不能共

草森ゆき

朝陽大輝


 どこかの国のどこかの街で、ニューヨークだかハウステンボスだかサンティアゴ・デ・コンポステーラだか、その辺りのなんの関連もない都市で強盗殺人がありそれなりに名前の通った人が死んだと聞いて、俺はそれなりに名前の通った人のことをまったく知らないしそうか呆気ないな人は死ぬんだな、なんてうすっぺらな感想だけを数秒抱いてさっきまで忘れていたんだけれども、不意にやたらとクリアになった脳と視界で鉄橋の下を覗き込んだ瞬間に思い出して反射的に呻いた。人は簡単に死ぬのだ、ということについて知ってはいても実感などそう湧きもしない。思い知る、いいや思い知らされて心が冷えた。

 ごうごうと冬の風が鳴いていた。震えながら吐いた白い息、その向こう側には線路と電車があって、人が段々群がって叫び声なんかも聞こえて、車内アナウンスが鉄橋の上にいる俺にも届いて、重く冷たく広がってゆく。

 只今事故により走行を一時中断しております、ご迷惑をお掛けして申し訳ございませんが今しばらくお待ちください……。

 俺はなすすべもなく突っ立ったままだった。一時間前からそうだった。清瀬加奈子に呼び出されて鉄橋までやってきたが殆ど口を開かなかった。ただ一言だけ答えた。別れたい。そう言った理由を加奈子はわかっていたのだろう、まるで聖母みたいに微笑んで、手すりに後ろ手をついたかと思えばひらりと縁に飛び乗った。そして後ろ向きに倒れていって、電車の前に落下した。花火が爆発するような音が総てを物語っていた。

 彼女の代わりに謝罪する車掌はどんな顔をしていたのだろう。最近は、そんなことばかり考える。



「……もう一度名前を言ってもらえる?」

 こいつマジかよ、とは言わずになるたけ丁寧に聞こえるよう問い直すと、訪問者は静かに頷き、淡々とした様子で再度答えた。

「清瀬隆と申します」

 聞き間違いではないことに絶望に似た後ろめたさを持つ。まあ、上がりなよ、と早く帰れというニュアンスを込めてどうにか吐き出したが、清瀬は無言で頭を下げて俺の狭いアパートの中に身を滑り込ませてきた。後ろで縛った長髪が妙に様になる男で、物静かな男前という風情が表情からも輪郭からも伝わってくるのが何ともいえない。俺は多分こいつが嫌いだった。訪問理由を抜きにしても、嫌いに違いなかった。

 清瀬と小さな机を挟んで向き合った。一応出したお茶は場違いなくらい暖かな湯気を吐いている。

 何から切り出すか。考えあぐねていると、先に清瀬が口を開いた。

「朝陽大輝さん。訪問理由は、察してらっしゃるとは思いますが、改めてご挨拶させて頂きます。清瀬隆です。先日は、妻の葬儀に来て頂いたと、後程お聞きしました。そして妻が貴方に多大な迷惑をおかけしたとも存じてもおります、申し訳ございませんでした」

 机に額をつけるほど背を折り曲げ頭を下げてくる。

「……、ああ、まあ、こちらこそ、謝罪もせず……」

 既に煙草が吸いたくなって来たが耐えながら顔を上げさせた。沈んだ面持ちを向けてくるので堪らない、立場で言えば完璧に俺が悪だというのに。

 清瀬のいう妻とは、俺が付き合っていた清瀬加奈子に間違いがない。既婚者だとは本当に知らなかった、それでも分が悪いのはこちらだ。実質的に不倫相手だった上に、俺は彼女が目の前で飛んだあと、茫然自失のまま動けなかったのだから。

 また黙り込んでしまった。訪問の理由がまったくわからない。俺の困惑を清瀬は当然感じ取っているらしく、すみません、と再度の謝罪を挟んだ。それから言う。

「私にはもう、貴方しか加奈子の話が出来る相手がいないのです」

 一瞬何を言われたのか理解できなかった。は? と思わず漏らして凝視する。冷静な表情とぶつかった。まとめきれていない長髪が一筋、耳の横に垂れている。それを耳にかける仕草に無駄がなかった、ただそれだけでふっと怒りに火がついた。

 加奈子の話が俺としかできない? 知ったことではない、俺はあいつが既婚者だと知らされてから別れを告げて、その直後に目の前で飛ばれただけの男で金輪際関わりたくなどない、あんたは見てないからそんなことが言えるのだ鉄橋の下の線路が真っ直ぐに引かれた整備の行き届いた場所の上で弾けた人間というものがどんな様相をしているのか知らないからそんなことが。

 吐き捨てたかった。今すぐ立ち上がって澄ました表情の清瀬隆を殴りつけて怒鳴って放り出して、……ああでも無理だった、何故なら俺は。燃えたはずの怒りが緩やかに萎んでいく。

 加奈子のことを好きだったのは本当だ。そしてそれが目の前の男もまったく同じなのだとわかってしまっていた。非道な一蓮托生だ。

「……わかりました」

 やっとそれだけを絞り出すと清瀬は安堵したような息を吐いた。お互い一口も啜らなかった粗茶はもう湯気を吐き出していなかった。



 清瀬加奈子と知り合ったのは居酒屋だった。職場の飲み会があり、俺は随分酔っ払っていた。店先で唸りながら酔いを醒ましている間、ずっと背中を擦ってくれていたのが加奈子で、偶々隣のテーブルに居合わせた別のグループの一人だった。

 結婚指輪をしていなかった。旦那がいると一度も匂わせなかった。加奈子は涼やかな美人で、姿勢の綺麗な女だった。あえて言うのなら清潔な、なんの不貞もない雰囲気を全身から放っていた。他に相手が、ましてや結婚しているなどとは露ほども思わなかった。何故あれほど信頼してしまい、職場の人間から密告されるまで何にも気付くことがなかったのか、俺はもうわかりはじめていた。

 清瀬隆は俺のアパートを何回も訪れた。手土産は必ず持っていて、一度来た時に俺の生活がカップ麺やコンビニ弁当で形成されていると察したらしく、よろしければ、などと言いながら惣菜やら食材やら野菜ジュースやら、とにかく俺の体調を気遣ったような料理を渡してくる。嫁の不倫相手にすることではない。だからわかりはじめた。

 清瀬隆は所謂尽くすタイプなのだ。極めつけに本人が自分で吐いた。

「私は加奈子が浮気していると知っていましたが、とめませんでした。……気持ちは、わかるので」

 清瀬はそんなときばかり寂しげに笑い、ひとつにまとめた長髪の先を無意味に弄る。何もいえなくなる、差し出された食料を受け取って、食べずに捨ててゴミ袋の口をきつくきつく縛り上げて、もう来るなよもう来ないでくれ、加奈子の話も本当はもう誰にもしたくないんだよ、あいつと俺がベッドの上で睦んで何を話して笑い合っていたかなんてあんた本当に知りたいのかそんなわけないだろうって明日は絶対に言おう、頼むから新しい生活に踏み切る邪魔をしないでくれ食事もちゃんととっているって、跳ね付ける意思を固めるのに現れた清瀬がどこかほっとしたような顔をすると何も言えなくなって、加奈子にちょっと似てるんだよな、夫婦が似るって本当なのかもなって、まったくどうでもいいことを口に出して清瀬を笑わせてみたりする。


 朝陽さん、と俺の部屋を片付けながら清瀬が話し掛けてくる。いつの間にか殆ど毎日来るようになっていて、食事も持ってきたものではなくその場で作るようになっていて、向かい合わせで食べ始める状況になっていた。体調がよくないと辞退し続けているがそれでも料理は机に乗った。

 うんざりしつつ、なに、と短く問い直す。咥えた煙草に火を着けて、加奈子は煙草を嫌がったな、とまとめられず肩より下で揺れる長髪を見ながら考える。清瀬は嫌がらない、むしろ吸う。今も俺の近くに寄ってきて、自分の分のマルボロをポケットから取り出している。

「俺が加奈子と結婚したのは、貴方が加奈子と出会うちょうど一年前だったんですよ」

「あー、何回か聞いたって」

「そうでしたね。……彼女は朝陽さんのことを相当気に入ってたみたいなので、俺は朝陽さんと初対面のような気がしなかったんです」

 それは一度も聞いたことがなかった。ふっと煙を横に吐き出し、

「その言い方だと、加奈子があんたに俺の話を頻繁にしてた、って聞こえるけど」

 世間話程度に問い掛ければ頷かれた。背筋が凍った。清瀬は笑っている、清らかに笑っている。

「可愛い人なんだよってよう言うてましたよ」

 ぽろりと零れた方言に、形がない不安を抱く。

「酔い潰れて店先で寝てたから介抱してあげた、大輝くんのちょっと斜に構えた、でも優しいところが好き、口が悪いところも可愛い、明日は大輝くんと会うから帰りが遅いけど先に寝てて、そんなふうに加奈子は俺に貴方の話を共有しました。そうか、ええ人みたいで良かった。せやけど加奈子、お前ちゃんと話はしとるんか? そう聞けば笑って誤魔化されたので、朝陽さん、貴方が加奈子が既婚者だと知らないとは気付いていました。それについては俺から何度も謝罪させてもろうてますけど」

 まだ喋りそうだったので一旦静止をかける。心臓が酷く鳴っていた。こいつなんの話をしているんだ? と恐ろしくなり、同時になんだその夫婦関係は? と理解が及ばず思考が止まりかける。

 鎮火しかけていた煙草を捨てて向き直った。清瀬は合わせるように体勢を変えて、指に挟んだ二本目の煙草を転がし始める。朝陽さん。静かな声が不透明な水のようだ。俺はね。波紋のように台詞が響く。

「不能なんですよ」

 ぽつん、と雫のような一言を呟いてから、清瀬の唇は煙草を咥えた。



 清瀬隆と清瀬加奈子の夫婦生活に性交渉はなかったそうだ。それでもお互いに結婚の意志は固く、駆け落ち同然で家を出てこの辺りに移り住んだという。

「でも加奈子は子供が欲しかったんやなあ」

 清瀬は俺の夕食を作りながら、懐かしむような口調で話し続ける。

「それで、話し合うて決めたんですよ。承認を得られることは難しいやろうけど、誰か他から精子をもらおか、って。……精子バンクは加奈子が嫌がりました。自分で見つけて気に入る人やないと嫌やって、彼女、案外わがままやったでしょう?」

 それはそうかもしれなかった。付き合い始めて一番驚いたのは、清楚な雰囲気に反して行為に関する甘え方が上手かったことだ。加奈子に甘くねだられると次の日が早くともついホテルに足が向かっていた。ゴムはいいよ、という誘惑にだけは背き続けた。

「朝陽さんに話を通して、家に連れてきな、という話は何度もしました」

 清瀬は切った野菜をフライパンに入れ、手際よく味付けを施していく。醤油の焦げた匂いに食欲をそそられて腹が鳴るのに何も食べたい気分にならない、なるわけないんだが清瀬はやめない。フライパンを振り、朝陽さん、と静かに話す。

「加奈子は貴方の前で自殺したやろ」

 がたん、と大きな音が響いた。俺が立ち上がった音だったが立ったことには遅れて気付いた。清瀬は振り向き、首を傾けながら笑って、音もなく流れた髪を耳にかけた。

「朝陽さんの子供がええ、って決めてたみたいで。せやから別れると言われてショックやったんやろうな。でも俺のせいなんでそんな顔せんといてください」

「は? いや、あんたは別に加奈子と、その、関係が冷えてたってわけじゃあねえだろ?」

 動揺しながらもどうにか冷静になろうと、あえてゆっくり問い掛ける。フライパンが翻った。皿の上に盛られた野菜炒めは随分健康に良さそうだったが要らない、要らないといえない。俺は足首を掴まれている。加奈子の亡霊に。

 或いは、清瀬隆にじりじりと追い詰められている。

「俺のせいですよ」

 清瀬は穏やかに言いながら野菜炒めをテーブルに置く。

「加奈子が既婚者やって、貴方の同僚に伝えたのは俺なので」

 微笑まれて一瞬視界が真っ白に染まる。怒りのせいだった。野菜炒めを腕で払い落として相変わらず笑ったままの清瀬隆の胸倉を引っ掴む。勢いのまま殴ろうとしたが握った拳は振り上がらない、距離を詰めて覗いた瞳の中が殴れと言っている気がしてどうにもならない。

「……加奈子とは」

 数秒睨み合ったあとやっと絞り出した声は掠れていた。清瀬はもう笑っていなくて、俺の手首に指を絡めながら、はい、と小さく返事をする。

「加奈子とは、既婚者って知らなくても、いずれ別れてたと思う」

「……何故ですか?」

「結婚する気がなかったからだ」

 だから絶対に避妊をした。俺は俺が可愛かった。加奈子のことは気に入っていたし愛していたし会えば楽しかったが子供なんて絶対にごめんだった、そもそもこのアパートに立ち入らせたことだって一度もなかった。こいつだけだった。恋人だった女の旦那だけが俺の部屋に上がり込んできて野菜炒めなんか作っていつまでもいつまでも入り浸っていた。

「加奈子とあんたの評価がどうだとか俺の知ったことじゃない、煩わしいのは嫌いなんだよ加奈子は確かにわがままなときはあったけど、基本的には涼しげで面倒なところが少ないから気に入ってただけで、子供の話なんてされたらすぐに逃げてた。自信がある。本当はさっさと引越してえんだよ、それなのにあんたが来るから何処にもいけねえんだ、もう来るなよ頼むからいつになったらわかるんだよ!!」

 しばらくの間俺も清瀬も黙っていた。そのうちに清瀬がやんわりと俺の腕を離して、床に散らばった野菜炒めを片付け始めた。そのままでいいから帰れ、二度と来るなよ、加奈子は死んだだろあんただっていい加減こんなことは生産性がないってわかってるんだろう。背中に投げ付けると清瀬は手をとめてぱっと振り返った。朝陽さん俺は本当は貴方と加奈子のことを認めてなんてなかったんですよ。静かだけど震える声で言いながら、清瀬は眉間に皺を寄せて口角を吊り上げた。初めてみる本物の笑顔だった。

「朝陽さん。俺は貴方のことが大嫌いでした。加奈子が既婚者やって知って傷つけばいいと思った。加奈子が出掛けるたびにはよ死なんかな、そうしたらやっぱり他の方法を考えようって加奈子に言えるわ、また別のところに移り住んでもええし、俺は養子とっても構わんから説得できるやろう、でも朝陽大輝が邪魔や、あいつだけが邪魔や、そう考えて考えて密告した結果がこれですよ。ほな、俺ができることなんかひとつしかあらへんでしょう? 貴方に嫌がらせをし続けること、これだけですよ。引っ越していいですよ、追い掛けます。食事もいつか必ずとらせます。加奈子の話も吹き込み続けますよ朝陽さん、逃げるなんて絶対に許さんわ俺もお前もいつか死ぬまで、同じだけ苦しんでもらわんとなにもおさまらへん」

 清瀬は片付けた野菜炒めをゴミ袋に放り込み、きっちりと縛ってから呆然とする俺の前に立つ。明日も来ます。ここにいてください。俺には貴方しか生きる糧がないんです。

 背筋を伸ばしながら凛とした声で言うもんだから、俺は思わず笑ってしまった。俺が笑い続けている間、清瀬は黙って立っていて、けれど静かに笑んでいた。俺を追い詰めたままそこにいた。

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