木枯らしが吹き始め、独居用の安いアパートは寒さが増す。暖めても何処かから漏れていくらしく、ストーブの前に座り込むか布団を被ったままでいるかしか、ろくに暖を取る方法がない。去年はそうでもなかった。加奈子とホテルで過ごす日は多かったし、隣に体温のある生き物が転がっているだけでずいぶん暖かかった。加奈子、加奈子か。結局忘れることができないし、もうすぐ一年だというのに俺の生活にはほぼ変わりもない。鉄橋の下で熟しすぎたトマトのようにつぶれていた姿が瞼の裏に浮かんで不快だ。

 俺は本当に加奈子を愛していたのだろうか。ラブホテルのやわらかいベッドに転がりながら、愛してるという意味合いの言葉を何度も吐いた。でもあれは本心だったか? あの時は当然本心だったが今問われると即答は出来ないかもしれない。でもそれは、様々なことを知ったあとだからか。

 加奈子と過ごした蜜月を思い出すと同時に、清瀬にふるった暴力を思い出す。白い肌にじっとり滲んだ汗の艶かしさを思い出し、乱れた長髪の隙間に覗く鮮血を思い出す。肉の塊になって運行を止めさせた姿を思い出し、涙を滲ませながら精液を飲み込んだ姿を。

 そこで思案はやめた。なんの生産性もない。

 昼過ぎまでまどろんでいたが、不意に物音が響いた。仕方なく目を開ける。玄関口を見やると厚手のジャケットを着込んだ男が入ってくるところだった。合鍵は取り上げてもまた作るのでもう放ってある。俺が休みだろうが仕事だろうがお構いなしだ、暇な職業なんだろう。

 清瀬は布団に埋まったままの俺を見下ろし、

「午睡ですか」

 と一切興味がなさそうに聞いてきた。

「そう、今日は起きる予定がねえんだ。邪魔だから帰れよ」

「昼飯……もう夕飯やな。作りますよ麻婆豆腐にします」

 話が通じないのも変わりない。舌打ちをしながら布団を跳ね除け、袋を調理台に置き始める清瀬の背後に歩み寄る。麻婆ソースは家で作ってきたらしい、手が込んでいて結構だ。首だけで振り返った清瀬の目は静かで、これも変わりない。少しは変われよとイライラする、苛立ちに任せて髪を掴めば痛かったらしく僅かに眉を寄せた。静かな湖面に広がる波紋を思い出す。淡々と笑んでいることがほとんどの清瀬隆の表情に差す怒りや憤りや悲しみや哀れみを、力ずくで引き出すことしか日々の楽しみがない。こいつが通い続ける限り。

 わかってんだろ、じゃあ料理はあとにしろ。俺の要求に清瀬は一瞬何かを言おうとする。が、ゆっくりと跪き、俺のスウェットに指を引っ掛けた。はあ、と嫌そうな溜息が聞こえる。見下ろすと視線が合った。静かな瞳がすっと細くなり、冷えた視線には思わず笑いが漏れる。

 眉間に深い皺を刻んだまま、清瀬は慣れた動きでモノを咥える。じゅる、と垂れた唾液をすする音が響いた。生温い舌はコツを既に掴んでいて先端部分を緩やかに往復する。それでも嫌悪が先走るらしく決定的な刺激にはならない。愉快な気分だ、後頭部を髪ごと引っ掴んで無理矢理奥まで咥えさせれば嘔吐交じりの呻きを漏らした。

「初回しか飲めって言ってねえけど」

 射精後、口元を掌で覆っている清瀬に声をかける。首は横に揺れ、出会った頃よりも伸びた髪が遅れて肩口から滑り落ちる。

「大嫌いな人間のブツをしゃぶって、出された精液まで飲むって、どんな気分だ? 普通に気味がわりぃよ」

「っ、はあ、……最悪ですよ」

 清瀬は口元を手の甲で拭い、嘲るような笑みを寄越してくる。

「貴方はクズや、徹底的に情があらへん、人間として不能で俺は心底貴方が嫌いやと思いますよ、……でも羨ましい、これだけは」

「は?」

 スウェットを直して布団に転がる俺に向けて、いや多分俺ではなく大多数の男に向けて、清瀬は続けた。

「俺にはできんことや、種の繁栄に関してのことだけは、一生不能です」

 清瀬は持ってきた袋の中から緑茶のペットボトルを出して三口ほど飲んだ。それからは何もいわず食事を作り始めたが、出されたものは当然いつも通り口にはしない。腹が減っていると食べてもいいかと思う。しかし意地のような、恒例の儀式のような、今更手をつけるものではないなと結局食べない。

 決定的に清瀬をいたぶった秋の日以来、ことあるごとに暴力をふるった。単純に拳で殴るだけのこともあれば、今日のようにモノだけしゃぶらせる日もあって、清瀬は無言で従い或いは堪えて、冷えた眼差しのまま淡々とまた来ますと言い残した。言葉通り次の日も来て、また同じことの繰り返しだった。

 秋の間はほとんどこの流れが続いていた。代わり映えのしない最悪さが俺の狭いアパート内で繰り広げられる。清瀬は訪問をやめない。だから余計に引っ込みがつかない。口淫は徐々に上達するし、吐き気を堪えながらも精子は飲むし、いよいよどうにかなりそうで、いやもうなっているとは思うがなにがどうにかなりそうなのかわからない、しかし確実に何処かの器官は麻痺している。そうでなければ俺には罪悪感が欠如しているのだろう、清瀬隆の訪問は俺の知らなかった俺を容赦なく引きずり出してくる。

 麻婆豆腐を捨て、清瀬の存在を無視しながら数時間過ごした。そのうちにまた来ますと言い残して清瀬は部屋を出た。いつも通りの流れだった、ここまでは。

 黒い財布が落ちていた。清瀬のものだとは直ぐに察した。追い掛けよう、と一瞬思うがそんなことをしてやる義理もない。翌日の仕事終わりで交番にでもぶち込むと決め、仕事用の放り込んでからさっさと眠った。



 冬の空は薄い。きんと冷えた外気の鋭さは、どこか清瀬の静かな目に似ている。あいつは冬っぽいのかもしれない。加奈子への感情以外が死んでいるところとか。

 どうでもいいことを考えながら出勤し、通常通り業務をこなした。もう一年だ。安堵していた後輩も、加奈子が既婚者だと報せてきた同僚も、既に俺を気遣う素振りはない。加奈子が死ぬ前と変わらない平坦な平日だ。

 加奈子が死んだ直後の俺は悲劇の人のような扱いを受けた。腫れ物に触るとはこういうことかと思わせてくれたやつも何人かいる。事実として明るい顔はしなかった、潰れた人間の凄惨さをリアルタイムに見るのはそれなりのストレスだった。

 多少は塞いだはずだったが、俺の虚無に似た感情が直ぐにうやむやになったのは、間違いなく清瀬隆のせいだ。

 舌打ちが出そうになる。職場なので堪え、タイミングよく話し掛けてきた上司に笑いながら言葉を返す。飲みの誘いだった。そういえばこの一年、殆どこういった誘いがなかったのは、やはり気を使われていたということか。

 ……俺の日常が完全に戻る日はそう遠くない。

「勿論です、他にも誰か誘いましょう。俺も久し振りに楽しく飲みたいなって思ってました」

 上司は頷き、他にも何人か、主に俺が話す部類の人間に声をかけて回った。恐らく飲み代も出して貰えるだろう、オーケーの返事をする後輩の声も普段より明るい。

 伸びをしてからパソコンに向き直った。途中だった報告書作成に戻り、残業にならないよう手早く文字を打ち込んでいった。

 予定通りに飲み会は行われた。久々の酒に気分も良くなり、折角なので追い酒するかとコンビニに寄って、発泡酒をふたつ買った。

 外はすっかり暗い。闇の中で自分の白い息が浮き上がって見える。酒を飲んだせいで多少暑かった。コートの前を開け、冷えた空気を誘い込みつつゆっくり歩く。自転車と一台擦れ違った。機嫌の良い鼻歌が、同時に通りすぎていった。酒を飲むと、妙にまわりがよく見える。

 灯りが漏れる民家の傍を通り抜け、狭い路地を曲がって真っ直ぐにアパートを目指した。今日は清瀬にも優しい対応ができそうだ、まあ帰ってるかもしれねえけど。それならそれでいいが、つまみになりそうな料理があるなら食べてやっても構わない。無駄に料理スキルが上がっているのは、毎日見ているのだから知っている。

 考えつつ辿り着いたアパートの電気はついていなかった。帰ったのならそれでも問題はない。鍵を開けて中に入ると、しんとした暗闇に迎えられた。

 冷えた料理はどうなっているだろう。電気をつけて確認するが、それらしいものは見当たらなかった。冷蔵庫にもなく、捨てた気配もない。なら持って帰ったのか、どっちでもいいが。

 欠伸を噛み殺しつつ鞄をどさりと置く。その瞬間に、あ、と声が漏れた。

「あいつ、財布ないんだった」

 舌打ちをしながら鞄を引き寄せ、中から黒い財布を引っ張り出す。食事の会計は上司がしてくれたので、鞄の中身を見ることがなく、すっかり忘れていた。

 一瞬スマホを取り出しかけたが、当然連絡先を知らなかった。引き返して警察に放り込むもうかとも考えたが面倒だ。明日は探しに来るかもしれない、その時に渡せばいいだろう。

 小さな欠伸がひとつ出た。発泡酒は冷蔵庫に冷やし、シャワーを浴びてからさっさと布団に入って目を閉じた。


 次の日の夜、清瀬は来なかった。暫く待ってみたが二十三時を回っても姿が見えなかったので眠り、翌日に財布と一応書置きを残して机に置いたまま出勤したが、帰っても清瀬はいなかった。

 ついに諦めたのか、とは呑気すぎる意見だとわかっている。視線は机の上に鎮座している財布に注がれた。これがないせいで困っているのだろう、推理するまでもなく明白だ。

 ということは、これを捨て去れば、清瀬隆から解放されるか?

 数分考えてみるが、必ずしもそうではないと結論付ける。そのうちひょっこり顔を出して、財布をなくしたのでカードなどの事務処理や警察署巡りで時間がなかった、と言ってくる可能性は大いにある。ならそうやって来るまで待つか? 多分悪手だ、あいつの執着は異常だから、本当は俺の家にあったと知れば尚更俺にまとわりつくかもしれない。なら捨ててしまって、やってきた清瀬にも何も知らないという顔をするか。心情としてごめんだ、来るか来ないか不明瞭な日々に晒されるのはこの上なく面倒だ。

 最も手っ取り早いのは警察に届ける、だが、三日経っているのに加えて自宅で拾ったのだから、何処で拾ったかいつ拾ったか持ち主からの報酬は必要かという諸々の手続きの答えを考えるのが中々疲れる。適当でも構わないだろうが、何かミスをして本当は窃盗したが怖くなって届けた、というような勘違いは絶対に避けたい。

 ……仕方がない。

 深く溜息を吐いてから、清瀬の財布に手を伸ばす。中を開いてカード類を一式引きずり出し、とはいっても数は多くなかったが、一枚ずつ机の上に並べて確認する。スーパーのポイントカード、主婦かよ。何かの割引券、主婦かって。図書館カード、持ってそうだななんとなく。写真……写真?

 夫婦のツーショットかと思ったが、加奈子単体の写真だ。どこかのレストランを背景に、美しく端正に笑っている。清潔感のある美人だなと改めて感じるがもう死人だ。写真を横に置き次のカードを隣に並べる。

 運転免許証。これだ。

 住所にさっと目を通してから、左上の顔写真に視線を移す。久し振りに見た清瀬隆だ。髪が肩に若干かかる程度の長さで、今の肩を越した伸び方を思い出して年月を感じた。静かな目と淡々とした表情はこんなところでもいつも通りだ。綺麗な顔立ち、いや整った顔立ちだとは思うが、これが俺のモノをしゃぶっていると考えてみても特別そそりはしない。口があるなら誰でもいい、とも言えるかもしれない。

 記載の住所をメモに控えた。翌日急用があると上司に言えば、すんなりと通り意外だった。理由はあとでわかった。

 職場を出ながら一度溜息をついた。面倒だが、ともすると好機かもしれないと思っての判断だった。住所を特定してしまえば俺からも意趣返しが出来る。今までは清瀬が俺の生活に踏み込んできたが、今度は俺があいつのテリトリーを荒らせるわけだ。面倒さは消えないが少し楽しくもなった。

 スマホで最短ルートを検索し、何も知らない俺は、清瀬隆の家を目指して歩き始めた。



 知らない住宅街はどこか他人行儀だ。職業柄知らない場所に行くことはままあるが、いつも拒絶されているように感じる。俺が郷に入ろうともしていないせいだが、そんなことはどうでもいい。

 スマホと標識を照らし合わせながら進んできて、ある程度の位置までやってきたが清瀬という表札は中々見つからない。仕方なく、偶々玄関先から出てきた住人に声をかけた。表札には加藤とある。怪訝そうな顔で俺を見上げたが、友人である清瀬の家を探しているといえば、何かを察したように眉を下げられ、一周忌ですものねえ、としんみりした口調で呟かれた。

 お陰で思い出して肝が冷えた。清瀬隆の声が幻聴として届く。

 ……朝陽さん、貴方は徹底的に情が欠けていますよ。

 黙った俺に加藤は不思議そうにしたが、共に悼む約束をしたのだと出来るだけ神妙に述べれば信用してくれたらしく、清瀬の家は教えて貰えた。

 家の固まる一角の端に建つ、縦長の家屋だった。近くまでついてきた加藤に、都合で住人がいなくなり新品のまま建売だったものを買い取ったのが清瀬夫妻だと説明を受ける。遠くから移り住んできたとは聞いてます。そう呟けば、加藤は俺を友人だと完璧に信じたようで、勝手に情報話し始めた。

 加奈子の遺体を目にしたときの清瀬は酷い取り乱しようで、普段の淡々とした様子からはまったく想像ができなくて困惑したらしい。何故知っているのか聞けば、二人に身寄りがないからと町内会長が善意で清瀬に付き添って、病院まで足を運んだからだそうだ。

 加藤は他にも、葬儀後数日は死人のような顔色で、後を追うんじゃないかと心配だったが、今は帰りも遅いし仕事に打ち込んで忘れようとしてるのかもしれないとか、一時期途絶えていた料理の匂いがまたするようになったとか、加奈子さんは美人で隆さんは男前で、仲も良かったから本当に残念でとか、色々話してから去っていった。背中が見えなくなるまでは一応見送った。

 さて。がしがしと後頭部を掻きつつ、清瀬家をさっと見上げる。人の気配はあまりなく、西向きのベランダには何も下がっていない物干し竿が見切れている。普通の、特に何の変哲もない一軒家だ。さっさと済ませてしまおう。

 一瞬ポストを見るが、インターホンを押した。普段ならば俺の家に来ていてもおかしくない時間だ、在宅の可能性は高い。いないならいないで、財布だけポストに放り込んで帰ればいいだろう。

 しばらく待ってみるが応答はない。溜息を吐きつつ財布を取り出し、カード類を入れたかどうかだけ確かめてからポストに放り込もうとする、が。

 その瞬間に扉が勢いよく開いた。中から飛び出してきたのは当然清瀬だったが、俺の知る姿とはまったく違った。

「なんだあんた、体調でも崩してたのか?」

 ぼさぼさの髪、皺のついたシャツ、よれたジャージを指しての発言だった。死人でも見たように蒼ざめているが、不健康そうにも見える。

 呆然と見てくるので舌打ちをしつつ財布を差し出した。清瀬は財布ではなく財布を持っている俺の手首をぐっと掴み、中、と掠れた声で呟いた。やっぱり風邪でもひいていたのかと思ったが直ぐに悟った。

 清瀬の首には、紐でも巻き付けて強く縛ったような痕が、くっきりと残っていた。


 家の中は荒れていた。引きつつ中に踏み入って、リビングの奥にあったソファーに勝手に座る。手前の机にはパソコンがあり、横には本が積み上げられていた。経済学、哲学、心理学、詩集、文庫本とジャンルはばらばらだ。

 清瀬はキッチンに佇んでお茶を入れ始める。匂いで気付き、

「いらねえよ。出してもいいが、飲まない」

 そう撥ね付けるがふっと息で笑われた。

「……でしょうね」

 清瀬は落ち着きを取り戻していた。ぼさぼさだった髪もゴムでひとつにまとめられ、服も黒い無地のシャツにジーンズという出で立ちに着替えてきた。

 出されたお茶は机の上が埋まっていて置けなかった。仕方なく手で持ち、反射で飲みそうになったが止める。本を横にずらし隙間を作ってからそこに置いた。零そうがこいつの家なので構わない。

「財布、ありがとうございます。探してました、ずっと」

 ぽつぽつと喋りながら、清瀬は茶を一口啜る。

「俺の部屋に落ちてた。さっさと探しに来ればいいのに、脳に蛆でもわいてんのかよ」

「行きました。貴方は不在で、財布もなくて。しばらく待ちましたよ、せやけど帰って来んし、もし外で落としてたらと思たら帰るまでも待てんから、……朝陽さん、貴方、持って出てたんですか?」

「ああ、警察にぶちこんでやるつもりだったが、すっかり忘れてた」

「意地悪いことせんでください……」

 明らかに覇気がない。清瀬は傷むのか首を擦り、

「加奈子の写真をなくしてもうたと絶望して、思わず吊りました」

 とぼんやりしながら呟いた。

 行き違いで自殺されては俺も寝覚めが悪い。ついでに部屋もこいつも辛気臭い、張り合いがない。カーテンは締め切ってあるし財布を捜したのか荒れているし、滞在したい状態ではない。

 はあ、とわざと重たく息を吐いて、用事は済んだと立ち上がる。しかし清瀬は追い縋るように俺のジーンズを掴んだ。行くな、と切実そうに引き止められる。自分を恒常的に殴る相手に縋るのかよ、と若干呆れた。

「財布、いや加奈子の写真か。それだけのことで首まで吊るなんておかしいんじゃねえのか、あんた。まああんたがおかしいのはこの一年でよくわかってるが、それにしては常軌を逸してる。俺の知ったことじゃあないけど。財布も加奈子もあったんだからもういいだろ、ついでに俺も家を特定できたから、今度からは俺が嫌がらせに来れるってわけでもあるし……でも今日はもう行く、一人で一周忌偲んでろよ」

 そこまで言って腕を振り払おうとするが、目を見開きながら見上げてくるので一旦止まった。なんだよ。聞き返せば、いっしゅうき、と、一文字ずつ確かめるような速度で呟いた。

 清瀬は首を左右に振ってから、はっとした顔で俺のジャケットを掴んだ。すばやくポケットに手をねじ込んでスマホを抜き取っていくので、咄嗟に手を捕まえ取り戻そうとする。清瀬は身を捻りながらスマホを覗いた。かと思えば急に力をなくして、床に蹲る。動きが変則的でついていけず、丸まった背中に倒れ込む形で体勢を崩してしまった。

 蹲った清瀬は動かず、スマホは簡単に取り返せた。何を見たのかと確認し、大きく表示された日付と時間に納得する。確かに一周忌だ、俺も加藤に言われて思い出したが、今日は清瀬加奈子が俺の目の前で飛んだ日なのだ。

「……忘れてたのか、もしかして」

 動かない清瀬に声をかけると、大袈裟に肩が跳ねた。否定するように首を振るがもう明白だった。

「あー……まあ、財布なくして慌ててたんなら、仕方ないんじゃねえのか」

 面倒なことになりそうで宥める方向にシフトした。清瀬はじっと黙っているので、更に続ける。

「俺も忘れてたわけだしな、人間ってやっぱ誰でも少しは薄情なんだろ。こういうのは周りのほうが気使って覚えてるもんなんだ、今から墓でもなんでも行けばいいし、疲れてるなら明日でもいいだろ別に。じゃあ俺は帰」

 清瀬の上から退こうとした瞬間、凄い力で引っ張られた。なだれ込む形になり、どこかに頭を思い切りぶつけて重い痛みが走る。苛立って下にいる清瀬を睨み付けると、薄暗闇の中に浮かぶふたつの光が、すでに俺を見上げていた。片腕を掴まれる。何をするのか、訝る暇もなく、俺の掌は首元に誘導された。何分か前には自らを殺そうとした男が、今度は人に殺してくれとねだり始める。無言の圧で。俺になら出来るだろうと、俺しかいないのだと言わんばかりに。苛立ちが更に込み上げる、殆ど怒りになっていた。いつまで俺はこいつに振り回されるんだ、財布落としたのもわざとじゃないのか、何回も見に来ればよかっただろうが一人で空回った挙句勝手に一周忌を忘れてなんだそれは。

 もう片方の手も首に当て、上から思い切り体重をかけた。掌の下で喉仏が行き場を失い沈んでいく。馬乗りになりながら指にも力を込めると下半身が一度大きく跳ねた。でも抵抗はしない、清瀬は黙って絞められて、じっとり暗い部屋の中、口元にいつもの笑みを浮かべている。

 こいつずっと俺に殺されたかったのか。思いついた瞬間、絞める力が緩まった。

 清瀬はひゅっと息を吸い込み、何度か咳き込んだ。してくれ、と掠れた声で懇願してくる。黙らせようと下腹部に膝を入れ、加減せずに体重をかけると濁った声で叫んだ。腹を押さえる姿を尻目に立ち上がり、解けかけている髪を容赦なく鷲掴む。引っ張ってソファーに引き上げると何本か抜けた感触が伝わった。

 再度体に乗り上げ、清瀬のジーンズに指を引っ掛ける。察したらしく体を捻って逃げ出そうとしたが許さなかった。力任せにジーンズを下着ごと引き摺り下ろし、暴れる体を従わせようと何度か殴った。それでも暴れるので髪を掴みソファーに面した壁に思い切り打ち付ける。脳震盪を起こしたのかやっと大人しくなり、ずるずるとソファーに体を預けた。うう、と呻く体を自分側に引き戻す、膝立ちにさせてから足の間に膝を入れ込み割り開く。

 いやや、とうなされるような声で清瀬が呻く。黙ってろ死にたがりのカス、俺を犯罪者にしようとするんじゃねえ死ぬなら勝手に飛び降りろよ俺の知らないところで勝手に死ねよそれができねえなら死にたくなる目に遭わせてやるよ、男に掘られるって最悪だろうなどうせ俺のサンドバッグだしなあんたは。暴言を吐き続けていると、清瀬はちがう、と搾り出して、首を左右に揺らめかせる。衣服を剥げばまだ抵抗したが構わず引き戻し、大人しくなるまでと何度も殴っているうちに俺はずいぶん愉しくなっていた。

 唾液で無理矢理押し入ると千切れるような絶叫が響いた。俺もまったくよくはなく、捻じ切られるかと思うほど強く絞られ痛みが走る。半分くらいまで入れたところで背中に圧し掛かった。汗が張り付き不快になるが、伸ばした腕を前に回して体を弄った。胸元に掌を滑らせて、反応を見ながら徐々に触る位置を下へずらす。不能だろうがどこかに性感帯はあるだろう、力を抜かせないとこれ以上どうにもならない。そう判断しての行動だったが、清瀬の嫌がり方は激しくなる。うるせえよ黙ってろ、耳に噛み付きながら言えば、ほんまにちがう、と掠れて焦った声が止めてきて、手首を強い力で掴まれた。でも遅かった。俺は一瞬何が起こったのかわからなかった。

 体を離し、ソファーにぐったりと横たわる清瀬を放ってスイッチを探した。電気がつくと一瞬まぶしさに眩んだが、ソファー側へと向けていた視線はすぐにそれを捉えた。

 観念したように仰向けになった清瀬に歩み寄る。背筋の粟立ちを悟られないよう慎重に口を開くが清瀬のほうが早かった。

「不能やって、ゆうたやないですか、……朝陽さん」

 思わず息を呑んだ。清瀬は自嘲気味に笑って目を閉じ、やったのも加奈子です、と掠れた声で付け足した。

「……あんたら夫婦本当におかしいよ」

 声はからからに乾いていた。清瀬は首を横に振り、続けたいならどうぞ、と投げやりに言った。当然そんな気分ではない。

 生殖器のない男の体を前にして、俺は呆然と突っ立ったままでいた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る