中編

 量販店に雑貨屋、カラオケにファストフード店。駅周辺へと足を運べば大抵の店はある。その中でファストファッションの店を巡り、美桜が気に入った服を買っていく。

 躊躇ためらいなく金を支払ってる自分が女の子に貢いでいる男みたいに思えたが、背に腹は変えられない。一時的な出費ならこれくらい大したことはないと泰介は自身に暗示をかける。


 買い物をして一段落したところで駅前のデッキ広場へとやってきた。広場と言っても別路線や周辺ビルへの連絡通路の合流点なだけで、休憩用のベンチはない。夜になるとストリートミュージシャンが歌っていることもあるが、午前中の今は見る影もなかった。

 周りはビルだらけで景色を一望はできない。それでも大通りは吹き抜けて数キロ先までよく見える。


「美桜ちゃんの時代と比べてどう? なにか違いとかある?」

「うーん……マルキューもツインズもあるしなぁ。やっぱ数年じゃ景観はあまり変わらないのかな。ほら、あの銀色のよくわからないやつも」

「ああ、あれね」


 美桜が指差したのは広場の中心でウネウネ動くオブジェだった。横浜線町田駅前の名物。どんな意味があってあんな形をしているのかは知らないが、その特異な形から待ち合わせ場所としてよく用いられる。


「あれ見ると、自分の時代と変わらないんだなって安心する」

「でも違和感はあるんだろう?」

「うん。なにかが根本的に違う気がする。こんなに栄えてて、人多かったかな。もう少しなんか……違う気がするんだよね。栄えてるけど僻地って感じで」

「僻地……ねぇ」


 泰介は顎に手を当てがいながら美桜の言葉を反芻はんすうする。

 町田のことはだいぶ前から知っているが、そんな印象は思い浮かばなかった。『西の渋谷・秋葉原』というくらいファッションやホビーが充実した街で、人口も年々増えていると聞いている。


「私が住んでた家がなくなってるってことはこの数年の間になにかあったってことだよね?」

「震災……は違うしなぁ。この辺がその影響で立て直したって話聞いたことないし。なにより数年前の話じゃない」


 二〇一八年から今までの間に起きたことを思い出そうとしてみるが、なかなか出てこない。駅を中心とした繁華街地区にこの数年で大きな変化はないからだ。

 マルキューもツインズも銀色のオブジェも昔から変わらずある。変化と言えば今まであった店が閉店し、新しい店ができたくらいだろう。


「郊外の方は? 再開発とか立ち退きしなきゃいけなくなったこととか」

「僕が詳しく知らないからかもしれないけど、そんな話は聞いたことないな。一〇年近く前に再開発の話はあった気がするけど、年代が合わない」

「そうだよね……普通数年でそんな大きく変わるわけないよね」

「美桜ちゃん……」


 項垂うなだれる彼女になんと声をかけていいかわからなかった。街に出てみたが出がかりはない。少しはなにかわかると期待していたが、尻尾さえ捕まえられない。


「案外数年の間に引っ越しただけなのかも。それじゃあ過去の私が知らないのも無理ないよね」


 無理に笑おうとする美桜を真っ直ぐ見ることができなかった。泰介は自分の無力さを痛感する。


「ごめん。役に立てなくて」

「そんなことないよ。家がわからない以上、私は泰介さんのところで世話になるしかないもん。居場所をくれるだけで充分。うん、居場所をくれるだけで」


 ──居場所。


 その言葉が妙に突っかかった。大学に居場所がない自分とオーバーラップしてしまう。


「そっか。それならよかった。居場所がないのはつらいもんな」

「うん。だから私はとっても感謝してるよ」


 美桜が見せた笑みはさっきと打って変わって朗らかなものだった。心の底からそう思っているのだろう。

 その言葉だけで心が言いようのない温かさに包まれる。心底から喜悦がこみ上げてくるのだ。

 彼女の居場所でいること。それが自分にできることだと……泰介は自身に言い聞かせた。




 それから一週間ちょっと。特になにか出がかりを見つけるわけでもなく、日々が過ぎていった。街に出てもネットの海を潜っても有力な情報は得られなかった。

 泰介は自分の無力さを呪ったが、それでも美桜の居場所でいることに努めた。時に励ましたり、時には気分転換に誘ったり。

 そうしていくうちに二人の距離感はさらに縮まり、気づいた時には自然と名前を呼び捨てしていた。


「美桜、ゲームしない?」

「するする!」


 この日もなにかするわけでもなく、ただただ一日を消耗しようとしていた。気晴らしという体のいい言いわけ。その光景はまるで夏休みを自堕落に過ごす兄妹のようだった。


「ちょ、アイテムぶつけてくるなよ!」

「目の前にいた泰介が悪いんだよー! いえーい! 私の勝ちぃ!」


 レースゲームに勝った美桜は楽しそうにピースを向けてくる。その姿を見た泰介は負けてよかったのかもしれないと思った。

 ゲームに興じても脳裏にはタイムスリップのことがずっと焼きついている。収穫がないため美桜には喋っていないが、泰介は今でも夜には情報収集を欠かさないでいた。


「泰介?」

「な、なんでもない! ちょっと負けたのが悔しかっただけ! ほら、もう一戦!」

「よーし! 今度も負けないからね!」


 再びレースが始まる。

 美桜は終始ニコニコとしていた。顔に悲壮感はなく、まるでもとの時代に帰ることを考えていないかのようだった。

 「もとの時代に帰らないのか」とは聞けない。必ずしもそれが正しいとは限らないし、もしかしたら彼女がこの時間にきた意味があるのかもしれない。


 ──僕にできることは居場所をあげることだけ。それで充分だって美桜は言った。


 泰介は目の前のレースに集中した。雑念を持ったまま相手をするのは失礼だ。居場所になる以上、本気で向き合わなければならない。


「あー負けたー!!」

「はっはっはっ。この一週間で上達したとはいえまだまだじゃな」


 大仰に師匠風な言葉で美桜をからかった。途端、彼女が膨れっ面を見せる。


「もう、仕方ないじゃん。私、こんなふうに友達とゲームなんてしてこなかったって最初に言ったでしょ。経験値の差が違い過ぎるって」

「友達か。ならよかった。経験できないことをこの時代でできたなら……きた意味もあったのかもな」


 友達。歯痒いようでこそばゆいようで……どこか虚しさを感じる言葉だった。

 自分のことを友達と思ってくれて、フランクに接してくれているのだと考えると嬉しい。彼女を支える存在になれたということなのだろう。


「本当にそう思う。この時代にきた意味はあったんだって。なんかここにいるの楽しくなってきちゃったし。帰らなくてもいいのかもしれないって……最近は思っちゃう」

「な、なに言ってんだよ。ちゃんと帰らないとだろ」


 唐突な告白で泰介は面食らってしまう。茶化しながら返答し、美桜を見やる。

 急に押し黙り、俯き加減で物憂げな顔持ちをしていた。先ほどまではしゃいでいたのが嘘かのように。


「もしかして、もとの時代でもがないの……?」

「うん。学校にも友達はほとんどいないし、家もちょっと居心地が悪いんだ」

「よければ聞かせてくれないか、美桜のこと。もちろん話したければだけど」


 静寂が訪れ、吐息だけが部屋に響く。深呼吸。ゆっくりと美桜の口が開いた。


「私の親はすごく厳しい人でね。私がしたくもないのに『お前のためだ』って理由で中学受験をさせられて……それくらい教育熱心な親だったの」

「僕もそうだったからなんとなくわかるよ」


 美桜の姿に自分が重なって見えた。泰介も同じだった。家は裕福で、中学から私立学校に通っていた。

 それは自身が望んだことではない。小学校の頃にできた友達とは疎遠になり、人づき合いが思うようにいかなかった。「こんなことなら中学受験なんてしなければよかった」と何度も思った。


「けど受験だけで終わらなくてね。中学に入って、高校に上がってからもずっと成績上位を強いられた」

「同じような境遇の子はいなかったの?」

「仲のいい子は数人いたけど別に同じような境遇じゃなかったかな。親友……とまではいかなかったし。部活も幽霊部員だし、友達と遊ぶ時間なんてない。というかそれ以前にクラスメイトが寄ってこないんだよね。成績優秀ってだけで勉強にしか能がない、近づきにくい人になってた」


 今まで留めてきた荷物がほどけていくように、彼女の言葉は雪崩なだれていった。

 やはり同じだ。美桜も友達づき合いが小学生の時でぴたりと止まっている。


「まあ、私も私でダメだったんだけどね。独りでいるのが当たり前になっちゃって、昼ご飯も休み時間も……独りでいて苦じゃなくなってた。だって大概のことは独力でできるから」

「それで平気だったの?」


 言葉よりも雄弁に表情がつらさを物語っている。本音を問わずにはいられなかった。

 泰介自身は平気じゃなかった。毎日毎日、居場所を探していた。どうやっても見つからなくて、今度こそはと意気ごんで大学へと進学した。なのに今も居場所を探している。


「平気……じゃなかったかな。いじめらしいいじめはなかったけど、聞こえちゃったんだよね。私の陰口」

「陰口……」

「『なに考えてるかわからない』とか『澄まし顔で高嶺の花ぶってるのが気に食わない』とか。それを聞いて急に自分がわからなくなった。ずっと親の言いなりになって、私ってなんのために生きてたんだろうって。私の存在意義ってなんなんだろう」


 泰介は言葉に詰まった。美桜は生優しい慰めを求めてはいない。自分が同じ立場だったらそう思う。

 今は聞き手になって、全てを受け止めようと決めた。彼は続く言葉を待つ。


「張り詰めた糸がプツンって切れちゃったのがあの日……この時代にきた日だった。朝から学校いく気になれなくて、フラフラ歩いて遅刻してもいいやって投げやりになってたんだよね。それがきっとタイムスリップした原因。自分の世界が嫌いになった。いっそどこか別の世界にいって自由になりたい、一からやり直したいって強く願ったから……私はこの時代にきたんだと思う」


 美桜の話を聞いて、泰介は思わず笑ってしまった。自嘲に近い笑い。重い話だとわかっているが、こぼれてしまった。


「ちょっとー泰介。笑うところじゃないんですけど?」

「いや、ごめん。どうしてこんなに共感できちゃうんだろうって思ったら、つい」

「え……? そんなに共感できちゃうの?」

「できちゃうんだなぁ、これが。あの日の僕もどこかへ消えて、気兼ねなく過ごしたいって思ってた。大学に居場所がなくて、憂鬱だったんだ」


 泰介も美桜と同じだった。どうやったら居場所が作れるかわからなくて、世界から消え去りたかった。

 そこに現れたのが彼女だ。居場所のない自分でも誰かを救える善人でありたいと願い、一歩踏み出した。『情けは人のためならず』という最もらしい理由を添えて。


「美桜に出会ってからはそんな憂鬱がなくなってた。自分でも誰かのためになれて、誰かの居場所になれるんだってわかったから。そういう意味では神様の悪戯いたずらに感謝したくなるよ。美桜と出会わせてくれてありがとうって。不謹慎かな?」

「ううん。全然。私もこの出会いに感謝してるから」

「ならよかった」


 自然とお互いに微笑み合っていた。同じことを思っていたのがこそばゆかった。


「私は……まだここにいてもいいんだよね? 帰らなくてもいいんだよね?」


 請うように儚い声が通る。

 改めて確認したかったのだろう。「ここが私の居場所でいい?」と。その問いに対して返す言葉は──決まっていた。

「当たり前だろ。今はここが美桜の居場所だから。帰りたくなるまでいていいよ」

 初めて自分が誰かの居場所になれた。理由はそれだけで充分。同時に美桜という存在が泰介の居場所でもあったのだ。拒む理由はなかった。

 と、カッコつけて言った後で内から急に恥ずかしさがこみ上げてくる。言葉以上のなにかが沸々と煮えたぎっていた。


「ちょ、ちょっとコンビニいってくる! なんか欲しいものある?」

「じゃあ、アイス。いい?」

「了解。安いのだけどな」

「うん、わがままは言わないよ」


 それだけ聞くと泰介はいそいそと部屋を後にした。最後に見た美桜のはにかんだ顔が目に焼きついて離れない。振り切るように早足でエレベーターホールへと向かう。


「あーやば。これ恋だ」


 誰もいないことを確認して、独り言ちる。

 泰介は自分の心情を理解してしまった。自分は美桜に惚れているのだと。



「はあ……」


 コンビニでアイスを買った帰り道。不意にため息が漏れた。理由は単純だ。泰介は好意を自覚していながら、一歩踏みこめなかった。


「居場所って大口叩いておきながら『好き』とは言えなかったもんなぁ……」


 まだ一〇日ほどしか一緒に過ごしていないが、短期間でも自分たちが似た者同士であることは痛いくらい理解できた。理解は共感に変わり、好意へと昇華されるのは道理だ。


 ──美桜のことが好きだ。彼女が望むならずっといて欲しい。いや……本当は帰したくない。


 協力するとのたまいながら、本心では帰らないで欲しいと願う矛盾。今が永遠に続けばいいと思うが、それは叶わない。

 美桜が過去からきた人間である以上、本当の居場所はここではない。いつか別れがくる。これは約束された悲恋だ。


「美桜のためを思うなら、自分のわがままを優先しちゃダメだ……もとの時代に帰して、そこで居場所を作れるように応援するのがきっと正しい」


 泰介は自分の気持ちを胸の奥にしまうことにする。下手に好意を暴露し、関係性が壊れるのも嫌だった。

 美桜にとって自分は友達だ。ありのままの姿をさらけ出せる同類なのだ。そう考えれば考えるほど、気持ちを押し殺すしかなかった。

 とぼとぼと帰路をたどる。八月の夕方だからか、まだ空は明るかった。茜色の空がそこはかとなく寂寥せきりょうを掻き立てる。

 そんな時だった。男の声が聞こえたのは。


「青山泰介くん、だね?」

「え……?」


 マンションの前で壮年の男が待ち構えるように佇んでいた。夏にもかかわらず、ジャケットを羽織ったスーツ姿。全身黒ずくめなのがエージェントを彷彿ほうふつとさせる。


「君、青山泰介くんでしょ?」

「そうですけど……」


 なぜ自分の名前を知っているのか。いぶかしみつつも嘘をつけず、正直に答える。


「よかった。失礼、私はこういう者だ」


 男が手渡したのは一枚の名刺。そこには『町田市漂流物対策課 玉川学たまがわまなぶ』と書かれていた。

 名前と肩書きだけでは全くピンとこない。『町田市』と書かれていたことから、市の役人なのは間違いないのだろう。それ以外はさっぱりだった。


「あー聞き馴染みないから怪しく思うかもしれないけど、大丈夫」

「いや怪しいって自覚してながら大丈夫って……」

「まあ、表に出ない仕事だから。あ、スマホで検索してもひっかからないよ?」


 玉川が狐のように目を吊り上げ、笑みを見せる。

 泰介の動きを見て、即座に判断したのだろう。確かに彼の言う通り、『町田市漂流物対策課』と調べても全くヒットしなかった。


「なんなんですか。あなた一体……」

「あれ? 心当たりない?」


 コンビニの袋から結露した水滴がこぼれ落ちる。一刻も早く帰らなければと本能で悟るが、泰介の足はその場から動かなかった。


「単刀直入に聞こう。君、なにか隠していないかい?」

「なんのことですか」

「異物と言えばわかるかな?」

「異物……?」


 反芻はんすうするとすぐに理解できた。異物とは美桜のことだ。彼らが対策している『漂流物』とはおそらくタイムスリップしてきたものを指すのだろう。


「この世界にもともと存在しなかったもの。言わば世界の歪み。その対処を任されているのが我々だ」


 玉川の言うことが事実ならば筋は通る。世界の歪みを対処する裏仕事なんて公表できない。美桜のタイムスリップに勘づいているのも説得力を強めていた。

 泰介は逡巡しゅんじゅんした。この男に話すべきかどうかを。タイムスリップしたものの対処をしているのは事実かもしれないが、職務を全て明らかにしたわけではない。嘘が混ざっている可能性もある。


「私たちはこの世界に漂流した異物を排斥しなければならない。歪んだまま放置すれば、いつか取り返しのつかないことになる。手を貸してはいただけないかな?」

「知らない……! 僕は知りません!」


 『排斥』。その言葉が決め手だった。玉川に美桜のことを任せられない。

 泰介はそそくさと立ち去り、マンションへと入っていく。背後から足音は聞こえない。追いかけてくるつもりはないようだ。

 苛立ちを乗せるようにエレベーターのボタンを何度も押した。押し続けても早くくるわけじゃないとわかっていながら。


「なんなんだよ……あいつ。美桜が漂流物って……タイムスリップを認知しているのか」


 冷や汗と呼応するように袋から水滴が垂れていく。想いを伝えるどころの状況ではなくなってしまった。


 ──美桜の居場所がおびやかされそうになっている。


 嫌な想像が頭をよぎる。心臓は早鐘はやがねを打ち、おさまることを知らなかった。



 それからさらに数日が過ぎた。

 外に出る度に不審な視線を感じた。おそらく玉川たち漂流物対策課が監視しているのだろう。

 美桜には説明せずになるべく外に出ないようにと告げていた。信用してくれているからか、彼女が不満を漏らすことはない。


 ──いつまでこんな生活を続ければよいのか。


 焦燥感が胸を巣食った。玉川の接触に対して白を切るのも限度がある。今のところ強硬手段を取ってこないが、いつ踏み切るかわからない。

 泰介は覚悟を決めた。夕食後、テーブルを挟んで美桜と向き合う。


「話し合いって……どうしたの、泰介? 顔、険しいよ?」

「美桜、落ち着いて聞いて欲しい」

「う、うん」

「君がタイムスリップしてることを察知してる人間がいる」


 以前渡された名刺をテーブルの上に置く。美桜はそれを手に取り、いぶかしみながらまじまじと見た。


「町田市漂流物対策課……?」

「漂流物はおそらく美桜のことだ。別の時代にタイムスリップしてきた人や物を指すんだと思う」

「それじゃあ……」

「君をかくまっていられるのも限界かもしれない」


 泰介が一番言いたくない言葉だった。「もう協力できない」と言っているようにすら思えた。できることなら最後まで力になりたい。居場所が欲しいなら居場所になりたい。

 そんな想いを引き裂くように酷な現実が押し寄せてきたのだ。今だけは外で鳴く蝉の声がやけに鬱陶しく聞こえた。


「その人と話はしたの?」

「した。漂流物は排斥しなくちゃならないって言ってた。正直、信用できる人間かわからない。素直に君のことを話そうとは思えない相手だった」

「排斥……そうだよね。私はここにいちゃいけない存在だもんね」

「そんなこと……!」


 泰介は言葉を途中で飲み下した。俯いた彼女に「そんなことない」と言い切り、励ますことはできなかった。彼自身もいつか帰る時がくるのだろうと悟っていたからだ。


「幸い、玉川は美桜が漂流物だとは気づいていないみたい。まだやりようはあると思う」


 考えるより先に言葉がついて出た。

 なにもできずに終わるのは嫌だった。最後に美桜の役に立ちたい、最後まで足掻き続けたい。


「そうなの……?」

「ああ。明確に『女の子をかくまっている』と指摘されたことはないんだ」


 何回か玉川と言葉を交わす機会があった。その度に「漂流物を渡して欲しい」や「どこにあるのか教えてくれないかい?」などと尋ねられた。

 その口ぶりは『物』に対しての言い方に聞こえた。『者』ではない。彼はこの時代に紛れこんだ異物を泰介が隠しているとしかわからないようだった。


「美桜。君はまだ選択できる。どこか別の場所へ逃げるか。もとの時代に帰る方法を探すか。それとも……玉川のところへいくか。僕は君の意思を尊重する。逃げたいなら僕も一緒に逃げる。君はどうしたい?」

「私……私は……」


 重い空気が沈黙へといざなう。

 泰介はあふれ出そうな言葉を押し殺すしかなかった。自分にできるのは美桜がどんな選択をしても協力することだ。彼女の覚悟を聞かなければならない。


「正直逃げたい。もとの居場所に帰りたいとはまだ思えないから」

「なら──」

「けど……これ以上逃げられないってことも理解してるんだ。夢はもうおしまいなんだって」

「夢……?」

「ここで過ごした時間は夢のようだったんだ。自分と同じ境遇の人と仲よくなって、友達としてわけ隔てなく接してもらえて……私が欲しかったものをここで見つけた。泰介にはいっぱい夢を見させてもらった」

「それは僕も同じだよ」


 美桜の想いがすっと胸に染み渡る。泰介も夢のような時間を過ごしていると感じていたのだ。むしろ夢を見せてくれたのは美桜の方だとすら思う。自分はただ手を差し伸べただけだ。


「でも夢はいつか覚めて、現実に帰らないといけない。次は現実に……自分の世界に立ち向かう番なんだ。泰介と過ごした時間をかてにして」


 それは美桜の口から聞きたかった言葉であり、一番聞きたくなかった言葉だった。

 泰介の心は矛盾をはらんでいた。帰したくないけど、帰さないといけない。一緒に逃げたいけど、立ち向かわないといけない。好意と使命感がせめぎ合っている。

 苦悩の末、彼も心を決めた。


「わかった。明日朝早くここを出よう。まだいってなかった郊外を探ってみよう」


 男に二言はない。泰介は震える唇を力ませる。

 寂寞せきばくとした部屋にひぐらしの鳴き声だけが切なく響き続いていた。

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