番外掌編

「鍵」

 仕事が終わり家で一息ついた後、いつも通り朝陽のアパートに向かったが留守だった。朝陽の部屋だけ、窓の光が漏れていない。トントンと扉を叩いても反応はなかった。

 加奈子が死んだ冬の終わりからずっと通い続けているが、不在は初めてだ。にわかに困る。佇んだままでいれば、湿気を含んだぬるい風が吹いてきて、梅雨の匂いがした。朝陽さん。呼び掛けてみるも返事はない。

 ろくに友人もいないと思っていたのだが、いるのだろうか。情の薄さしか取り柄がなさそうな冷血男なのに。

 一応、再び扉を叩く。居留守の可能性もあると思ったのだ。私の訪問に嫌気が差しているだろうし、いないふりくらい、そろそろしてもおかしくはない。そのうち勝手に引っ越す可能性だってある。逃げたところで逃さないし、どんな手を使っても追い掛けるつもりだが、何か手を打っておいた方がいいだろうか。弱味などを握れないだろうか。しかし朝陽の弱味となれば、やはり加奈子の自殺を止められなかった事実が最たるものか。

 思案している間、ずっと扉を叩き続けていた。無意識だったが、後ろから肩を掴まれてはっとした。

 振り向いた先に立っていたのは、怪訝そうな顔をした妙齢の女性だった。

「何をなさってるんですか? ノックがうるさいって、苦情が来たんですけれど」

「あ……すみません」

 扉に当てていた手を下ろし、向き直る。女性は腕組みをし、じろじろと私の全身を眺め回した。アパートの管理人らしいとは、気がついた。

 女性は私の背後をちらりと覗ってから、再びこちらを見た。

「ここは朝陽さんのお部屋だけれど、お知り合いですか?」

 どうするか、頭では悩んだが私の顔は勝手に笑みを浮かべた。

「ええ、そうです。清瀬と申します。……先日、朝陽さんの身の回りでご不幸があったこと、ご存知ですか? 落ち込まれているようなので、心配しているんです。なのでこうやって顔を見に来るのですが、今日は不在みたいで、少し不安になりまして……つい何度も呼び掛けてしまいました、申し訳ありません」

 最後に深く頭を下げると、慌てた様子で上げさせられた。私の話を聞いているうちに、訝しげな態度は軟化したらしい。

 これならばと、朝陽の所在を知っているか聞いてみた。残念ながら首は振られたが、彼女はふと思い付いた顔をして、視線をアパートの外へと向けた。

「ちょっと、待っててくださいね」

 そう言い残し、彼女は足早に去っていった。管理人故か、近くの一軒家が住まいのようだ。塀を曲がると姿は追えなくなったが、車の走行音のあとに、扉の開閉音が響いた。

 どちらにせよ朝陽がいなくては目的が果たせないため、一先ずその場で戻りを待った。やがてばたばたと足音が聞こえ、女性は息を切らし気味に私のところへ小走りでやってきた。

 彼女は手に、鍵の束を持っていた。

「清瀬さんを勝手に中に入れることはできないけど、確かにご不幸の話は聞いていますし、様子だけ確認しますね」

 助かります、と反射で答えた。彼女は微笑み、鍵の番号を確認してから、慎重な動きで解錠した。ノブを回す前には、朝陽さーん、と大きな声で呼び掛けていた。

 朝陽は本当に不在だった。ほっとした顔で扉を締め直した彼女にお礼を伝えると、万が一がなくてよかった、と気遣いを兼ねた明るい笑顔で返された。

 私がお礼を言いたかったのは、そこではなかった。

 真意に気付かないままの彼女とは、その場で一旦、別れた。


 翌日の夜、朝陽はアパートの中にいた。呼び鈴を押すと、空いてる、とぶっきらぼうな返事があった。不用心なのか自暴自棄なのか諦めているのか、踏み入った先にいた朝陽大輝はどれともつかない顔で煙草を吸っていた。

 仕事をしているらしく、開いたパソコンが無愛想な食卓に乗っていた。畳んだ布団の傍にはアタッシュケースが無造作に転がっている。出張か何か、仕事で外泊していたようだった。

 食材を入れた鞄を調理台に置いていると、

「おい、あんた」

 不機嫌を隠そうともしない声で呼んできた。

「何でしょう」

「管理人に聞いた。不在の時もあるんだ、周りに手間かけさせんなよ」

「ああ、すみません」

 舌打ちが聞こえる。振り向くと、煙草を吸う横顔が見えた。機嫌の悪い顔をしているのかと思ったが、何を考えているかわからない無表情だった。

 作った料理は捨てられた。いつものことで、特に気にはしなかった。

 煙草を取り出し灰皿のある机まで移動する。朝陽は最後の一口を吸ってからコンビニ弁当を出し、煙草を捨てつつ横目を送ってきた。目の中の冷たい光が、同じ銘柄の煙草を見ている。

「メシ食う奴の隣で煙草吸うなよ、馬鹿だろ」

「煙草を吸うた直後に食事をしても味がわからんでしょう。同じことですよ、朝陽さん」

 朝陽が何かを言う前に火を着ける。舌打ちを寄越されたが、構わない。どうでもよさそうに視線を外した朝陽大輝は、味わう気がなさそうにコンビニ弁当を食べ始める。

 煙草を吸い終わってから、朝陽の部屋を出た。明日もまた来ます。私の言葉に彼は何も言わなかったし、こちらを見もしなかった。

 アパートから遠ざかり、管理人である女性の家を訪ねた。夜分に申し訳ないと謝ってから、朝陽がちゃんといたこと、手間をかけさせてしまったこと、やはり疲れた様子でいて心配だったこと、どうすればいいか悩んでいることを、順番に話した。

 管理人は真剣に話を聞き、朝陽は愛想も良くてしっかりしている印象だけど、そう言う人ほどメンタルが弱いとも言うしねえ、と眉を下げながら言った。ちょっと、いやかなり、驚いた。顔に出さないようには気を付けた。

 私の知る朝陽と、加奈子の知る朝陽と、管理人の知る朝陽は、全員別人に思える。人間はそう言うものだと言われれば反論はしないが、それにしても。

 ……いや、今はどうでもいい話だ。三和土に視線を落とし、上り框の手前で正座している管理人へとゆっくり移す。心配そうな顔で私を見上げていた。不意に故郷に残してきた母親の姿が過ぎって、思わず首を振った。

「大丈夫ですか……?」

 立ち上がりかけた彼女を制し、

「私も少し、疲れているみたいです……すみませんでした」

 そう言って頭を下げ、踵を返す。管理人は結局立ち上がり、外まで見送りに出て来てくれた。私の話は朝陽にしないで欲しいと頼めば頷いてくれたので、ひとまずは信用した。

 梅雨に向かう空気の中を、住処に向かってゆっくり歩いた。溢れた横髪を後ろへ払い、大丈夫、大丈夫や、何でもできる、何でもできるしいつでも加奈子のところに行けると、呟きながら夜を進んだ。


 管理人は約束通り、朝陽に私の話をしなかった。朝陽は出張などはないようで、あれからはいつも部屋にいた。朝陽は加奈子の話を何度もした、話せと私が何度も言った。他人の思い出の中でも加奈子は綺麗だった。私の知っている清瀬加奈子と朝陽の知っている清瀬加奈子に断絶ほどの違いはなく、大嫌いな相手の口から語られているとしても、存在を感じられて嬉しくなった。

 同時に途方もなく寂しくなった。どちらも押し殺しながら、朝陽に向けて微笑んだ。貴方は徹底的に情が欠けていますよ。私の言葉を朝陽は嘲笑し、作った料理は流しへと捨てられる。


 そんな日々を続けてから、夏が終わる前に再び管理人の家を訪ねた。休日の昼間だったが、在宅していた。私の姿を見ると、朝陽の様子はどうだと心配そうに聞いてきた。朝陽の部屋を訪ねる私の姿を何度か見ていたらしく、友人だとすっかり勘違いしてくれたようだった。

 いつも通りです、と私は答えた。かなり元気になってきたみたいです。もう、大丈夫だと思います。以前は本当にお世話になりました。

 そう話してから、あ、と思いついたような声をわざと出した。

「すみません、朝陽さんから頼まれて来たんです。出先で鍵をなくしてしまったらしくて……すぐに返しにきますので、スペアを貸していただけませんか?」

 当然嘘だったが、管理人は疑いもしなかった。快く私に鍵を渡し、すぐに仕上げてくれる合鍵屋の場所まで教えてくれた。

 何度も礼を伝え、管理人の家を出た。合鍵は日中には手に入り、スペアは怪しまれないうちにと、夜に返しに行った。その足で朝陽のアパートを訪れた。煙った部屋の中で煙草を燻らせている朝陽大輝は、何も知らないまま私に向かって、もう来るなよと抑揚のない冷たい声で言った。

 無言のまま笑みを返した。ポケットの中には、作ったばかりの鍵がある。握り込むと先端が食い込んで少しだけ痛い。私の家の鍵と擦れた、鈍い音が振動ごと伝わってくる。それは私達の間にある歪な空気が、更に澱んでいく音に思えた。

 朝陽は煙草に火を着けて、私はいつも通りに料理を作り始めて、加奈子は灰となり私の料理に溶け込んでいる。

 合鍵くらい簡単に作れるやないですか。私がそう告げ、朝陽の本性である暴力的な発散を受け始めるのは、まだもう少し先だ。

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