線路に飛び降りて飛び散った。そう連絡を受けたとき、何が起こったのかわからず、ただ部屋の中で立ち尽くしていた。握り締めたままのスマートフォンからは聞こえていますか、大丈夫ですか、清瀬さん、と呼び掛ける声が続いていて、窓の向こうでは雪が音もなく降り注いで白くなり、冬がおもいのほか濃いのだな、と冷静さを探すように思い浮かべてから大丈夫です聞こえています向かいます、と早口で答えた。

 一年前の話だ。そう、一年が経ってしまっていた。徹底的に情が欠けているのはあの人ではなく私のほうだった。

 吹き付ける寒風が鋭い。今年はまだ雪の降る日を見ていないが、去年はよく降った。加奈子が死んだ日も。

 仕事を終えてからようやく加奈子の墓を訪ねた。花を添えて、一時間ほど佇んでから、墓地を出た。何を語ればいいのかわからなかった。あの墓はただの飾りで、加奈子はもういないのだ。私は彼女の命日を忘れるほどうろたえていて、彼女に顔向けができないほど朝陽大輝を責め続けている。

 朝陽大輝。今日も彼の家に行かねばならない。しかしもう終わるのかもしれない。彼は私の、私達の関係を、少しずつ疑い始めている。

 アパートの手前で立ち止まる。彼の部屋に電気はついていた。数分、何をするでもなくその光をぼんやりと見つめた。寒さに痺れた脳はろくな像を結ばなかった。



「……来たのか、懲りないなあんたも」

 朝陽はスマホでなにかの動画を観ながらコンビニ弁当を食べていた。無言で部屋に入り、持ってきた材料を調理台に置く。調味料は家で下拵えをしてから持ってくることがほとんどだが、それもあって朝陽は余計に箸をつけないのだろう。

 キーマカレーの調理法を覚えたので試しに作り、弁当を不味そうに掻き込む彼の前に差し出した。形のいい目が一瞬料理に注がれるが、直ぐに弁当に戻る。無視はされたが、捨てる気配もない。

 気を使われているのかもしれない。ゆっくり背筋が冷えていく。朝陽が捨てないのならばと皿を掴むと、再び視線で牽制される。

「……、食べるんですか」

 問えば、まさか、と鼻で笑いながら告げてくる。

「あんたの料理をあんたの目の前で捨てるのが俺の楽しみなんだよ。今は忙しいんだ、そこ置いとけ不能野郎」

 はあ、と吐いた息は安堵の意味合いが強かった。朝陽は別の意味で受け取ったらしく、嫌なら来なければいいと付け加えた。

 弁当が空になったあと、料理はいつも通りゴミ箱に捨てられた。朝陽は煙草を吸いながらスマホを弄っていたが、不意に手を下ろして私を見た。

「加奈子がやりました、って言ってたけど、あいつが故意にちょん切った、ってことか?」

 思わず口を閉じる。朝陽はじっと見つめてくる。

 昨日彼は不能の理由を知った。私達夫婦をおかしいと指摘し、気味が悪いと吐き捨てて帰って行った。

「……、本当に知りたいですか?」

「そりゃあな、性転換手術したってわけでもねえだろその傷口なら」

 頷いてから姿勢を正した。朝陽は煙草を潰し、机に頬杖をつきながら、私の顔、首元胸元、下半身へと視線を滑らせ、嫌そうな顔をした。

「ほな、……俺と加奈子の出会いから、話す必要があります」

「SMバーでも出会ったのかよ」

「違いますよ。俺は四歳、加奈子は七歳でした」

 朝陽の眉間に皺が増える。笑みを向けてから、子供は残酷なので、と間に挟んだ。

「孤児だったんですよ。清瀬家に養子として引き取られて、清瀬になりました。端的に言えば加奈子は血の繋がらない姉になります。彼女は本当は妹が欲しかった、せやから」

「待て、情報がおかしいだろ」

 言葉をとめると朝陽は舌打ちをして、

「じゃあ、夫婦だったってのは嘘なのか?」

 と聞いてきた。

「嘘ではありません。でも籍が入っていたわけではなく、俺と加奈子は事実婚状態でした。近所の方にも夫婦だと伝えてましたしね。……朝陽さん、貴方にはいつやったかお話しましたが、俺達は駆け落ち同然に出てきました。それは」

「血は繋がってなくても兄弟だから認められずやむなく、ってことか」

 首肯してから、煙草を取り出し一本咥える。

「七歳だった加奈子は妹が欲しかった。それで、物がなければ女の子になる、と思ったそうです」

 左手でチョキを作り二本指を開閉すると、朝陽は盛大に溜息を吐いた。

「直ぐ縫合すればどうにかなったんじゃねえの」

「両親が知ったのは翌日だったので」

「……切ったブツは?」

「生ゴミですよ。加奈子が捨ててしまったそうです。俺は痛みに悶絶して意識を失ってました、両親はお昼寝やと思てたらしいです」

 ふっと煙を吐き出し、伸ばしていた背筋から力を抜く。朝陽は嫌そうな顔をしたまま新しい煙草を引き出した。しかし火は着けず、指先に挟んだまま思案するような目付きをした。

 この人の目は、確かにどこかしら、人を惹きつけるような魅力があった。加奈子はそこに光芒を見たのかもしれない。私と彼女では成せないことに対する、希望に似たなにかを。

「あんたらマジでおかしいんだな」

 朝陽の独り言めいた呟きに笑みを返す。彼は煙草に火をつけてから、立ち上った煙を仰いで払った。

「大体の経緯は以上です。帰ります」

 煙草を灰皿に潰して立ち上がると、朝陽はひらりと片手を上げた。挙手の意思表示らしかった。どうぞ、と促せば、彼は視線をぐるりと回してから、私へと定めた。

「今日職場で、同僚と話してな」

「同僚?」

「ああ。俺に、加奈子が既婚者だ、って教えたやつ」

 ……そこか。座り直して見つめ返すと、煙を吐きかけてきた。

「不思議だったんだ。旦那本人からの告発を告げ口した、って雰囲気じゃなかったし、知人から聞いたんですけど、って口ぶりだった。友達じゃなくて知人か。でもあんたが旦那本人とは知らないってことはさ、仕事関係の知人、ってのが有力かと思って」

「ええ、そうです」

 朝陽は灰を落としながら、受け持ちは、と興味もなさそうに聞いてきた。

「養護教諭です」

 答えると、中学教師は口角を吊り上げた。




「ねえ隆。精子欲しい人、見つかったかも」

 思い掛けない台詞に狼狽する私を置き去りに、加奈子は嬉しそうに朝陽大輝の話を続けた。血は繋がっていないのだから子を成しても問題はない。しかし私にはそうすることができない、それは子供の頃からよくわかっていた。

 加奈子はわがままだった。好き嫌いが多く、彼女の目に適う相手は現われないだろうと高をくくっていた挙句が、これだった。朝陽大輝をひどく憎んだ。今も憎んでいる。けれども万が一、万が一本当に子供ができたのなら、朝陽大輝が一定の理解を示して協力してくれるのなら、それでもいいとは思っていた。

 朝陽と加奈子は順調に交際していた。私はいやでも感じ取っていた。加奈子が私と共にいるのは、罪滅ぼしの割合が少なくない。愛してるとは言ってくれて、甘く過ごす時間も当然あったが、彼女は時折姉の顔をした。

 けれど朝陽大輝の話をしているときは違った。加奈子は朝陽を好きだった、あれは確実な恋情だった。

 だから朝陽大輝が嫌いだった。今でも嫌いだ。しかし育ての親を捨て、血のつながった両親も行方不明で、姉であり妻であった加奈子を亡くした今、私には朝陽大輝しかいなかった。大嫌いな男たったひとりしか残っていなかった。




 職場である小学校に朝陽大輝がやってきたのは、春の気配が微かに見え始めた時だった。部屋には変わらず訪れ、暴力を受けたり口を使わされたりしていたが、ここで会うとは思わず一瞬言葉を失った。

 あちらは仕事用の顔をしていた。隣には中学生を連れており、保健室で眠っている生徒を迎えに来たと流暢に説明してきた。

「……お聞きしてます、養護の清瀬です」

「どうも、朝陽と申します」

 朝陽と中学生を連れて保健室に向かった。ベッドで眠る生徒とこの中学生は兄弟らしい。弟が急に体調を崩したが、親は迎えに来れず、親から兄へと連絡が回ったらしい。しかし自転車に二人乗りさせるわけにもいかず、やむなく待機時間だった朝陽が同行した、という流れだ。

 朝陽は兄弟二人を連れ、小学校からは直ぐに消えた。私と朝陽は大したやりとりもしなかったが、肝が冷えるため二度と来ないで欲しい。彼とは二人きりでしか会いたくはない。それに、もうすぐ終わるはずだ。

 帰り支度の最中、朝陽を見ていた若い女性教師に生徒の父親かと問われた。説明すると目を輝かせ、紹介してもらえないかと更に詰め寄られる。今日が初対面だと伝えれば残念そうだったが、諦めた風ではなかった。

 朝陽大輝は女性に魅力的だと思われるのだろう。加奈子もその一人だった、そう思うと胃の辺りが引き攣るように不快になった。加奈子がその他大勢に埋没することが許せなかった。



「朝陽さん。俺の同僚が貴方を紹介して欲しい、と言っていました」

 アパートを訪れ開口一番に伝えると、あからさまに面倒そうな顔をされた。

「恋人はしばらくいい、あんたのことを説明するのが面倒だ。あんたが来なくなったら考える」

 奇妙な言い分だった。そこそこの美人だとも付け足してみるが、追い払うように片手を振られる。

 話はそこで打ち切り料理を作った。出した焼きそばを朝陽は数秒眺めていたが、皿を持って立ち上がり、流し台に向かった。べちゃ、と無残な音がして、焼きそばは廃棄物に変わった。

 朝陽は私に背を向けたまま流しの前に佇んでいた。背中をぼんやり見つめ、今なら殺せるだろうか、と考えてから、でも死にたいのは自分か、と自嘲した。ポケットに財布がきちんとあるのを確かめる。加奈子はあまり写真が好きじゃなかった。だから、この一枚しか持っていない。これしかよすががない、私を動かすものがない。いや慰めでもないのかもしれない。朝陽に求めているのは破壊だ。どういう形になったとしても、私を殺す理由はこの人が作らなければならない。

 視界の中に影が差す。はっとして見上げると、朝陽の冷たい視線にぶつかった。いつものか。腕を伸ばしてベルトに指をかけるが、手首を掴んで阻まれた。

「なんですか」

「俺は脱がせなくていい、お前が脱げ」

 え、と間抜けな声が漏れる。朝陽は目を光らせて、脱げ、と噛んで含めるように繰り返した。

「い、やです」

「は? あんたの是非なんか聞いてねえ。早くしろ耳にクソでも詰まってんのかよ」

 急かすように肩口を蹴られ、よろけて後ろ手をつく。その間に朝陽は胡坐をかいて、黙ったままこちらを睨んでいた。わけがわからない。しかし抗えない。落ち着こうと吐き出した息は情けなくも震えていた。

 小学生の頃、私に局部がないということが不意の事故で知れ渡り、ずいぶんと苛められた。羽交い絞めにされて下を剥がれ、クラスの笑い者にされ、或いは気味が悪いと奇異の目を向けられた。加奈子が小学生の間は庇ってくれたが、中学にいってしまってからは地獄だった。

 加奈子は唯一の存在だった。よく謝り、抱き締めて慰めてくれた。自分のせいでごめんね、一生守ってあげるからね。その言葉に何度も救われていた。私を受け入れてくれるのは加奈子しかいなかった、加奈子しかいないのだと。

「おい」

 ベルトに手をかけたまま動かない私に痺れを切らしたらしく、朝陽が身を乗り出してきた。

「一回見てんだ、ねえことはもうわかってんだよ。モノがないなら素股もできそうだからダッチワイフ代わりになれって話をしてんだ、後ろは無駄に痛いからもうごめんだけどな」

 話しながらがちゃがちゃとベルトを外し、スラックスを脱がしにかかってくる。待て、と焦り気味の声が漏れるが意に介した様子はない。

 春が近いとはいえ、剥かれると寒かった。朝陽は私をうつ伏せに転がしてから太腿にローションを塗り始める。閉じた腿の間に突っ込まれると奇妙な感覚が走った。性的な快感というものが私はわからない。だから、太腿の間を往復するだけで快楽が得られるのかどうかも、体験として知りようがない。

 背後で朝陽の息遣いが聞こえる。肉のぶつかる音も。加奈子もこのようにされたことがあるだろうか。加奈子。私が生きる理由だった、私を唯一愛してくれた加奈子。ぎゅっと目を閉じると皮膚感覚が鋭くなった。足が熱い、気持ち悪い、加奈子、こいつのどこがよかったんや。朝陽大輝のどこが。

 ぐっと後ろ髪を掴まれる。乱暴に引っ張られて思わず呻いた。首を振ると離されたが、掌は肩に移動した。仰向けに寝かし直され照明が一瞬網膜を焼く、その手前には影になった朝陽大輝がいる。姿は水の中にいるようにぼやけていた。私はいつのまにか泣いていた。

 朝陽は面倒そうに舌打ちをし、膝裏を掴んで固定してから、太腿よりも奥、本来なら局部がある箇所に熱を擦り付けた。口から呻きとも喘ぎともつかない呼吸が漏れて、堪らず腕で顔を覆い隠した。加奈子。搾り出すと、虫唾が走ると言いたげに、大腿部を拳で叩かれた。

「女みてえな反応すんなよ、気持ち悪い……」

 詰られながら道具として扱われた。でも、ただただ、道具だった。朝陽は体については詰らず、精を下腹部に吐き出すと、どうでもよさそうに離れていった。

 浴室に向かった朝陽の背を呆然と見送った。それからうつ伏せになって蹲り、声を殺しながら泣いた。

 加奈子を死なせた朝陽大輝が大嫌いだ。

 でも彼は、初めて不能の理由を笑わなかった他人だ。





 ねえ隆。加奈子の柔らかな声は毎日のように思い出された。

 酷いことをしてごめんね、一生守ってあげるからね。やさしく歌うように加奈子は話す。

 あなたがはじめから女の子だったらよかったけど、男の子でも好きだよ。ずっと一緒にいてあげるね、あなたは男の子として不能だけど、私だけはずうっと味方だからね。

 隆がいじめられたのは私のせいだね。ごめんね、ちゃんと女の子にしてあげればよかったのかなあ。男の子として情けないって思ってるよね、ごめんね。隆、泣かないで、ずっと一緒にいて守ってあげるから。ずっと隆を愛してあげるから。そんな体だから彼女なんてできないでしょう、また笑われていじめられるよ、心配しないで私がいるじゃない、告白してくれたっていう子もそんなの見たら逃げちゃうよ、隆が傷つくのなんて嫌だから断って、だいじょうぶだよずっと一緒だから。あなたは私のものだから。ずっと。一生。いつか私が死んでも。

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