私、大輝くんとの子供なら欲しいよ。

 コンドームの口を縛ってゴミ箱に放り投げる俺に向かって加奈子は高い確率でそう言った。甘い声で腕なんか絡めながら、責任とれなんて言わないよ、と無責任に誘って来た。どう返していたかはあまり覚えていない。適当に宥めて、まあそのうちなー、なんて言いながら目尻にキスして、シャワー浴びてきなよ、とか優しく声をかけていたような気がする。

 清瀬隆はそこで頷いた。

「貴方は加奈子を大切にしている、という風を装って面倒になったら切り捨てて逃げ出してしまおうって腹やったわけですね」

 にこり、と穏やかに微笑まれる。無言で机の脚を蹴れば益々嬉しそうにされた。最悪だった。こいつは恐らく悪魔か鬼かじゃなければ神なのだ。およそ破滅を目的にした、邪神なのだ。

 もう夏だった。加奈子が死んだのは冬で、こいつが入り浸り続けて冬の最後と春すべてはすぐ消えた。じっとりと蒸し暑い俺のアパートの中、清瀬は縛っていない長髪を時折鬱陶しそうに手の甲で払う。

「縛れ。もしくは坊主にでもしちまえば」

「切りませんよ。髪には神が宿りますので」

 ほらみろ邪神じゃねえか、くそったれ。思い切り声に出して詰ったが清瀬は笑みを崩さない。

 こんなことはやめたいしもう来るなと清瀬が現われるたびに玄関先で吐き捨てる。それでも撥ね付けきれないのは俺がろくでなしだからだ。加奈子という亡霊にとりつかれて通い続ける清瀬隆という男が、いつ音を上げて忽然と姿を消すのか、その日の開放感はどのくらいなのか、そういったものを求めた上で受け入れている体を装って静かに笑っているこの男に加奈子と交わした睦言なんかを聞かせ続けているのだ。

 清瀬は立ち上がり、食事作りますよ、と抑揚もなく義務的にいう。清瀬の作る食事を俺は一度も食べたことがない。目の前で捨てる。そのあとカップ麺を食べる。清瀬は俺の前で食事はしない、痩せてもいかない。帰宅してから食っているのだろうがどうでもいい。

 つまるところ今こいつは俺のサンドバッグなのだ。どれだけ鬼畜な対応をしても懲りずにやってくる、いいゴミ箱になっている。


 最近機嫌いいですね、と職場の後輩に聞かれ、まあなーと、濁しつつも否定しなければ、ほっとしたような息を吐かれた。そんな行動をされた意味がわからず、なんだよと頭を小突きながら聞き返したところ、

「いやだって、大輝さんはほら、あの、彼女さんが、その……死ぬところ……」

 しどろもどろになりながら言って、すみません! と頭を下げてきた。そうだった、と俺も思った。加奈子が目の前で飛び降りたのは冬の話で、下手をすれば俺の傷は癒えていないはずだった。適当に笑って誤魔化したが背中には嫌な汗が滲んでいた。


「それはそうでしょう、朝陽さん。貴方は冷たい人ですから」

 夜にやってきた清瀬に後輩との話をすると、さらりとした声で無味無臭に言ってのけた。

「冷たい? 加奈子の評価は、優しい人だったんじゃねえのかよ」

「それは加奈子の評価です。……ほんまにわからんのか? 貴方には、徹底的に情が欠けていますよ」

「はっ、馬鹿なのか? 毎日毎日嫌がらせに来てるような人間の言うことじゃないだろうが」

 清瀬の作った和風パスタは暖かそうな湯気を吐いているが、嘲笑しつつ流しに捨てる。

「じゃああんたが愛してやまない駆け落ち同然に結婚した加奈子って女は、相当見る目がない女だったんだろ。不倫相手は徹底的に情が欠けてて、結婚相手は嫌がらせに来るのだけが生き甲斐なんだから」

 そうですね。清瀬は冷静な声で言ってから煙草に火を着けた。煙の匂いを嗅ぐと自分も吸いたくなり、流しの前に立ったまま煙草を咥えた。

 灰を和風パスタだった生ごみの上に落とす。きのこが何種類か使われている、そこそこ美味いんだろうな、という雰囲気の生ゴミだ。食材は勝手に持ってくるのでどのくらいの金をかけて俺に嫌がらせをしているのかはわからない。暇だなこいつ、と毎回思う。

 パスタ麺の中に煙草の先を突っ込み火を消した。振り返ると、清瀬がいつの間にか背後に立っていた。俺はそれなりに背が高いほうだったが、こいつも似たようなもので、目線の高さがほぼ同じだった。空いた穴のような黒目が俺をじっと見つめている。

 退け、と言いながら胸元を押す。よろけた清瀬の横をすり抜けて冷蔵庫に向かい、買っておいたコンビニ弁当を取り出すと、目の端にのそりと動く長髪が見切れた。流しの生ゴミパスタを片付け始めた背中を一瞥すれば、気付いたようなタイミングで口を開いた。

「加奈子の話に出てくる朝陽大輝という人は、ずいぶん魅力的でした」

 コンビニの袋に無残なパスタが放り込まれる。

「朝陽が大きく輝く。いい名前ですね。加奈子は貴方になにか、煌きのようなものを感じ取っていたみたいです。生命力と言えばええんやろうか……この人の子供やったら、逞しくてええ子に育つに違いない、加奈子はそう思ってしまったみたいですね」

 清瀬の無骨な手がぎゅっと袋の口を縛る。そして振り向き、いつものように笑みを浮かべる。

「俺には加奈子の気持ちはわからん。貴方はクズですよ朝陽さん」

 流石にいらつき、無意識に舌打ちが出る。カスにクズ呼ばわりされる謂れはない。

「鏡見てから発言しろよ、そもそも不倫だったってことは知らなかったんだし、その点では完璧に潔白だろ。俺はあんたら夫婦のほうがイカれてると思う、いくらあんたが不能だからって見ず知らずの他人の種で子供を作ろうって発想になるか? ならねえよ。それで万が一子供ができてたら、あんたちゃんと育てられたか? 無理だろ、それで幸せだって笑えるのは加奈子だけだろうがどう考えても」

「加奈子が満足なら俺はそれでよかったですよ」

 清瀬は淡々と、しかし芯を持って言い放った。

 こいつの異常性は加奈子のみへの重い執着だ、わかってはいたが改めて目の前に現されると虫唾が走る。

 そこまで人間に入れ込める感情というものが、俺はまったくわからない。もう加奈子はいない。確かに美人で、肉体も悪くなかったし、ちょうどよく付き合える性格で好ましかったが、そんな人間は探せば他にいるだろう。こいつだってさっさと振り切って他に進めばいいのにいつまでもいつまでも。

 また来ます。清瀬は手を洗ってから部屋を出て行った。帰り道で事故にあって死ね。後ろ姿に声をかけると、そうなるといいんですけどね、と感情のない声が返ってきた。



 濁った夏が終わり秋に差し掛かった。変わらず来ていた清瀬は薄手のジャケットを羽織るようになり、作る料理のレパートリーが無駄に増えていた。

 季節が三つ目になったのだからいい加減話すこともないし、料理を捨てるのも飽きていたし、黙って引っ越してやろうかなとも思い始めたが、清瀬は知ってか知らずか引越し先なんて探偵でも使えばすぐにわかりますので、と薄く笑いながら言ってくる。それなりに整った男前の癖に髪は切らないし笑みは不気味だしそもそも懲りずに訪れるところがあまりにも嫌いだ。そのまま口に出して伝える。清瀬はふふ、と含むような笑い声を滲ませる。

「気が合いますね。俺も貴方のことが大嫌いなんですよ、朝陽さん」

 その日清瀬は豚肉のしょうが焼きを作った。当然生ごみになって、いらついていた俺は清瀬の長い髪を引っ掴み、人の家にごみ増やすくらいなら自分で処理して帰るようにしろよ、大嫌いな奴のために作る飯に毒やら洗剤やら怪しいもん入れてないって保障はねえだろうが、豚メシがしょうが焼きって大層上等だよなあさっさと食えよ不能野郎、そう立て続けに罵倒してゴミ袋に頭ごと押し込んでやった。清瀬はもがいたけど食ったらしい。うえ、とか、げほっ、とか、えずきながら煙草の灰やら昨日や一昨日の生ごみやらあらゆる不要物にまみれた今日の料理を飲み込んで、髪を離して解放してやった瞬間、口を抑えてよろけながらトイレの方向に歩いていった。

 ここまですればもう来ないだろうと思った。清瀬は吐いたあと無言で鞄を持ち、足早に部屋を出て行った。せいせいすると満足し、気持ちよく眠って仕事に行って、スーパーの弁当をぶらさげて帰宅すると既に灯りがついていて背筋はひゅっと寒くなった。

「……合鍵くらい簡単に作れるやないですか、おかえりなさい」

 清瀬は台所前で煙草を吸いながら立っていた。なんでいるんだよ。マジで気持ちわりいよ。半ば呆然としつつ詰れば、煙を吐き出し嬉しそうな笑みを向けてきた。途端に怖気が走り、衝動ごと仕事用の鞄を投げ付けた。

 腕で顔を庇うような体勢になった清瀬に歩み寄り、衝動のまま下腹部を蹴り付ける。流産キックという言葉を思い出す、多分掲示板かなにかで見た造語だ。清瀬は男だし当てはまらないが清瀬と加奈子はやはり似ているところがあって、加奈子も俺が避妊を譲らないと言えばなにかを覆い隠すようににっこりと微笑んだ。それを急に思い出して殊更気味が悪くなり腹を押さえながら蹲る清瀬の背中に向けて足を思い切り振り抜くと、鈍い音に濁った呻き声が重なった。

 別に暴力をふるいたいわけではなかった。清瀬は気味が悪いほど大人しく、黙って俺に痛めつけられていた。途中からは殆ど冷静じゃなくなっていて段々楽しくもなっていて、床に転がったままの清瀬の髪を掴んで引き摺って、成人した男なんだからこのくらいで死なねえだろ、なあおい、なんか言えよ、あんたほんとに加奈子に似てるよ、目の前で自殺してまで俺の中に残ろうとした清瀬加奈子みたいな執着が、形は違ってもあんたの内部で渦を巻いているんだろう、そう話しながら無抵抗の清瀬を部屋の真ん中に転がした。意味はなかった。白熱灯の下でぼろぼろの清瀬を見下ろしたかっただけだった。

 清瀬は口からも鼻からも血を流していた。目は薄く開いており、乱れた長髪が床や顔の上でうねって這って、散らばっていた。近くに膝をつき顔にかかる長ったらしい髪を指先で退ける。顔全体が露わになると怪我の具合も表情も目の色もすべてよくわかった。切れた唇の端から滲む血が異様に鮮やかだった。

 朝陽さん。掠れた小さな声だった。聞き取ろうと更に身を屈め、口元に耳を持っていくと、荒い呼吸のあと、空気を吸い込む音が聞こえた。

 次の瞬間に届いたのは弱々しい声ではなく、耳に噛み付かれた痛みだった。

「なっ、にしやがる!!」

 ばっと顔を離して顔を叩き付けるように殴る。清瀬は痛みに喘いだが、口元には笑みを浮かべていて、緩やかに上がった片腕は俺の服を握り締めた。

 思わず手が止まる。いつもと同じ静かで無味で無意味な笑みが、清瀬の口元に張り付いた。

「貴方は、本質的に、人として不能なんですよ、朝陽さん」

 不能。それを不能が口にする。

「……だからなんだよ、俺がひとでなしでもろくでなしでも、あんたが通い続けなきゃさっさと諦めて消えていれば、ここまで手をあげることなんかねえよ」

「ふっ、あほやな。どんな理由があっても人に手えあげとる時点でお前はクズや、っう!」

 再び顔面を拳で殴り、咳き込んで血を吐く姿を眺めてから、血のついた襟元を掴んで引いた。

 清瀬。清瀬隆。お前のすべてが心底嫌いだ。築いたテリトリーを荒らし回って何をされても笑っているお前が心底嫌いで反吐が出る、死んでしまうまで殴り続けて二度と来ないようにしてやりたい、でもそんなことをすれば俺の人生にも支障が出る。だから清瀬の言葉をひとつだけ肯定する。

 俺は、本質的に人として不能なのだ。

 血を吐いた口は当然血の味がした。うぐ、と呻いた声が自分の口内に直接響く。清瀬ははじめて抵抗した。俺の肩を両方掴んで押し返そうとしてくるが、傷が痛むのか力は弱い。下唇を加減せず噛んでやればぶつっと皮膚が断裂して、清瀬は俺の口の中に向かって叫んだ。

 腹が立つ。何もおさまらない。こいつが通い続けるせいで加奈子を思い出す、次に移れない、新しい恋人も作れない、生ごみも増える、プライベートが侵されていく。

 どうせこいつは俺のサンドバッグなのだ。口を離して髪を掴み、無理矢理半身を起こさせると、清瀬は何かを察したように唇をぎゅっと結んだ。しかし俺が膝立ちになり自分のベルトに手をかけ始めれば、ゆっくり息を吐き出して、強く目を瞑ってから見上げてきた。静かな瞳の中に、濁流のような激情が浮かんでいた。俺はそれを完全に無視した。

 清瀬は大人しく俺のモノを咥えた。時折生ごみを食べたときのようにえずき、口を離して咳き込んで、嫌悪から来たらしい涙を滲ませながら再びしゃぶった。生ぬるい舌が気持ち悪い。下手糞極まりなくてまったくそそらない、まあ男だから当然か。そう考えるがいつまでも吸われていても仕方がないので髪を掴んだ。んぐっ、とくぐもった呻き声が聞こえたが構わずに頭を押して、ああそうかこいつ不能だからしゃぶられたこともねえのかと気付いてからは、歯を立てるな唇で包んで舌先使えよと優しくアドバイスをした。大人しく従ってからはどうにかなった、揺れる長い髪だけを見ていれば女とそう変わらなかった。

 終えたあと、吐こうしたが咎めて、無理矢理に飲み込ませた。あんたの嫁が欲しかったやつだろ。そう吹き込めば、清瀬は眉間に深い皺を寄せつつも頷いて、数回にわけながら胎児未満の死骸共を飲み下していった。

 もうじき冬が来るな。一周忌はどうするんだあんた。表情をなくしている清瀬に追い討ちをかけようと話し掛ける。

 どうもしません、ここにきます。掠れて震える声がそう答えたので、俺は愉快な気分になった。……なった、が。

 笑みを絶やさず機械的だった清瀬が見せたマイナスの感情が、俺にとっての喜びだと思い至ったのだとしても、こんなものは本当は知りたくなかったし人のもんしゃぶって飲まされてもまだ来るのかよ気持ちわりいなさっさと加奈子のいる天国だか地獄だか、あの世にあんたも行っちまえばと希望込みで罵倒するしか清瀬隆の来訪を止める術が思い付かず、ある意味では相当取り返しのつかないところにいて、随分前から途方に暮れてしまっている。

 一言で言えば、最悪だ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る