加奈子が死んだあと、朝陽大輝の元を訪れる気はなかった。静かに悼んでから、首を吊って死のうとロープを買った。けれど思い直した。私の手元にはまだ加奈子がいた。財布に忍ばせていた写真と、加奈子の入った骨壷が、家にはまだあった。

 だから死なずに生きていた。私のすべてだった人を奪った朝陽大輝に復讐しようと思うことができた。




 春はお互いに行事が多く忙しい。朝陽も私も、顔を合わせても疲れていることが増え、訪問のタイミングが何度か消えた。気付けば一週間ほど朝陽の顔を見ていなかった。

 その日も学校から直帰し自宅に戻った。加奈子の部屋にまず寄って、クローゼットから取り出した骨壷の中身を確かめる。骨の塊を一つ取り出して電灯の前に透かしてみると、ぱらぱら白い灰が散った。

 それを持ってキッチンに向かった。すり鉢に骨を放り込んで叩くと簡単に砕け散り、ほとんど粉のようになる。何度もこの作業を行った。混ぜすぎると勘付かれる可能性があり、ふたつまみほどしか加えることはできない。

 朝陽に作る料理の調味料には毎回これを入れている。そうしよう、と思ったのは、流しに捨てた和風パスタの上に、煙草の灰を振り掛ける朝陽を見たときだ。散った灰を眺めて思い至った。名案だと思った。

 実質的に、朝陽への嫌がらせというのは、これだ。毎回通うことではない。

 加奈子が自殺したのは、私の告げ口が起因だと理解している。朝陽を恨んで憎んでも、結局は自分に跳ね返る呪詛だった。

 だから朝陽にも加奈子を殺させる。そのために骨を混ぜ、捨てさせて、少しずつ少しずつ、あの人にも罪を着せている。

 誂えた調味料をパックに詰めているとインターホンが鳴った。カメラで訪問客を確認し、一瞬迷った。

 朝陽大輝がつまらなさそうな顔をしながら立っていたからだ。

「いるんじゃねえか、さっさと開けろよストーカー保健医」

「……何の用ですか?」

 扉を開けた私の横をすり抜け、朝陽は家の中に遠慮なく入ってくる。仕方なく後を追い、キッチンの上をざっと片付けてから飲まれないお茶を淹れた。部屋は前回よりも片付けているが、ソファー前の机だけは私の作業場もかねているため、本が山積みになっている。

 ソファーに行儀悪く座っている朝陽を促し、ダイニングテーブルに移動させた。彼は煎茶に視線を落としたがやはり手はつけない。養護教諭だと判明したので余計だろう。小学校の保健室と言えど、混入しやすい薬はいくつもある。持ち出してもそう見つかりはしない、私の城なのだから。

 朝陽は背凭れに深く背を預けながら、忙しいな、と同業者らしい言葉を口に出した。

「……そんなしょうもない話をしにきたんか?」

「あ? 単純に忙しいから忙しいって言っただけだ」

「そんな話をするような間柄でしたか」

「学校で会えばな」

 ふんと鼻で笑われる。横柄で暴力的で情が薄い、会えば会うほど加奈子が惹かれた理由がわからない。苛立ちが募る。

「……、なにか作りますよ」

 言いながら席を立ち、キッチンへと身を滑り込ませた。先ほど作った調味料を出して中を覗き、灰が紛れてわからないと確認してから調理台に置く。

 無言で調理をしている間、朝陽はスマートフォンを操作していた。数分もすれば飽きたのか立ち上がり、勝手に部屋の中をうろつき始める。

「朝陽さん」

 牽制のつもりで声をかけるが、二階に続く階段へ向かい出したので慌てて追い掛けた。

「うろつくな、何処に行くんや」

 肩を掴んで引き戻すと、舌打ちと共に腕を払われる。

「加奈子の部屋。あるだろ」

「……そら、ありますけど」

 朝陽はにやり、と音がしそうな笑みを浮かべた。阻止しようと身を乗り出した瞬間、思い切り下腹部を蹴りつけられた。内臓がねじれるような激痛が走り、一瞬視界が明滅する。痛みに呻いてよろけている間に、朝陽は階段を上っていく。

 腹を押さえながら追い掛けて、部屋を一つずつ覗く朝陽に後ろから飛び掛った。

「あかん、何処にも入るな!」

 返事の代わりに肘で肋骨を抉られる。それでも離さず引き摺ろうと力を込めれば、朝陽はふっと顔を俯かせた。次の瞬間には勢いよく上がった。

 頭同士のぶつかる鈍い音が響き、目の中にははっきりと星が散った。朝陽の服に掴まりながらなんとか立ったまま堪えたが、視界が痛みと衝撃の余韻でぐるぐる揺れている。覚束無い状態でいるうちに胸倉を掴んで引き摺られた。投げるように突き放され、抵抗できず転がったところではっとした。加奈子の部屋の景色だった。

 朝陽は部屋の中を見渡してから、私を睥睨した。視線を合わせたままじりじりと体を動かし、加奈子のベッドに腕を引っ掛け乗り上げる。爪先がこちらを向いた。来るな、と先に牽制するが、朝陽は面白そうにしながら見下ろしてくる。

「ああ、加奈子の部屋で滅多なことはすんな、って?」

 その通りだった。一縷の望みをかけて頷くが、朝陽はあっさり笑い飛ばした。

 わかっていた。朝陽大輝はこういう人間だ。やたらと暴力に手馴れており、私をサンドバッグと捉えている。

 逃げよう、と一瞬思うが、クローゼット内の骨壷のほうが重要だった。荒らされる前に好きにさせるか。

 ベッドに座り込んだまま、じっと立っている朝陽を見る。断腸の思いで受け入れようとした瞬間、朝陽はふっと興味をなくしたように視線を投げた。

「この部屋、加奈子の部屋、って雰囲気があるな。……俺も嫌だわ、ソファーのほうがましだ」

 朝陽は呆気に取られる私を置いて階下に戻っていく。

 遠ざかる足音を聞きながら、常に掃除をしている部屋を軽く見回した。女性用の服やバッグ、化粧ポーチの置かれた机。クローゼットには上着類と、たくさんの衣類と、彼女の骨壷。壁に下がった小物入れにはアクセサリーがいくつも入っている。

 焦げてるぞ、と朝陽の声が響いた。はっとして立ち上がりキッチンに慌てて滑り込めば、加熱をとめる朝陽の姿があった。

「何作ってたんだこれ。燃えるゴミか?」

 朝陽はフライパンを持ち、勝手に中身をゴミ袋の中にぶちまけた。

「……煮込みハンバーグの予定でした」

「ふーん」

 焦げ目の残ったフライパンを流しに投げ置いてから、朝陽は玄関に向かい始めた。

「朝陽さん、本当に何をしにきたんですか」

 後を追いながら問い掛ける。朝陽は肩越しに振り返り、なにかを考えるように斜め上を見たが、なにも言わずに出て行った。

 不可解だった。けれど彼が教える気がないのであれば、知りようがない。人の心は誰にも読めない。

 しばらく朝陽の出て行った扉を見つめていた。家の中にはソースの焦げた臭いと、平坦な静寂が漂っていた。



 養護の資格を取ってから、遠くの小学校の採用試験を密かに受けた。採用が決まり、両親に黙って、加奈子と共に家を出た。

 兄弟として過ごしている間、加奈子は幾度となく一緒に家を出ようと言ってきた。私にはそれを叶える必要があった、一緒でないのなら一人でいくという加奈子に縋って、ひとりになるのは嫌だと訴えた。

 決定的に差別されたわけではなかったが、両親はやはり加奈子のほうを大切にしていた。加奈子が教えてくれた。両親も不能になった養子をどう扱えばいいか悩んでいる、二人は隆に内緒で私だけにものを買っている、だからいつか一緒に家を出ようね、私がずっと一緒にいてあげるからね。

 加奈子にやさしく微笑まれると安心した。

 私には加奈子しかいなかった、ずっとずっと昔から。



 行事が一段落してから、また朝陽のアパートに毎日通うようになった。彼は相変わらず面倒そうにし、料理という名の加奈子の遺骨を捨て、腹の虫が悪ければ私を痛めつけた。

 骨はあと少しだった。綺麗になくなってしまってから朝陽にすべてを打ち明けるのが楽しみだった。傍若無人で人間として不能であるこの人がどんな顔でそれを聞くのか、勿体無くて想像もしなかった。

 遠くの山々が芽ぐんで青い、新緑の季節になる。それでも変わらず通い、作っておいたトマトソースをかけたチキンステーキを、机に頬杖をつく朝陽の前に差し出した。彼は眠そうにそれを眺めていたが、不意に箸を持った。

「あんた、料理スキルだけマジで上がり続けてるな」

 朝陽は頬杖をついたまま、箸の先をチキンに突き刺す。

「食ってやろうか」

「……え?」

 聞き返すと、不敵な笑みが返された。

「あんたさ、加奈子の話しかすることねえから、色々教えてきただろ」

 朝陽は箸先でチキンを器用に切り分け、トマトソースを絡めながら更に喋る。

「置いてきた両親は加奈子が死んだって知ってるのか?」

「……いいえ」

「だろうな」

 何が言いたいのか。まさか砕いた骨が入ってることに気付いたのか。そんなはずはない、この人が私の家に来たのはあの二回だけで、骨壷はきちんとクローゼットに隠してあった。気付きようもない。

 黙っていると朝陽は頬杖を解いて箸を持ち上げた。垂れたトマトソースが血のように滴り落ちる。

「ガスライティングってわかる?」

 質問が急に飛んで不可解だったが頷いた。朝陽はそうか、と言ってから、

「わかるのに、あんたそのままなのか」

 と不思議そうに呟いた。

 ガスライティング。カルト宗教や、所謂精神病質者などが扱う手法だ。集団的なストーカー行為なども当てはまる。ガス燈という映画が元の言葉で、主にマインドコントロールによる掌握を指す。

 何が言いたいのかわからず朝陽を見つめ返した。朝陽は箸を皿に添えて置き、すっと冷静な表情になる。小学校で出くわした時の顔だった。

「偶には俺の話を聞かせてやるよ。あんた、俺を人間のクズだ、人間として不能だ、徹底的に情が欠けてる、って未だによく言うだろ。確かにそうなんだろうな。あんたと加奈子が義理の姉弟だって聞いてから、ずいぶん久々に俺も親のことを思い出した。考えねえようにしてたんだよ、ドがつくクズだから。俺がじゃなくて、あいつらが。俺が小さい時から毎日毎日喧嘩してて、どっちも不倫してた。俺は男連れ込んだ母親に玄関見張ってろって言われたり、父親が連れてきた女に手を出されそうになったり、まー犬小屋のほうがマシかもなって状態だった。金だけは出す親だったから大学に行って手っ取り早く取れた教員免許握って家出てからはずっとこうだ。信じられねえって顔するなよこんな親どこにでもいる。……で、そんなわけだから結婚とかありえない、子供も欲しくない、でも楽にうまく付き合える彼女や友達は欲しい、面倒を起こすようなら要らない、こういう情の欠けた人間が出来上がる」

「……加奈子は、それ知っとったか?」

 朝陽は肩を竦めて、

「脳が腐ってんのか? 誰にも話したことねえよ」

 と罵倒を挟んだ。

「お家自慢じゃねえぞ。ここまでが前座。話を戻すが、ガスライティングはわかるんだろ」

「そら、そうやろ。心理学が専攻やったわけではあらへんけど、一通りの知識はある。マインドコントロールの手法やろう?」

「ああ。あんたが加奈子にされてたやつだな」

 静寂が訪れた。何を言っているのかわからず、何を言っていいのかも見当たらなかった。すっかり黙った俺をしばらく眺めてから、朝陽は舌打ちをして、嫌そうに溜息を吐いた。

「なんとなく疑ったのは、あんたの家の様子見てからだ。あんたはリビングのソファーが作業台だったのに比べて、加奈子の部屋は服飾品も多くて、広い一人部屋だった。それで、殴って弱らせながらちょっとずつ昔の話を吐かせて、段々確信した。あんた養父母に加奈子の言葉が本当か確認したか? してねえだろ。学校では苛められたらしいが、不能だって知れ渡った原因はなんだ? 加奈子が絡んでるんじゃねえのか。加奈子が時々、自分の非をお前に擦り付けるように誘導してるのに気付いてたか? モノがちょん切れたのは確実にあんたのせいではない、加奈子のせいだ。でもあいつは不能だから女の子も気味悪がる、ってあんたに責任の所在を押し付ける発言を巧みに繰り返してたんだろ?」

 どうにか首を動かして頷き、そのまま視線を机に向ける。私には加奈子しか愛してくれる人がいなかった。加奈子の声が響く。隆は男の子なのに男の子になりきれないから誰も好きになってくれないね、でも私は隆をずっと守ってあげるから。首を左右に振り、視界にあるチキンステーキの皿を掴む。これ、捨ててくれ。搾り出すと、あからさまに不機嫌な舌打ちが響いた。

「加奈子はもう死んだから終わった話だろ。俺が言いたいのは、加奈子はあんたを愛してたとしてもうまく掌握してコントロールしてた、ってことだ。だから加奈子に拘るな、って話なんだよ。そうすりゃあ俺のところにももう来なくていいだろ、いい加減面倒なんだ。ちょうどよく気付けて渡りに船だった、目覚ませよ。親のところに帰れとは言わないが、加奈子のことはある程度吹っ切」

「はよ捨てろや!」

 叫んでからはっとして、次に吐き気が込み上げた。皿を朝陽に押し付けて、絶対に捨てろと言い含めてから鞄を引っ掴む。

「おい」

「もう来ません、それでええやろ」

「納得したのか?」

「うるさい黙ってろ、加奈子は、加奈子を見殺しにした受けた情もない暴力男に何がわかるんや」

 ガチャン! と大きな音が響き渡った。振り返ると、流しに皿ごと叩き付けた朝陽が、怒りを抑えきれない顔でこちらを睨んでいた。

 背を向け、朝陽のアパートを飛び出した。夜道を突っ切るように走って、走って、走り続けた。

 何も考えたくなかった。何も、考えられなかった。

 寄り添うようにそこにあった、加奈子の声も聞こえない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る