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日曜の朝が来るたび、アイザックは山手にあるスプリンガム家の屋敷に向かう。
アイザックが仕事を受けてから、一年八か月と二週間めだ。間違いない。一年九か月前の終戦記念日が日曜で、この仕事はその翌々週から始まったのをはっきり覚えている。
屋敷へと続く緩やかな坂道には、灰色のブロックが敷き詰められている。アイザックには蒸気自動車の送迎付きだ。こんな長い坂を上らせるのだから、当然の福利厚生だろう。木漏れ日が金髪を照らしても、彼は外の景色にまったく興味を示さない。
「アイザック、本日もお世話になります……」
部下のモーリスは、すでに執事の衣装を着てにやついている。アイザックはつんとした態度で彼を無視した。
アイザックは屋敷の一室に入った。乳色のかつらと女物の寝間着を身につけ、顔に白い粉をめいっぱいはたくと、とても二十代の青年とは思えない姿になった。薬の匂いを漂わせた廊下はひんやりとしている。もうすぐ冬が来るからだ。
壁に掛かった絵画には、穏やかな田園風景が少々粗っぽいタッチで描き出されている。ロックウェル邸にあった絵に似せてモーリスが描いたものだ。素人の割には上手いが、あの天才画家シューマスが描いたというのはいくらなんでも厚かましすぎやしないか。
患者は北向きの、屋敷の中で最も日当たりの悪い部屋にやって来る。アイザックはベッドに潜り込んだ。
「カタリナ」は生まれつき日光に弱く、外に出ることができなかったという。アイザックはもともと痩身だったが、この仕事のためにさらに減量した。いい加減肉でも食べないと、本物の病人になりそうだ。
執事のフォーレスト氏に扮したモーリスが、患者を連れて来た。
「いらっしゃい、シモン先生」
アイザックは少女のように細い声を出した。
これが彼の務め――モネレシア陸軍諜報部隊中尉、アイザック・ウィレムソンの仕事である。
* * *
「いつまで続けりゃいいんだ、こんな茶番を」
地を這うような声だ。シモンを帰した後、アイザックはベッドの上でかつらをむしり取りながら吐き捨てた。
「相当ご不満のようだね、アイザック」
モーリス・ビルネットが白髪のかつらと付け髭を取ると、黒々とした髪が現れた。彼はアイザックよりも十歳以上年上ではあるものの、さすがに老執事と呼ぶにはまだ若すぎる。
「俺はこんな任務のために、苦労して士官学校を出たわけじゃない」
「でも、君ほどこの任務に適任なやつはいないじゃないか? 男だと知らなきゃ口説いてるよ」
アイザックがきつく睨むと、モーリスはさも愉快そうに笑った。彼の階級はアイザックよりひとつ下の少尉だ。モネレシア軍には、上官が不敬な部下に鉄拳制裁を喰らわせる風習はない。風通しがいいのは何よりだが、ときどき、いやしょっちゅう、アイザックはこの中年の部下を殴りたくなる。
「お前に不満はないのか、モーリス?」
「ないね」モーリスは煙草に火をつけながら言った。「シモンさんのおかげでこの国は焼け野原にされずにすんだんだから、週に一回くらい付き合ったってバチは当たらないと思うよ」
モーリスの言うことは、アイザックにも理解できなくはなかった。
シモンは軍人でも医者でもなく、貿易会社の社員だった。たまたま仕事の都合でグランドンに在留していた彼の愛国心に訴え、モネレシア軍諜報部は協力を依頼――または強制――した。シモンは医者になりすまし、ロックウェル家の別荘に出入りすることになった。
とはいえ病弱な令嬢と数少ない使用人しかいない別荘の重要性は低く、大した情報が得られるとは期待されていなかった。ロックウェル中将が、娘を励まそうとしてつい軍の機密を漏らすとは予想外だったのだ。
シモンから得た情報をもとに、モネレシア軍は進水式の日を狙ってベイリンを空襲した。新型の空母は出港することなく海に沈み、ロックウェル中将をはじめとした多くのグランドン軍幹部が命を落とした。この作戦の成功が、その後の戦局を決定づけたと言っていい。
だが、父の死に深い衝撃を受けたカタリナは急に体調を崩し、後を追うように死んだ。
「……お前はいいかもしれないが、俺は女装したままシモンを相手しなきゃならないんだぞ」
軍はシモンの功績を大々的に喧伝し、英雄だと称賛した。けれども彼は心を病んでいた。モネレシアにいても、日曜になるとロックウェル邸へ行こうとするのだ。英雄の身に起こった悲劇がゴシップ誌の第一面を飾ると、国民は彼に惜しみない同情を寄せた。
散々もてはやした手前、軍はシモンを見捨てるわけにいかなかった。そこで治療の一環として、ロックウェル邸によく似た屋敷と変装が得意な諜報部員を用意し、カタリナが生きていた日曜日を何度も繰り返し再現することにしたのだ。
「君の仕事ぶりには感嘆するよ、アイザック。一服どうだい?」
アイザックは差し出された煙草を押し返した。この仕事の後はいつも吸いたくなるが、病床の少女にはふさわしくない。来週も再来週もカタリナを演じなければならないのだ。それはアイザックの、プロとしての矜持だった。モーリスも分かっていてやっている。そのうち本当に殴ってやる、とアイザックは心に誓った。
「……なあ、モーリス。この本、続きはどうなるんだ」
アイザックは『アンナと銀の象』を手に取った。
海賊に囚われた少女と旅人がどうなったのか、シモンはずっと知らないままなのだ。
「続かないよ」
モーリスは花瓶の受け皿に吸い殻を捨てた。造花の黄色いユリは、夏のまま止まったシモンの時間そのものだ。
「作者も徴兵されて、続きを書かずして戦死したそうだ。ま、子ども向けの話だからね、最後は『めでたし、めでたし』で終わるはずだったんじゃないかな」
「ふうん……」
アイザックは古ぼけた表紙に視線を落とす。
「まさか、シモンさんのために続きを考えてやろうなんて思ってないよな?」
「馬鹿言え」アイザックは鼻で笑った。「俺の任務外だ」
「なら安心したよ」
モーリスがアイザックの肩を叩いた。
「経験上忠告させてもらうが、騙す相手にあんまり深入りするべきじゃない。君も気を付けたほうがいいよ。日曜の朝が来るたびに、君だって坂を上っているんだから」
「そんなことぐらい分かっているさ」
「これは失礼」モーリスがにやにやと笑った。「エリート中尉殿には、余計なご注進だったようだね。――ところでアイザック、まだ帰らないのかい?」
「察してくれよ。お前と一緒に帰りたくないんだ」
「こりゃまた、失礼」
モーリスは高笑いを残して部屋から出て行った。
アイザックは本のページを読むともなくぱらぱらとめくった。シモンはこの物語と同じだ。終わることができずに同じところを堂々巡りしている。
カタリナが見たものと、アイザックが見ているものは同じではないだろう。シモンの穏やかな眼差し、紳士的な手つき、温かな笑顔――それらの中に、かすかによぎる罪悪感。カタリナには見えなかったものをアイザックは見ている。本職のスパイだからこそ見えてしまうのだ。
ちくしょう、とアイザックはひとり毒づいた。
「付き合ってやるさ、あんたの戦争が終わるまでな」
そして日曜の朝が来るたび、シモンは、アイザックは、山手にあるロックウェル家の屋敷に向かう。
〈了、もしくは冒頭に戻る〉
カタリナ 泡野瑤子 @yokoawano
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