悪魔の笑み

 ロクに残業代も出ないブラック企業は、毎日俺から精気を奪い取っていく。

 必死にパソコンに向かうデスク脇に、上司は平然と書類の山を築いていく。

 いや、こんな企業にしか就職できなかった、俺が悪いのだ。しっかり働いて、実家に仕送りしなくてはいけない。妹をきちんと進学させるのは、高齢の親に代わって俺の役目だ。



 束の間の休憩時間、屋上にいる間だけが、俺の唯一生き返る瞬間だ。

 スマホに、妹からのメッセージが入っていた。


『入学しました!』


 添付画像の背景には、某有名調理学校の名前が入った門の柱が見えた。


『お兄ちゃんにおいしい料理たくさん作るからね! 次はいつ帰る?』


 妹よ、兄の目を潤ませてくれるな。

 そうだな、お前は昔から家の手伝いをよくしていて、特に料理が得意だったな。兄ちゃんがしっかり働くから、お前は立派な料理人になっておくれよ。


 深いため息を吐いて、曇り空を見上げる。


「お疲れ」


 背後から声を掛けられ、俺は振り返った。

 そこにいたのは、会社随一の超やり手上司。且つ、いつも俺のデスクに書類の山を築き上げる犯人だ。

 しかし、この人のおかげで会社が成り立っていると言っても、過言ではない。

 上司はブラックの缶コーヒーを二本掲げ、悪魔の笑みを浮かべた。


「……いただきます」


 有無を言わせない圧力に負け、一本受け取る。またこれで、魂を売り渡す契約期間を延ばしてしまったことになる。


「この会社に来てどれくらいだっけ」

「丸二年ですかね」

「よく続いてるよな」

「辞めるタイミングを逃してるだけですよ」

「正直でよろしい」


 悪魔は笑った。


「彼女はいるのか」

「いつ出会えって言うんですか。自分には、缶コーヒーのブラックな契約しかありません」

「そりゃいいな。もっと魂を売り渡してくれよ」

「一本じゃちょっと」

「何と引き換えならいい?」


 悪魔は何か企んでいる。俺は身構えて、次の言葉を待った。


「今、取引先の人に、うちに来てくれって誘われててな。向こうも確かに忙しいだろうけど、この会社よりは人間らしい生活が送れると思う」

「それはつまり天国ですか。さすが、引き抜きですね?」

「もう一人、一緒に連れて行っていいなら、そっちに行くと先方に言ってあるんだ」

「いいなあ。誰ですかそれ」


 悪魔の顔は、天使に変わった。


「お前だよ」

「……!」


 雲間から、天使に後光が差す。


「もう少し耐えてくれるか。絶対なんとかするから」

「ほ、……本当ですか⁉」

「缶コーヒーくらい、いくらでも買ってやるから」

「じゃあブラックじゃなくて、甘いのにしてください」

「えっ、ごめん、気づかなかった。そういうのはノーと言ってくれよ」

「誰が言えなくさせたんですか」

「さあね」


 天使のような悪魔は、ニヤリと笑って屋上から去っていった。



 もう少し頑張れ、俺。

 本物の天使の、手料理を食べに帰れる日まで。

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