車窓から見える景色は梅雨の気配に覆われている。遠くは薄暗く、輪郭線がぼやけて見えた。二駅ほど越えれば雨と交差し、電車の屋根がばらばら鳴った。

 土日を挟んで有給を使った。いい顔はされなかったが、事情を説明すればどうにか通った。故郷に戻る必要ができた。親に関する火急だと伝えたのは、嘘だったが本当だ。

 次は終点です、という気だるそうな声のアナウンスを聞きながら、持ち出した骨壷を鞄越しにそっと撫でる。雨は背後に消えていたが、駅に降り立つとまだ雨粒の匂いは残っていた。



 朝陽に私と加奈子についての意見を聞かされてから、彼のアパートには行かなくなった。あちらから自宅に来ることもなく、ぎりぎりで繋がっていた黒い糸も途切れたようだった。きっと清々しているだろう。加奈子の骨を捨てていたとも知らず呑気に。

 一人で一ヶ月ほど過ごす間、両親のことを考えた。私と加奈子は唐突に、消える素振りも見せないまま家を出た。探しに来るのではないか、行方不明届けが出ているのではないかと危惧していたが、加奈子はどこか超然とした顔で来ないよ、と笑っていた。

 ……私を安心させるための優しさに満ちた言葉だと思っていたが、朝陽のせいでマイナス方向の考えばかりが次々に浮かんだ。

 実家は田舎だ。今私が住んでいる町よりもぐっと民家が減り、牧歌的な田畑があちこちに点在する。バスの数も少なく、駅を降りたあとは一時間ほど歩くことになった。湿気がじっとりとまとわりついてくる。

 車通りも少ない蒸した田舎道を歩きながら、両親のことと朝陽のことを交互に思い浮かべた。

 養父母は優しかった、と、思う。養子であり身体的に欠陥を持ってしまった私が加奈子にべったりでも、微笑ましそうに笑ってくれた。加奈子だけを可愛がっている素振りなどあっただろうか。思い出せない。二人は仲もよく、喧嘩をする場面も殆ど見たことがない。また靴下脱ぎ散らかしてるじゃない、と養母が小言を漏らし、後でするから堪忍な、と養父が返す。その程度の会話しか記憶には残っていない。

 朝陽の両親は所謂ネグレクトだったのだろう。金だけは出したと彼は言ったが、それ以外の情は受けなかったと思われる。喧嘩も毎日のようにしていた。どの程度の罵詈雑言を聞いて育ったのだろうか、彼の暴力的な側面はその日々が形成したもの、だろうか。

 比べても詮無いが、私の養父母と朝陽の両親を並べると、明らかに養父母のほうが親の責任を果たしていた。私と加奈子は不自由なく育った。不倫の現場を見たこともなければ激しい喧嘩を、万が一していたのだとしても子供の前では見せなかった。

 脳が破裂しそうだった。茹だるような湿気に加え、一時間の徒歩移動、回廊のような思考は延々と出口がない。

 加奈子。彼女に聞こうにも、今は骨壷に残るほんの少しの骨と写真しか、私の手元には残っていない。

 見慣れた道に差し掛かる。住宅が多少続く集落が現われて、一瞬心臓が跳ね上がった。辺りを見渡し田んぼの続く方向を覗うと、遮るもののない空間の奥に、私の通った小学校の校舎が見えた。

 鞄の紐を握り締めながら、実家のある側へと足を向ける。ひとつに結んだ髪から、一筋だけはらりと顔の横に落ちてきた。それを耳にかけながら短い坂道をのぼり手狭な道を進んでいく。家はすぐに見えた。足をとめかけるがどうにか踏み出し、玄関近くまでのろのろと進む。

 どう説明するか、考えるには考えたがまったくいい案はなかった。しかし懐かしい実家の様相を見れば、正直にすべてを話すしかない、と覚悟が決まった。私は良くない息子だった。加奈子もかもしれないが、もしも許してもらえるのであればなんでも差し出す。許されなくともなんらかの形で贖う。

 深呼吸をしてから呼び鈴を押した。家の中に響く電子音が私の耳にも届く。次いで、足音がした。はーい、と軽い調子の女性の声が聞こえて肩が震えた。

 程なくして扉を開けた住人は、瞬きを三回落とした。それから何も言えないでいる私に、

「どちらさまでしょう?」

 と問い掛けてきた。私は息を殺すようにしながら、見知らぬ女性の顔を呆然と見つめていた。




 高石と名乗った女性は、養父母と同じくらいの年代に見えた。私を家に上げてから、住人というわけではないと付け加え、冷たい麦茶を入れてくれた。家の中は片付いており、私が住んでいた頃と比べて随分広く見える。それもそのはずだった。家具類のいくつかがなくなっていた。

「清瀬、ってことは、……まさか隆くん?」

 名前を出されて驚いた。頷くと、高石は複雑な表情を向けてきた。軽蔑と驚嘆と怒りと諦念を掻き回したような顔だった。

「……あんたら二人何処で何をやっててん」

 酷く重い声で高石は問う。背筋に汗が流れるのを感じながら、遠くに二人で逃げた、とだけ口に出せば、深く長い溜息を吐かれた。

 高石はゆっくりと養父母について話し始めた。自分は養父母の友人であり、以前は遠くに住んでいたが、子供が成人してから離婚しこの辺りに戻ってきた。養父母には戻ると連絡をし、会えることを楽しみにしていたが、結局会えなかった。二人は私と加奈子が行方を眩ませてから、この家の中で心中した。

「今この家の管理は地元の不動産がしとる。そこの所長が知り合いやから、無理に頼み込んでたまに入らせてもろてんねん。会われへんままお別れやったんやで、せめて気が済むまで悼みたいと思うやろ」

「……それは、わかります」

「ほんまにわかってる? もう一人、加奈子ちゃんはどないしとるん。なんで今更戻ってきたんよ」

 高石の厳しい声が全身に刺さった。それでもどうにか頷き、鞄を弄って、彼女の前に加奈子の骨壷を差し出した。

「……加奈子は、姉は、去年の冬に亡くなりました。自殺でした」

 殺風景になった実家の中に、しんとした空気が流れる。レースカーテンがふわりとそよいだ。窓が開け放たれていたことに今更気付く。

「高石さん」

 絶句している姿に声をかけると、何を言うべきかわからない、という目を向けられた。情のある人だと思う。あの人とは大違いだ、でも。

「聞きたいことが、いくつかあるんです」

 高石は渋るように唸りながらも首を縦に揺らした。お礼を言ってから、養父母についての質問を、答えられる範囲で答えてもらった。

 その代わりに、私も答えられる範囲で高石の質問に答えた。時折怒られたが、罵倒ではなく諭すような口ぶりだった。自分にも息子がいるから、と言いつつ残念そうに首を振られ、胸の奥が引き攣った。

 話が終わった頃、辺りは夕暮れだった。施錠するという高石に従って退室し、数歩進んでからふっと実家を振り返り見た。夕陽がちょうど建物の背後に沈んでいる。輪郭を橙に染めた家屋はどこか神々しく、はるか遠い事象のようだった。

 高石と別れて歩き出し、じわじわ暮れて行く故郷を這った。鞄の中の骨壷から、時折骨の転がる音がする。家のない開けた場所に出れば夕陽がよく見えた。山間に溶ける鮮やかな色をまったく綺麗だと思えなかった。見事に心が動かない。どの時点で置き去りにしてきたのかもわからず、脳が痺れたようにぼんやりしていた。けれど夕陽の赤はひとつだけ言葉を連想させた。

「……朝陽さん」

 スマートフォンを取り出すが、彼の連絡先は知らなかった。当然あちらもそうだ。そして何故あの人に連絡しなければいけないのか。大嫌いな男に。情の欠けた不能の人に。

 ふらふらと数歩進んで、道の端に座り込む。ぼうっとしたままスマホを持って、いくつかの操作をしてから発信した。夕陽が沈むのは早い。知覚できないスピードで辺りは暗くなっていく。

『はい、第一中学です』

 唐突に繋がり思わず肩が跳ねた。あの、と短い前置きを時間稼ぎのために置いてから、

「……第二小学校の養護教諭をしている清瀬と申します。朝陽先生は、おられますか」

 慎重に問い掛けた。

 数秒の間が空いて、何の言葉もなく保留になる。流れるグリーンスリーブスを聞きながら夕陽が沈みきった方向を眺めていると、不意に音楽が途切れた。

『何してんだよ何の用だ、職場にかけてくるんじゃねえよ俺が出なかったらどうすんだ、どう説明させる気だよ。用があるなら直接部屋に来い長髪野郎』

 長髪野郎は罵倒なのだろうか。朝陽は向こう側で舌打ちをする。子機に切り替えたらしく、先ほどよりも電波が良くない。

「すみません、連絡先を知らなくて」

『そりゃそうだろう俺も知らない。で、何の用だよ。さっさと用件を話せ』

「多分、断るやろうけど」

『なんだ』

「迎えに来てください」

 は? と大きな声で聞き返される。

「迎えに来いってゆうてるんです。来てください。住所も言います、新幹線を乗り継いで三時間、鈍行に乗って終点まで行ってから乗り換え」

『待て、あんたどこにいる』

「実家付近です」

 朝陽は聞こえよがしに溜息を吐いた。ライターを擦る音が響き、喫煙所に逃げたのか、とあちらの様子を想像する。

『勝手に帰って来ればいいだろ、なんで俺が行く必要があるんだ。親と和解できなかったのか?』

「そうですね、死んでました。心中らしいですがそれ以上の詳細は聞けんかったからわからん」

『…………めんっどくせえ…………』

「俺もそう思うわ、朝陽さん。俺どうしたらええと思いますか」

 俺に聞くな、と鋭く言い放ったあと、朝陽は考えるような間を置いた。

『あんた、友達いないのか』

「いません。加奈子がいればよかったので」

『……で、ギリギリ頼るのが、愛する女を殺した男、ってか』

「まさか。殺したのは俺ですよ」

『ああもう埒があかねえ、住所言え!』

 住所と最寄の駅名を伝えると挨拶もなしに切れた。しばらくは終話の電子音を聞いていたが、どちらにせよ道の端に座り込んでいても仕方がない。

 立ち上がると足が痺れていた。よろけつつ踏み出して、がしがしと後頭部を掻く。乱れたのでゴムをとり、髪をひとつにまとめ直した。きつく。解けないように。

「なんで伸ばしたんやったかな……」

 ぼやくように呟きながら夜になった道を歩いた。小学生の頃の記憶が緩やかに浮かび上がる。ねえ隆。久々に加奈子の声が頭に響いた。どうして髪の毛切らないの、さっぱりしてるほうが私は好きなんだけど。なんでやろう、わからん。私が切ってあげようか。このままでええよ、夏場はまとめるほうが涼しいんや。ふーん、あっそう。ごめん、切って欲しなったら言うから。うん、いいよ、でも男で長いと変な目で見られるでしょう、女の子ならふつうだけど。そうやけど、それでええ。どうして?

「……どっちにしろ、お前が不能にしたんやから、一緒や……」

 加奈子には言わなかった、恐らくずっと押し殺していた言葉は自然に漏れた。

 夜は深まっていく。朝陽は来るのだろうか。来なくてもいいが、私はもう疲れた。加奈子の真実はわからず、養父母に謝罪もできず、高石は教えてくれた。

 養父母は私を養子にとることを、懇意にしていた高石によく相談した。引き取ったあとも、本当に可愛くて、と喜んでいた。加奈子の出産により養母は子供の産めない体になった、けれど男の子も授かりたかった、だから養子をとった。加奈子の兄弟を作るためにも、自分達のためにも。

 駅前のベンチに座り、無為に夜空を眺めて過ごした。一時間に電車が一本ずつやってきて、一人二人吐き出してから、進行方向を変えて遠ざかる。そのうち終電が来て、ただでさえ人の気配のない駅構内は殊更静かになった。朝陽はいない。当然だった。

 私はぼんやりと座り続けた。そのうちに転がって、目を閉じた。覚醒と昏睡を繰り返していると頬に雫が当たった。

 瞼を開いて仰向けになる。夜空はいつのまにか分厚い雲に覆われていた。放射状の雨がゆっくりと降り落ちる。ゆっくりに見えた。時間が私を置き去りにしているような感覚だった。雨ざらしになりながらまた目を閉じた。なにもかもに疲れた。もういい。

 多分また眠っていた。不意に鈍い衝撃が走り、体全体が地面にぶつかった。腕をついて体を起こそうとした瞬間、背中を強く踏み付けられた。

 首だけを動かしてどうにか振り向く。いつの間にか空は白み始めていた。雨はもうやんでおり、名残だけが気配としてあった。

 背中から足が退いた。起き上がりその場に胡坐をかくと、乱れた髪からいくつか雫が落ちた。寒い。呟くと、鼻で笑われた。

「知るか、ブチ殺すぞ」

 朝陽は私の胸倉を掴んで引き摺り始めた。ロータリーに停まっている車の後部座席へと雑に放り込まれ、体勢を整える間もなくエンジンがかかる。

 朝陽さん。死にそうな声が出て驚いた。朝陽は煙草に火を着けてから、面倒そうに振り返った。

「朝日が見たいです……」

 伝えると目の前に腕が翳された。中指だけがぴんと立っている。

「そのうち出てくるだろ、行くぞ。レンタカーの料金はあとで寄越せ。高速代も。走りっぱなしで死にそうなんだ、寝るからホテル代も出せ」

 無言で頷くと、朝陽は煙草を一口吸ってから、大きな欠伸を一つ落とした。

 レンタカーは徐々に明るくなる景色の中を走り出す。

 そのうちに朝日が稜線から現われて、光の筋が辺りに伸びた。

 雨上がりの景色は綺麗で、朝陽大輝は眠そうだった。

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