世界最悪の酔っ払い-1

 窓から差す斜陽に、橙に染まる室内。清掃や学級日誌の記入なんかをする生徒だけがまばらに残った校舎。安い青春ドラマにでも出てきそうな、どこか既視感のある景色。


 校庭からは運動部員たちの声がしている。吹奏楽部の合奏の音も。全て、壁一枚隔てた遠い場所の出来事だ。私は今、たった一人でこの世界にいる。




 そういえばあの日、この窓から差す西日に、色素の薄いあいつの髪が透けて綺麗だったっけ――。







 星宮雫が学校に来なくなって、今日で十五日が経つ。土日祝日はカウントしていない。

 つまり奴は、まるまる三週間も学校をフケていることになる。


「どう思うよ、沙織。やっぱり一発殴りに行くべきかと思うんだけど」


「つまりのんちゃんは、星宮くんのことが心配なのね?」


「どうしてそうなるの……」


 沙織と二人の帰り道。親友の鋭さにはため息一つで降伏するしかない――もっとも彼女曰く、「のんちゃんが分かりやすいのよ」とのことらしいのだが。


「だって三週間だよ? 立派な不登校だよ、これは」


「そんなに気になるならお家にでも行ってみたらいいのに。案外ケロッとしてるかもよ、星宮くんのことだから」


「そうかなぁ……」


 そうだといいんだけどなぁ──とは、言えない。


 薄々、そんな筈がないことは分かっているのだ。星宮が時折見せたあの表情、歳不相応に含蓄のある物言い、そして、別れ際に聞いた叔母の言葉。


 こんなの、何かあったに決まっている。


「別に心配とかじゃないんだよ? ただ、ほら……蹴っ飛ばす相手がいないとこっちも脚力が衰えるっていうか」


「蹴るのは確定なのね」


「そろそろあの豪快な甘党っぷりも見たいというか」


「星宮くんって将来糖尿病になってそうよね」


「顔面だけは国宝級だからそろそろ美少年を補給したいっていうか」


「のんちゃんは画面の中だけで美少年足りてるでしょ?」


「…………」


 少しの間、沙織との間に気まずい沈黙が流れる。

 私は、細く長く息を吐き出した。


「……沙織、私、行きたくないよ」


「どうして?」


「怖いから」


 手遅れだと知ってしまうのが。

 どうにもならないことってあるのだ、と分かってしまうのが。


「……そんなの、行かない方が怖いよ。のんちゃん」


 沙織が、俯いたまま言う。


「どういうこと?」


「弟。体調がおかしいことにはずっと気付いてたのに、家族みんなで先延ばしにしてたからこんなことになったの。大きな病気だったらどうしようって。でも、先延ばしにしたって何にも良くならないんだよ。一度始まっちゃった悪いことって、放っておいたら悪くしかならないの」


 実感のこもった言葉だった。だいたい、私の現実逃避みたいな言葉に付き合っていられるほど、今の沙織に余裕がある筈はない。あの時から、沙織の家は何も良くなってはいないのだ──どころか日に日に荒み方は増していて、その飛ばっちりを受けたらしい彼女の頬には大きめのガーゼが当てられている。そしてその原因の一部は、私にもある。私のエゴで、沙織にはこの現実に帰ってきてもらったのだから。


 そんな沙織の言葉を無視するわけにはいかなかった。


 どうせいつかは知らなきゃいけないことだろうし。


「……分かったよ。行ってくる」


「よく言った」


 沙織は、にっこり微笑んだ。





「まぁ私、星宮の家の場所知らないんだけどね!」


 私の決意を返せ。


 プライバシー保護が叫ばれるこのご時世だ、クラスの住所録なんてものは我が校でもとっくに廃れている。


「あいつの家を知ってそうな奴も思いつかないしな……」


 というか、よく考えたら星宮に特定の親しい友人なんていないような気がする。少なくともうちのクラスにはいない。いつも飄々とした態度でいるせいか、彼が一人でいることに違和感を抱いたことがなかった──もちろん、学校に来ないのはそんな理由ではないだろうが。


 まあ何というか。

 打つ手なし、ということだった。


「どうしたもんかねぇ……」


 一人の部屋で、呟く。

 と。


 ──見計らったかのように、携帯電話が震えた。


「……もしもし」


『もしもし天チャン! 今日も可愛い声ねぇ! 元気ぃ?』


 電話の相手は叔母だった。いつもと変わらない叔母の様子に、少しだけほっとする。


「叔母さんは元気そうだね」


『アタシは元気よぉ。今から天チャンが元気じゃなくなること言わなきゃいけないからね。代わりにアタシが天チャンの分まで元気にしておくわ』


 どういう計算だ。

 ……というか、どういうことだ?


「叔母さん」


『ああ天チャン、何も言わなくていいわよ。どうせ何のことだか薄々分かってるんでしょ』


「……、うん」


 叔母は最初から何かを知っていたようだった。だから叔母がこのタイミングで電話をかけてきたのは特に不思議なことではなかった。寧ろ遅すぎたくらいだ。


 ただ、頭ではそう分かっていても、不穏に暴れ回る心臓の音だけは誤魔化せそうになかった。


『……天チャン。落ち着いて聞いてくれる?』


「落ち着いてはいられないかも」


『じゃあ落ち着かなくてもいいわ。よく聞いてね』


「分かった。言って」


『雫チャンはこの三週間、アタシの家にいたのよ。アタシが呼んだの。……ね、アンタの親友の沙織チャンって今怪我してるでしょう。三週間くらい前にも同じようなことがなかった?』


「うん、あった……でもどうして叔母さんがそれを?」


『そんなの雫チャンに聞いたに決まってるじゃないの。とにかく……あー、どこまでアタシから喋っていいのかしら。とりあえず、そのことと雫チャンが学校に行ってないことが関係あるとだけ今は言っておくわ。それで、アタシがお節介を焼こうとして、そうね……アタシが間違ったんんだわ。アタシのせいなの』


「叔母さん?」


『来てもらった方が早いわ。詳しいことは会って話しましょう。天チャン、今からアタシの家に来られる?』


「うん、行けるよ。……ねえ、叔母さん、星宮は……」


『まだウチにいるわ。でも話をするのは厳しいかもしれないわね。アタシのせいで。じゃ、待ってるわよ』


 叔母はそう言って自嘲気味に笑うと、一方的に電話を切ってきた。


 ——事態は思ったより深刻そうだ、ということしか分からなかった。でも、今はそれで充分だ。

 一度動き始めた不幸は何もしなければ悪化しかしない――沙織の言葉に突き動かされるかのように、私は叔母の家へと向かった。

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