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 夏の終わりの日曜、シモンはやはりロックウェル家の屋敷へと向かった。

 フォーレスト氏に迎えられ廊下を歩く。飾られている風景画は当代きっての天才画家シューマスの作だ。田園を照らす陽光が画面からこぼれだして、温かさまで伝わってきそうなほどだ。

 いつもと同じ医者としての仕事。ただそれを繰り返しているだけのはずだった。けれどもシモンは、ここに始めて来た日と同じではなくなっていた。

 シモンはカタリナに共鳴しすぎていた。聴診器を当てるときはカタリナが感じるであろうアルミのひやりとした感触を共有し、聞こえてくる心音が誰のものなのか判然としなかった。カタリナに触診するとき、シモンは自分が指先から溶けて、彼女の筋張った首筋を伝って流れ落ちそうにさえ思えた。

 ひらたく言えば恋だったのかもしれない。だとしても叶うはずのない恋であった。シモンとカタリナではあまりにも違い過ぎるのだ。年齢も身分も、何もかもが。

「今日は調子が良さそうだね」

 この台詞を言えるのが、どんなに嬉しかったか。、今日のカタリナは元気そうだった。少女は薔薇色の頬を輝かせ、シモンに尋ねられる前からうきうきと話し始めた。

「お父様が、ベイリンへお出かけになるの」

「ほう、観光旅行でもなさるのかい?」

「まさか! お仕事に決まっているわ。ええと……ほら、何と言えばいいのだったかしら。新しいお船を、初めてお水に浮かべるの」

「進水式、のことかな」

 そうそう、とカタリナは頷いた。

「その後、わたくしに会いに来てくださるそうよ! お土産は何がいいかっておっしゃるから、舶来物のお人形をお願いしたわ!」

「ベイリンは大きな港町だから、きっと素敵なお人形がたくさんあるだろうね」

 カルテを書いているふりをして、その実シモンは話の内容を詳細にメモしている。いまカタリナの話を聞く彼は、医者でも彼女の友人でもなかった。

 カタリナの父親――ロックウェル空軍中将は、来月ベイリンへ行く。空軍幹部がわざわざ出向く進水式とは――「新しいお船」とは、何のことだろう。

「ものすごく大きなお船で、たくさん飛行機を載せられるんですって。『空港が海に浮かぶようなものだよ』とお父様はおっしゃっていたわ」

 シモンは密かに眉根を寄せた。

 グランドン軍が新型の巨大戦艦を建造しているらしいという噂は、シモンも聞いたことがある。しかしこんなにも早く実用化されるとは。

 新造艦には爆撃機が満載されるだろう。シモンは、グランドンの爆撃機がうなりを上げて滑走路から飛び立つ光景を想像して身震いした。街角で石畳を糞まみれにする迷惑なムクドリたちのように、群れてモネレシアの美しい国土へ次々に爆弾を落としていくのだ。

「どうなさったの、先生? お顔が白いわ。お加減がよろしくないの?」

「きみに体調を心配されるとはね」

 シモンは微笑を作って否定し、今日の診察はここまでと屋敷を辞去した。見送るフォーレスト氏の視界から姿を隠した瞬間、シモンは激しい眩暈めまいに襲われた。

 自分の務めを果たさねばならない。

 カタリナの面前ではどうにか平静を保ったものの、坂道を下る足取りはおぼつかなかった。

 自分の務めを果たさねばならない。

 頭を振って繰り返し自分に言い聞かせるが、二、三歩進むたびに錯覚に囚われた。落ちそうだ。地面に大きな黒い穴が空いて、どこまでも落ちていく。いや、僕は務めを果たさねばならない。坂道を下りねば。穴が空く。落ちそうになる。務めを果たさねば。穴が空く。落ちそうだ。だめだ、僕には務めがある。家に帰らねば、しかし穴が。落ちる。落ちる、落ちる、だめだ帰らねば。僕の務めだ。僕は――モネレシアのスパイなのだから。

 シモンは這々の体で自宅に帰り着くと、祖国へ向けて電報を打った。

 トートート、トトート、トトー、トート、トートト、トートートー、トート、……

 短音と長音が不規則に並んだ信号で、モネレシアに迫る危機を伝える。敵国グランドン、新造艦を開発せり。規模、性能は詳細不明なれども多数の航空機を搭載可能。〇〇年×月△日、ベイリン港にて進水式の予定。

 シモンは本当の務めを果たした。突如訪れる静寂に耐えきれない。彼の両耳は、途切れることのない長音を捏造ねつぞうした。

 トー…………………………………………………………。

 ああ、足元に穴が空く。

 シモンは、落ちた。



* * *



 日曜の朝が来るたび、シモンは山手にあるロックウェル家の屋敷に向かう。

 屋敷へと続く緩やかな坂道には、灰色のブロックが敷き詰められている。ロックウェル氏は蒸気自動車を送迎に出すと申し出てくれたが、シモンは断った。遠慮ではなく、この緑豊かな坂道を歩きたいのだ。木漏れ日が先週よりも和らいでいるような気がする。夏はもうすぐ終わるのだな、とシモンは考えた。

「先生、本日もお世話になります……」

 今日も玄関のベルを鳴らすまでもなく、執事のフォーレスト氏が迎えに出ている。口ひげを蓄えた上品な老紳士だ。シモンはお決まりの挨拶を交わし、白い大きな扉の中へ招かれた。


* * *


「……それから、どうなるんだい? アンナと旅人が、海賊船に捕まった後は?」

「まだそこまでしか読んでいないの。先生も続きが気になる?」

「もちろん、気になるとも」

 カタリナは小さな手をぽんと打ち合わせた。

「それじゃあまた今度、わたくしが続きを教えてさしあげるわ!」

「楽しみにしているよ」…………。

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