手習い***

 定年退職を機に、長年の目標だったチェロを習い始めた。


 日の当たる縁側で、大きなオタマジャクシが並ぶへ音記号の五線譜を広げていると、近所に住む息子が孫を連れてやってきた。

 四歳になったかわいい盛りのやんちゃ坊主は、庭に到着するや否や、そのために設置したブランコに向かって突進していった。


「父さん、ショウタがピアノを習い始めたよ」


 息子が縁側に腰をかける。


「まだ早くないか?」


 私が尋ねると、息子は苦笑した。


「マミがね、どうしてもやらせたいって」


 嫁は育ちのいいお嬢さんで、よく息子と結婚してくれたものだと感謝している。しかし子供の教育のことになると、周りが見えなくなるきらいがある。


「幼稚園の友達にでも影響されたか?」

「それもあるし、本当は自分が習いたかったって。音楽を始めるなら早ければ早い方がいいとか言って」

「ほう」

「あっ、違うよ、定年退職してから趣味を始めた父さんは素敵だって言ってたし、それとこれは別だから」


 私の自虐的な笑みに気づいたのか、息子は慌ててフォローした。


「六十の手習いでチェロ、粋だろ?」


 念願が叶った熱意の前では、そんな嫌味など吹き飛んでいく。


「父さんがそんなに音楽好きだったなんて、知らなかったよ」

「好きだけど詳しくない。チェロの曲もロクに知らん」

「母さんのピアノがあるんだから、ピアノにすればいいのに」

「ありゃ無理だ。十本の指をバラバラに動かすなんて職人技だろう」

「だからってなんでチェロなの」

「母さんが、ピアノじゃなかったらチェロを弾きたかったって言ってたからな。大学生の頃、男のチェロの先輩の伴奏をやったことがあるんだと。素敵だったとか言って」

「え! 初耳」

「俺にもできるだろチェロなら」

「そりゃあ練習頑張ってよ。何の曲を弾くの?」

「まずは『きらきら星』!」


 私は息子にオタマジャクシを見せた。


「あははは! ショウタと同じ!」


 息子は大笑いした。


「ショーター! じーちゃんも『きらきら星』弾くって!」


 息子は、夢中になってブランコを漕いでいる孫に向かって呼びかけた。

 孫はぴょんっとブランコから飛び降り、走り寄ってくる。


「じーちゃんもぴあのれんしゅうするの?」

「チェロだよ」

「へー? ちぇろ?」


 そのやり取りを見ながら、息子はまた笑った。


「母さんがいたら、喜んだだろうね」


 縁側から、居間の奥に仏壇が見える。


「きっとそのへんから見てるだろ」


 私は空を見上げる。


「母さんのピアノ、使っていい?」


 息子も一緒に空を見上げながら、言った。


「もちろん。ショウタが弾くなら、母さんも嬉しいだろう」

「じーちゃんち、ぴあのがあるの?」


 孫が目を輝かせて、私を見上げた。

 私は、そのかわいい小さな頭を撫でる。


「あるよ。ばーちゃんが大事にしてたピアノなんだ。上手になったら、一緒に弾こうな、『きらきら星』」

「うん、ぼくがんばる!」


 ピカピカの笑顔が、太陽のように眩しい。


「父さん、今度ピアノの調律師を頼んどくから」

「ああ」


 私と息子は、仏壇の隣で佇んでいる、カバーがかかったままの古いアップライトピアノに目をやった。

 妻がその椅子に座って、微笑んでいる気がした。

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