人もちゃんといるんだってわかったから。悪意のある人ばかりじゃない。泰介のような優しくて、私と向き合ってくれる人が……きっと私の世界にもいる」

「美桜……」

「だから私は帰る。親とも周りとも……面と向き合うって決めた! 泰介の気持ちに応えられなくて、ごめんね」

「いいんだ、美桜。君がそう言うならきっとそうだって……僕も思うから」


 泰介は歯噛みしながら首を横に振った。

 彼女の言葉こそ泰介が求めていた答えそのものだ。


 ──自分の世界だってきっと捨てたものじゃない。


 自分と過ごしてきた中で美桜がたどり着いた答えなら、それを否定するのは間違いなのだろう。

 別れを受け入れ、最後くらい笑って見せよう。そう決意した直後だった。美桜が思いがけない言葉を口にしたのは。


「玉川さん。一つ聞いてもいいですか?」

「なにかな?」

「この世界にもはいますか?」

「え……?」


 泰介は唖然となった。無論考えたことがなかったわけじゃない。タイムスリップであれ、パラレルシフトであれ、存在の重複は起きているはずなのだ。


「ええ、もちろん。君の世界と我々の世界が分岐したのは二〇一二年だ。それ以前に君は生まれているのだから、この世界にも小林美桜は必ず存在する」

「だってさ。泰介」

「どういう意味……?」


 美桜の意図がわからなかった。

 この世界の小林美桜は同一人物ではない。泰介と過ごした夏の記憶もないはずだ。言うなれば──


「余計なお節介かもしれないけど……この世界の私にも手を差し伸べてあげて欲しいんだ。多分、私と同じであんまり友達いないだろうから」

「そういうことね。けど……僕にできるかな?」


 美桜の願いを理解できても、一抹の不安が残っていた。

 目の前にいる美桜の居場所を作れたのは奇跡に違いなかった。人づき合いが得意ではない自分が奇跡をもう一度起こせるのだろうか。


「大丈夫だよ、泰介。人を想える泰介なら手を差し伸べられるよ。きっと私たちに足りなかったのは一歩踏み出す勇気。決意だったんだ」


 美桜の言葉が頭の中で反響する。どうしようもない自分がどうして奇跡を起こせたのか。それは一歩踏み出して声をかけたからだ。

 自身の半生を省みる。思春期に入ってから声をかけるのが苦手になっていた。いつも誰かから話しかけられるのを待って、自分から飛びこもうとはしなかった。彼女の言う通り、足りなかったのは勇気だったのだ。


「それに『情けは人のためならず』でしょ? 恐れずに自分から誰かのために優しさを手渡して……それが巡り巡って私のところに返ってきたら嬉しいかな。なんてね」


 美桜が恥ずかしそうに決意を口にする。『情けは人のためならず』。奇しくもそれは泰介自身が口にした言葉だった。


「わかった……! 僕もこの世界で頑張るから! もう一度自分の居場所を見つけてみせるから!」


 彼女に報いなければならない。頑張らないといけない。ずっと探していた答えを


「別れの言葉はもう充分かい?」

「はい……! 玉川さん、ありがとうございました!」

「僕も……もう大丈夫です。覚悟は決まりましたから」


 二人の言葉を聞いて、玉川はガラス越しの研究員に目配せをした。次元エレベーターを作動させるらしい。いよいよ、お別れだ。


「私、自分の世界に帰ったら泰介のことを探す! 大学も泰介と同じところいく! 同じ人間じゃないかもしれないけど……絶対見つけて好きになってもらう! だから……だから!」

「ありがとう……! 向こうの僕もボッチだろうから、よろしく! じゃあ……、美桜!」

、泰介!!」


 昇降機から光があふれ出す。次の瞬間にはすでに美桜の姿は消えていた。ついにもとの世界に帰ったのだ。

 泰介は一人、別れの言葉を噛み締めていた。「」。それは再会の約束だ。お互いに自然とそんな言葉が漏れていたことがそこはかとなく嬉しかった。


「この世界の自分にも手を差し伸べて欲しい……か。またまた無茶な願いを残していったね、彼女」


 慰めるわけでもなく、励ますわけでもなく。玉川は世間話をするトーンで泰介に声をかけた。


「もう一度出会いたいですけど……出会えるんですかね、ちゃんと」

「私が言えるのはこの宇宙には因果律が存在するということだけかな」

「因果律……?」


 耳慣れないワードで泰介はおうむ返ししてしまう。フォローの仕方まで専門的な用語。最後の最後まで癖が強い人物だ。


「ものごとはなんらかの原因から生じた結果だ。原因がなくてはなにも生じない。では君が彼女を救ったという結果は偶然起きたのかな? ほかの誰でもない、君が救ったのは」

「偶然以外の理由があると?」

「そう。例えば運命の赤い糸……とかね」


 玉川がしたり顔を見せる。仕事に忠実な彼でもどうやらユーモアを持ち合わせていたようだ。

 別れによる傷心が癒えてないはずなのに、泰介はなぜだか笑わずにはいられなかった。


「ははは。ロマンのある話だ」

「信じるか信じないかは君次第。とだけ言っておこうか」

「信じますよ。だって──」


 一夏の恋は淡く、儚く散っていった。

 それでも泰介は晴れやかな顔をしていた。胸には潔く、前向きな気持ちが残っている。


「──って言いましたから」


 心の清涼感。それは向こうの世界の美桜との決して切れない縁の糸に違いなかった。



 夏休みが終わり、九月を迎えて数日が経つ。意味を見出せないでいた大学生活が戻ってきた。


「いってきます!」


 誰もいない部屋に威勢よく言葉をかける。もちろん返ってくる言葉はない。美桜はもうこの世界にはいないのだ。

 それでも意気ごんで登校できたのは彼が変わろうという意思を強く持ち始めたからにほかならない。加えて、今朝見た夢が背中を押してくれた。夢と言うにふさわしい幸せ過ぎる幻想だ。


 ──冬のある日、僕らは再会したんだな。


 夢の中の泰介は高校生で、駅で調子を崩しているようだった。周りの人は目もくれず、知らんぷりで通り過ぎていくだけ。人間の善意なんて微塵みじんも感じられない最悪な出だしだった。

 たった一人、高校生の女の子だけが彼に手を差し伸べる。見間違えるわけがない。その少女は自分がよく知る小林美桜だった。

 美桜は言う。「私ね。君に助けられたことがあるの」と。夢を見ていた泰介はその言葉に覚えがあった。あの夏のできごとだ。

 美桜がいてくれた甲斐あってか、しばらくして夢の中の彼は体調を回復させた。

 そうして二人は別れの言葉を交わす。「」と。連絡先を交換してないのにもかかわらずだ。

 夢はそこでプツリと終わった。始まりを予感させるだけでハッピーエンドは訪れない。


 ──僕の願望が生み出した『もしもの妄想』か。はたまた並行世界で起きている『現実』を垣間見たのか。


 専門家ではない泰介には答えは出せない。高校生の自分が体験した記憶ではないことだけは確かだ。

 彼はだと信じようと思った。どんなことも信じるか信じないかは自分次第なのだ。


「それなら……ロマンのある方を信じてた方がいいよな」


 未曽有みぞうの体験をしたのだから信じたくもなる。そんな回想をしながら電車に乗っていると、キャンパスに着いていた。

 一限目の教室は百人ほど収容できる大部屋だ。すでに後ろの席の大半はモチベーションの低い学生に占拠されている。

 泰介は仕方なく最前列の誰もいない席に腰かけた。机は三人がけだが、隣には誰もいない。大学に友達がいればこんな空虚な席にはならなかっただろう。


「今は寂しくてもいつかはきっと……」


 こんな席とはおさらばしてやると自身を奮い立たせる。ハッピーエンドは自分で掴み取るのだ。向こうの世界の美桜が教えてくれた『一歩踏み出す勇気』を胸に秘めて。

 やがて始業のチャイムが鳴った。すでに準備を終えていた教授はすぐさま講義に入る。泰介もノートとテキストを開き、真面目に集中しようとした。

 ちょうどその時だ。教室の扉が開き、一人の学生が慌ただしく教室に駆けこんできた。


「あの子……」


 背中まで伸びた黒髪が特徴的な女の子だった。

なんとなく顔が知人に似ていた気がしたが、この大学に男友達はおろか女友達はいない。見間違いか、よく見かけるから一方的に顔を覚えているかといったところだろう。

 そんな中、彼女が座ったのは空いていた泰介の隣の席だった。すぐに座れそうな席はそこしかなかったのだ。


「あれ……? ないなぁ。どうしよう……」


 隣の席から大きな独り言が聞こえてくる。傍目はためで彼女を見遣る。カバンの中を探しているが、一向に教科書が出てこない。かなり焦っているようだった。

 友達がいれば貸してもらえただろうにと思ったが、最前列に座ったということはこの講義に友人はいないのだろう。テキストなしで講義を聞くのは地獄だろうなと泰介は同情した。


「情けは人のためならず……だよな」


 自分の言葉であり、美桜が教えてくれた言葉。誰かに渡した優しさは返ってくる。優しさを手渡すことを躊躇わず、一歩前へ。


「あの……テキストないんですか? よかったら」


 泰介は恐る恐るテキストを机の中心へとスライドさせた。どんな言葉が返ってくるのだろうか。少し怖く、相手の顔を見ることができなかった。


「いいんですか……? 迷惑じゃないですか?」

「いや全然。自分がテキスト見れなくなるわけじゃないし」

「ありがとうございます! じゃあお言葉に甘えて」


 直後、彼女が一つ分席を詰めてきた。三人がけの机の端と端では見づらいと考えたのだろう。

 その行動に驚いた泰介は思わず彼女の方へと向いてしまう。そして……言葉を失った。


 ──え……? 美桜?


 忘れるわけがない。その顔も声音も覚えている。自分の隣にいるのはなのだ。まさか同じ大学に通っていたとは夢にも思わなかった。


「どうかしました……? あ、もう少し離れましょうか?」

「い、いや! なんでもない! こっちの話!」


 美桜は頭にクエスチョンマークを浮かべるように小首を傾げていた。言えなかった。「小林美桜さんだよね?」なんて。

 会話はそれっきりだった。泰介から話しかけるような内容もなかった。

 彼女は自分が知っている美桜ではない。一緒に過ごした夏の思い出を持っていない。ここでは赤の他人なのだ。


 ──やっぱりこの世界の美桜も同じなんだ。


 講義中になにげなく察してしまう。彼女も真面目な学生で、脇目も振らずに集中していた。あの日美桜が語った心の淀みをきっと同じように抱えている。

 再びチャイムの音が鳴りはためいた。彼女の横顔を覗いているうちに、講義は終わっていたのだ。各々が次の講義へと向かうために席を立つ。


「テキスト見せていただいてありがとうございました。本当に助かりました」

「あ、うん。どういたしまして」

「それじゃあ、私も次の講義にいきますね」


 会話が終わってしまいそうになる。なにもできずに終わってしまう。


 ──それじゃダメだ。約束したんだ、美桜と。一歩踏み出すって決めたんだ。


 わずかな進みではあるが、自分の道を決める重大な進み。確かな一歩を……今、踏み出す。


「あのさ! もしよかったらだけど……また一緒に講義受けない? その……僕この講義に友達いなくてさ」

「え、えっと……」


 公園で美桜に声をかけた時のことがフラッシュバックする。言葉を待つ間に、恥ずかしさが泰介を襲った。ただテキストを貸しただけでこんなことを言うのはおかしいのかもしれない。

 それでも自分の本心にもう嘘はつけなかった。


「言うの恥ずかしいんだけどね。私も……友達いないんだ。だから一緒に受けてくれる人いるのは……心強いかな、なんて」


 よほどこそばゆかったのだろう。美桜は頬を掻いていた。想いを告白してくれた時と寸分違わぬ、照れた時特有の仕草だった。

 泰介の心が喜悦で満たされる。交わした約束、一歩踏み出すこと。その両方を叶えることができたのだ。


「あのお名前を聞いてもいいですか?」

「泰介、青山泰介」


 二度目のやりとり。改めて彼女が自分の知っている美桜ではないことを思い知る。悲しみは微塵もない。目の前にいる美桜とも面と向かっていこうという前向きな心持ちで一杯だった。


「私は──」

「美桜ちゃんでしょ? 小林美桜」

「え、なんで知ってるんですか?」


 自分の名前を当てられたことに美桜が驚嘆する。いぶかしむわけでなく、理由がわからず唖然としているといった面差しだった。


「それはまた追々ね。絶対話す日がくると思うから。それじゃ、!」

「え、あ、うん! !」


 泰介は颯爽さっそうと教室を飛び出した。

 今はまだ言うことはできないが、いつか彼女に告げるだろう。一夏の思い出のことも、運命の赤い糸のことも。

 愛は次元も時空も越えて再び紡がれる。二人が巡り会うのはいつもこの街だ。この街で、夏の恋は終わらず続いてゆく。

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サマー・オブ・ラブは続いてゆく 〜二人が巡り会うのはいつもこの街だ〜 鴨志田千紘 @heero-pr0t0zer0

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