波の慟哭
一日に二回、共に老いた愛犬と、波打ち際を散歩することにしている。
ある日の午前中、海を見ながら佇んでいる若い女性を見かけた。目を真っ赤に腫らして、ひたすらに海を眺めていた。
ひと月に一人か二人くらい、こうして佇む人がいる。珍しい光景ではない。
その女性が、夕方にも、全く同じ姿勢でまだそこに佇んでいた。
年に三人くらい、一日中海を眺めている人も見る。
珍しい光景ではあるが、全くないわけではない。
翌日の午前中、またその女性を見かけた時は、さすがに少し心配になった。
その日の夕方、まだ女性がそこにいたのを見た私は、まず愛犬のリードを離した。
人懐っこい性格で番犬にもならないが、こういうときに役に立つ。特に若い女性が好きな愛犬は、喜んでその女性へ突進していった。
女性はよろけ、小さく悲鳴を上げて尻もちをつく。
「申し訳ない、うちのバカ犬が」
私はうっかりした飼い主を装って、愛犬が女性の上半身に乗りかかっていたのを引き剥がした。
女性は呆然としながらも、いいえと首を振って体を起こした。
私は愛犬の首輪をしっかり掴み、女性の隣によっこらしょと座った。
「昨日から、海を眺めてますね」
女性は若干目を見開いて、私を見た。
「毎日ここを、犬の散歩で通るのが習慣でね、朝晩と」
戸惑いと、躊躇いと、不審と不安の中、私に対するほんのわずかな好奇心が、女性の表情によぎるのを待つ。
しばしそのまま波の音を聞いた後、私は切り出した。
「悲しい出来事でも、ありましたか」
女性はビクリと体を震わせ、目を伏せた。
「ただの、年寄りの独り言ですよ。私はね、数年前に妻を交通事故で亡くしましてね。その頃は生きるのも辛くて、よくこうして海を眺めていました。泣きたい心に、波の音が心地よくてね。涙の代わりに、波がざぶざぶと、私の気持ちを洗い流してくれた気がします」
女性は黙ったまま、海に視線を戻した。
「しばらくは街を歩くのも嫌で、海ばっかり見てましたよ」
あの日も今日も、波は変わらず、寄せては引いてをただ繰り返している。
「今では、妻が事故に遭った現場にも、歩いて行けるようになりました。だからその時が来るまで、いくらでも眺めたらいいですよ。海はみんなに平等ですから」
女性は突然、手で顔を覆った。
愛犬がペロペロとその手を舐めたが、私は無理やり引っ張って、散歩の続きを再開させた。
「明日はもう、あの人に会わないといいな」
愛犬が不満そうに私を見上げ、くうんと鳴いた。
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