後
暑い、今年の夏は異様に暑い。汗をだらだらと流しながらアスファルトの上をだらだら歩き、だらだらし過ぎてサンダルが脱げ足の裏が直接鉄板のような地面に触れてしまい慌てて片足立ちになる。息を噴き出して笑われて、てめえこの野郎、と舌打ちつきで詰ってから転がっているサンダルを履き直す。
すかっと晴れて雲もない。見わたす限り田んぼ、田んぼ、たまに畑で、奥には山。国道が走っているところもありますよ、もっとあっちまでいかなあかんけど。言いながらどう考えても森しか見えない方向を指差されて、滴り落ちた汗を手の甲で拭いながら耳を澄ませるが蝉の合唱に阻まれ車の走行音なんてわからない。暑い、蒸し暑い。四方から苔生す緑の匂いがする。
空に筋を作りながら飛ぶ飛行機を眺めていると、俺の有給を前回合わせ四日ばかり消費させてきた男に肩を叩かれた。肩辺りまで切った髪はそれでも長く、後ろできっちりと結ばれている。
「こっち。木陰にもなるし、川の程近くに出るので、こっち進みましょう」
「何分歩く?」
「さあ、三十分から一時間くらいやないですか」
既に一時間弱歩いていたので暑さも加わり一気に苛立った。前を歩く背を追い掛け、肩甲骨を拳の側面で強く叩く。
「田舎野郎」
「暴言の語彙が下がりましたね、朝陽さん」
清瀬は涼やかに笑い、下げているクーラーボックスからスポーツドリンクを取り出した。新品なので受け取って飲むと、保健室には注射器があるんですよ朝陽さんと言い出したので背中を思い切り蹴り付けた。
児童が夏休みに入り、教員の普段のタスクが多少減って休みが取りやすくなった。俺がそうだということは、当然養護教諭もそうであり、あれからまた部屋に通ってくる生活に戻った清瀬隆は髪切りましたと結んだ髪の先を見せながら言って、緩やかに口角を引き上げた。
結局まだ通うのかよ、料理は二度と作るな何入れてんだかわからねえんだし、遺骨どうした? さっさと捨てろよそれかお前が食えば。そう文句を垂れ流しながら、コンビニで買った冷麺をつるつると啜った。清瀬も俺の目の前でチキン南蛮弁当となんたらポテトとメロンパンと唐揚げおにぎりを出して横にはチョコまで置いて箸を割った。
「……俺の前で食うのはどうでもいいんだが、全部食うのか?」
「はい、あかんか?」
「あかんことはないけど、……引く」
ふふ、と笑い声を漏らしてから清瀬はすごい勢いで物を食べ始める。逆に食欲がなくなるなと思いつつ冷麺を食べ、テレビをつけて煙草を吸い、じろじろ見てくる清瀬にああもうわかったよ暑いんだから暑いことさせんじゃねえ暴食変態教師、と罵倒して机の脚を蹴ってから部屋のクーラーをつける。清瀬は手馴れた様子で布団を整え出すので余計に不愉快になってけっこう乱暴に抱くんだが、こいつもしかして、と乱れた長髪の向こうで熱い呼吸を繰り返す姿を見下ろし思い当たる。
加奈子に従い加奈子のために生きていたこの男、清瀬隆。こいつはつまり、あらゆる自由を抑え付けられたままでずっと生きてきて、急に放り出され枷が外れた今まさに、よく食うわよく寝るわよくヤリたがるわと、溜め込まれ続けた欲望がおそろしい勢いで噴き出しているのではないか。
どれだけ面倒な人生を送っていくんだこの長髪関西不気味保健医。かなり引く。
さっさとシャワーを浴びて半裸でクーラーの風に当たっていると、服も着ないままにじり寄って来た清瀬に朝陽さん、と今からわがまま言います、と思い切り顔に書いてある様子で話し掛けられる。
「俺の実家がある県に、もう一度一緒に行って欲しいんですが、有給どのくらいありますか」
俺が行く前提で話を始めるので、怒る気にもならずそのまま仰向けに倒れてしまった。
仕方なく高速を飛ばして迎えに行ってから大体こうだった。何日、とうんざりしながら聞けば指が三本立ったので、中指だけを突き出した。
木陰の道はコンクリート上を歩くよりは数段涼しかった。万が一熱中症やら体調不良で倒れても、隣を歩いているのは養護の男なのでその点だけは心配していない。的確にスポーツドリンクと麦茶を交互に出してくる。
肩に食い込む鞄の紐が痛い。あちこちで鳴く蝉がうるさい。揺れる木漏れ日がパズルのような模様を地面に落としている。石ころを蹴って、その近くに蝉の死骸が落ちているのを見つけ、流石にこれは蹴りたくないなと避ければ見ていたらしい清瀬に意外だと心外なことを言われる。
「死体蹴りしてどうする、なにするんや! とか言いながら怒る相手じゃねえと張り合いないだろ」
「……今が乱世やったらかなりの武勲を挙げたかもしれへんな、貴方は」
「乱世みてえな生活だったぞこの二年」
「良かったやないですか」
「あんた最近マジで俺のこと舐めてるな? 殺す」
ぐだぐだと無為な会話を続けながらおよそ三十分、四十分ほど歩いた。左右に木が続く狭い視界が開けていき、枝葉のない場所へ踏み出せばまず眩しくて、次に暑かったが熱ではない気配がした。息を深く吸い込む。
水の匂いがする。消毒されていない複雑な水の匂いが。
清瀬は立ち止まった俺を横目で見てから、木々が微妙に分かれて獣道になっている斜面を指差す。下に向かって続くその獣道の終着には、大小様々な石の転がる地面が見えた。すぐに察する。この先には川があるのだ。
「子供の頃によく来た?」
問い掛けながら、清瀬のあとを追う形で斜面を下る。
清瀬は頷き、
「一人で来ました。いつやろう……小学生の、はじめの頃やったかな。完全に加奈子に従属する前の話です」
冷静な声で言ってからは、口を閉じて滑るように降りていった。
河川敷に降り立つと、見事な清流が現われた。川を挟んだ向こう側に河川敷はなく、深い森がなだらかに上昇しながら山を象っている。その森の合間には錆びた赤色の鉄橋が見えた。清瀬は流れを背にして振り向き、二時間に一本しか通らないローカル線や、と説明してからクーラーボックスを大きな石の上に置いた。
ボックスを開けごそごそやっている背中に近付く。清瀬は透明のビニール袋を引き出して、俺の目の前でぷらぷら揺らした。
「加奈子です」
中には小麦粉のような薬物のような、でもよく見れば粒子の大きさにばらつきがある粉が少量入っていた。
「……骨の大部分は俺が捨てた?」
「はい。その節はありがとうございました」
清瀬は静かに言って、川の方へと歩き始める。どうするか少し迷うが一応追った。煙草を咥えて火を着けながら、袋の口をほどく姿を横目で眺めた。底を摘んでひっくり返す瞬間は背を向けて、煙を吐き出しつつ鮮やかな青空を意味なく仰いだ。
ばしゃり、と水の跳ねる音が響く。首だけを動かして様子を見る。清瀬は袋の中と手を洗ってから立ち上がり、首を傾けながら静かに笑みを浮かべた。
「俺が何を捨てたか見てましたか?」
「見てないな、興味もねえよ」
煙を思い切り吸い込み、空に向かって一気に吐く。それから川の水で鎮火し、フィルターだけを携帯灰皿に押し込んだ。
困ったような顔をする清瀬を放置し、木陰の中に座り込む。清瀬はクーラーボックスを抱えて寄ってきた。隣に座ってボックスを開き、まずはお茶を渡してくる。
「朝陽さん、小腹が空きましたね」
「……市販のやつだよな?」
「ふふふ、そうですよ、ほら」
コンビニのおにぎりを出されたので受け取った。サンドイッチも出てきたし、コンビニ弁当や菓子パンやお菓子も出てきた。卵焼き単品の真空パックもある。
俺が買出しをしたほうが良かったと思いながらもぐもぐと食べ、お茶を飲み、穏やかな川の流れを意味なく見つめた。町に向かって流れる清流は、陽の光を乱反射して輝いている。それを見ていると、わざわざこんなところまで過去を捨てにくる面倒で重くてストーカー気質で長髪で関西弁で腹の底に得体の知れないものばかり隠している最悪な男に付き添ってやったのだから、もっと褒められるべきなんじゃねえのかと思い始めた。
それを察したようなタイミングで摘んだクッキーをさっと口元に差し出された。反射で咥える。バターが効いていて美味かった。
「美味しいやろ、これだけええとこで手に入れたんです」
「ふーん。あんたの職場とか家の近く?」
「いえ、俺の家の中ですね」
思考が止まった。にやにやと笑う清瀬の顔を呆然と見つめていると、遠くで電車の音がした。
赤錆色の鉄橋を、黄緑色のローカル電車ががたんごとんと過ぎてゆく。
「……何も入れてないな?」
「はい」
「本当かよ、帰り道で苦しみ出して俺はこの河川に投げ捨てられるとかないだろうなそうなったらマジで殺すぞボケ、なににやにやしてやがんだ」
「ああそうや、お願いがあるんです」
スマホを取り出してなにやら操作を始めた姿に今度は何を言い始めるのだと苛立つが、清瀬はにこりと笑ってから、スマホの画面を見せてきた。QRコードが表示されていた。
「これ、俺の連絡先なので、登録してください」
「……、そういや知らないんだったな」
「そうですよ、朝陽さん、貴方の連絡先も教えてください。それから」
「待てよもう聞かねえ」
「友人になってほしいんですが、……いいですか?」
しばらく清瀬の顔を眺めて過ごした。こいつのことが普通に嫌いだった、面倒で迷惑ばかりかけられて面倒で面倒で、遺棄罪を八割は被せられて今はやっと人生が始まったとばかりに良く食い良く眠り良く遊んでいる、自由を手に入れた癖にまだ妻で姉だった女の恋人に付きまとう根性のあるところが本当に心底嫌いだなとうんざりする。
舌打ちを落としてからスマホを出した。連絡先を交換し、仕事関係の欄にブチ込むか知人友人の欄にブチ込むか瞬き三回分考えて、どこにも入れずにスマホの表示画面を待機に戻す。
電車が通過していった鉄橋に視線を転じる。あと二時間は何も通らないあの鉄橋は、なにかしらの事故が起きたことはあるのだろうか。
「……おい、清瀬」
話し掛けると、スマホをタップしていた清瀬が驚いたように俺を見る。
「電車が事故や故障で止まって、申し訳ございません、って誰かのかわりに謝る車掌、どんな顔してると思う」
数分無言になった。川の匂いと、蝉の声と、木々の緑が、まったく違うのに混ざり合って、夏という形で目の前にある。
でも多分どこかに欠けはある、どこかしら欠けて不能なんだと俺は俺のためにそう思う。
「……最高に面倒臭い、って顔してるんやないですか?」
しばらく考えた後に清瀬はそう言った。そうだよな、それでいいはずだったよな。同意しながら清瀬の髪をわしわしと掻き回す。
乱れて解けた髪の隙間から、嫌そうな表情が覗いていたので面白くなって笑った。静かな河川敷を突き抜ける笑い声は蝉の声より大きくて、俺達はその長髪が嫌いだ口が悪いところが嫌いだと言い合いながら、この瞬間にもどこかの世界で知らない誰かが死んでいるんだろうが当たり前だし仕方ないし終わったと思ったら始まるんだから面倒臭いと文句をつけて、清瀬宅で作られた腹が立つが味のいいクッキーを並んで食べた。
「美味いですか」
「料理スキルが上がりすぎてて引くな」
嬉しそうに笑うので癪だった。万が一骨が混じっていたら立てなくなるほど殴るけど、友人ならそのくらい我慢しろよと付け足した。
いやになるほど快晴だ。
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