貴方のためのワガママを-3
先輩は長身の細身で、黒いライダースーツのようなものに身を包んでいた。どうやら少しの間髪染めを怠っていたらしい。金髪の頭頂部からは黒い地毛が生え出し、プリン状態になっていた。
この期に及んで「美味しそうだね」などと吐かす星宮の足を思い切り踏みつけ、私は彼らの行く末を見守りに入る。
「沙織……来てくれたのか」
彼の声が震える。──彼がその後に続けた言葉に、私は少しばかり驚いた。
「あんなに来るなって言ったのに」
「……うん」
それに対し沙織は、小さく頷く。
「でも違うの。あなたについて行くためにここに来たんじゃない。……あのね、きっと何も言わずに別れればずっとあなたのことを想っちゃうから──あなたと付き合ってた時間の全てを、なかったことにして欲しくて。……お別れだけ、言いに来た」
「……え?」
素っ頓狂な声を上げたのは、先輩ではなく私だった。私はてっきり、沙織は過去に戻って極道の妻になる選択をしようとしていたのだとばかり思っていたのだが……違ったのか。
だが、対して先輩は、絶望に沈んだ目をしていた。
「沙織……だとしても、ここに来ちゃいけなかった」
「え?」
「お前がこの場所に来ること自体が、組同士の抗争開始の合図だったんだよ。そしたら俺はそのままお前を連れて、どこか遠くへ逃げるつもりだった」
「……そん、な」
愕然と目を見開き、絶望に染まった表情で唇を震わせる沙織を眺めながら──星宮は、「ほらね。僕の予想通りだ」と得意げに胸を張っていた。
「過去が変わらないからって呑気すぎない? 星宮」
「だってこんな……打ち切り漫画か低視聴率ドラマじゃないんだからさ。ヤクザの抗争だなんて普通に生きてたらまず関わらないでしょ」
「そうかもしれないけど! さてはあんた、ちょっと楽しくなってきてるでしょ!」
憤慨して星宮の脛を蹴飛ばすべく持ち上げた足を──
しかし、耳に入った先輩の言葉で、振り下ろせなくなった。
「じきにお前の親友……紺野天が、抗争の人質に捕られる予定だ。その前に、紺野も連れて逃げなきゃならない」
「そ、天!?」「わ、私!?」
沙織と私の絶叫が重なる。
そうだ、自分の知らない世界、接触しない世界だとしても――それらは、確実に存在しているのだ。まして自分の親友だなんて身近な人間がそれと接触しているなら――いつ、その世界がこちらに手を伸ばしてきても、おかしくはない。沙織のことを思っているふりをして、やはり他人事だったのだ。今の私のこの震えが、それを証明している。
縋るように星宮の方を見る――彼の超然とした態度を見て、能力を止めれば過去は変わらないのだと安心したかった。
しかし彼は、先程までの全て見通したような余裕が嘘のように蒼白な顔をしていた。
「なん、で……? 僕は知らない、こんな」
「星宮……? 星宮、どうしたの、ねぇ」
「…………戻ろう、今すぐに」
「星宮?」
あんたは何を知ってるの? ──とは、聞けなかった。
──あの星宮雫の深刻な顔というのが、一番事態の深刻さを物語っているような気がした。
「でも星宮、沙織は……沙織はあれで納得いったの? 戻っても大丈夫なの?」
震える声を抑えながら、私は尋ねる。
確かにこの状況は、一刻も早く、本来あるべき現在に帰った方がいいのかもしれない。後悔なんかを優先して、もし死にでもしたら元も子もない。でも、沙織の現状を考えたら──とても、彼女の納得なしに帰るなんて本末転倒なことは出来ない。そんな矛盾した思いが、私にそんな問いかけを口走らせていた。
「そんなこと言ってる場合じゃ……」
少し黙った後、冷静さを取り戻したらしい星宮は、呆れた様子でため息をつく。
「まあでも、制限時間内に戻ればいい話だからね……時間的には、過去が変わるまでにはまだまだ余裕があるし、一応大丈夫ではあるよ。……にしても紺野さんはお人好しだね。自分の身の安全は気にならないわけ?」
「なるよ。凄く怖い。でも、このまま帰ったら意味ないし……あんたが大丈夫だって言うなら、そうなんだろうなって」
「そりゃどうも。言っておくけど、何がどうなっても僕は何も責任取れないからね」
そう言って星宮は、震える沙織の表情を眺めながら語りだした。
「紺野さん。そもそも『後悔』って何だと思う?」
「何って……文字通りじゃないの。後から悔いる、って」
「…………後悔っていうのはさ、過去を想い続ける行為なんだ。彼女……沙織さんは、現状に未練なんて一欠片もないって言ったよね。あれはたぶん、自分がなかったことにしに行く過去まで含めて未練なんかないって意味だと思うんだけど」
ここで星宮は一度、言葉を切る。
そして、真っ直ぐに沙織と先輩の方を見つめて、言った。
「例えそれがどんなものであれ、一欠片も未練がないだなんて、そんなことがある筈はないんだよ。──本当に彼との交際をなかったことにしたいのなら彼との交際が始まった時に戻ればよかったものを、今この場面に戻ってきたのが何よりの証拠だろ」
──その言い方はまるで、星宮自身が、何か、大きな後悔を知っているかのようだった。
「ねえ……星宮。あんたには、何か変えたい過去があるの? 後悔を抱えてるの?」
恐る恐る、隣に居る星宮の方を見ずに──問う。
私が踏み込んでもいい領域だったのかは分からない。所詮私たちは、彼の祖父から継いだ能力の実験台にした、させれた──ただそれだけの関係だ。長い付き合いがある訳でも、互いのことをよく知っているわけでもない。だから、そんな私が土足で踏み込んでいい領域では──たぶん、ない。
星宮は一瞬、酷く寂しそうな顔をしたように見えた。いや、それはもしかしたら、光の加減の悪戯だったのかもしれない。分からない。
ただ次の瞬間には──いつもの、陽だまりの猫のような、何も考えていなさそうな笑みを浮かべて、こちらを見ていた。
「んー、そうだな、強いて言えば紺野さんが読んでたBL十八禁本のタイトルを忘れちゃったこととかかな?」
「それは出来れば事実ごと忘れて」
上手い具合に誤魔化されたような気がするが、きっと私なんかには言えないことなのだろう──そう思い、敢えてそれ以上は言及しなかった。
結局過去を変え、何を選んだところで、後悔は形を変えてついて回るのかもしれない。解決策も最適解も元々存在しないのかもしれない。
陳腐な言い方だが、何を選んだ道にも後悔するようなことも良いこともあって、やはりその中には過去を選び直せるとしても捨て難い何かはきっとあるのだ。星宮が言った「一欠片も未練がないなんて有り得ない」と言ったのはたぶんそういうことなのだろう。
とりわけ、後悔を──過去を想い続けることを、続けるような出来事には。
「……さて。そろそろ時間だ、紺野さん。沙織さんはもう大丈夫だと思う?」
徐ろに星宮が声を発した。
「どうだろう。まあ、もう現状に未練なんてないとは言わないんじゃないかな」
「そっか。紺野さんがそう言うならそうなんだろうね。──じゃあ、能力を止めるよ。僕もこんなことはしたことがないから何が起こるか分からないけど、そう大事にはならない筈さ」
「ん。分かった」
私の返事を聞くと、星宮は小さく頷いて目を閉じた。
数瞬置いて──『崩壊』とも呼べそうな何かが、起こり始めた。
舞台のセットが崩れるように。ハリボテが壊れるように。見えている世界が壊れてゆく。地面が激しく揺れ、廃工場のパイプが厭な音を立てる。星宮や沙織の様子を窺おうと思ったが、立っているのが精一杯でそんな余裕はない。
そして、いよいよこのままこの世界が崩れて帰れなくなるのではないかと恐怖心が沸き起こる頃──初めて能力で過去に行ったあの時と同じ、白い光に包まれた。
◆
「あれ……? 先輩は? 抗争は? 私は……どうしてここに」
魂が抜けたような声が隣から聞こえてきて我に返る。
いつものファミレス、平和ボケしたようなざわめき。所狭しと並べられたスイーツ類に──
「星宮……?」
──テーブルに突っ伏したままの、星宮の姿があった。
「星宮くん……? もしかして私のせいで……?」
半泣きの沙織の声が現実を知らしめる。焦燥感と絶望感が入り交じって胸中に染みを作った。
こんなことがあっていい筈はない。いつも余裕綽々でどこか飄々としていて、何もかも見透かしたような態度で陽だまりの猫のような笑みを浮かべる星宮が。そんな──
「星宮っ……星宮っ!」
「呼んだ? って痛ぁぁぁッ!!」
何事もなかったかのように顔を上げる星宮──に対し、考えるより先に足が出た。
「今! 脛! 直撃! 折れたよ、今の絶対折れたよ!! 紺野さん聞いてる!?」
「ばか、あほ! 悪趣味! あんたなんか知らない! ばか!」
「悪口のレパートリーが小学生じゃないのさ! ちょっとびっくりさせようとしただけなのに!」
「それが悪趣味だっつってんの!」
なんて奴だ。こいつ、絶対に許さん。元よりこいつの性格の悪いのは百も承知だった、というかこいつの性格が悪かったがために、弱みを握られるという形でこいつと関わることになったのだが。
私の心配を――恐怖を、返してほしい。
「いやぁ、悪かったよ。それにしても紺野さんにあんなに心配してもらえるなんてね。嬉しいなぁ、愛されてるなぁ」
「心にもないことを……つーかさっきも言ったでしょ、あんたなんて知らないって。ばーかばーか」
ふん、とそっぽを向きながら、心の中で、乗ろうとした電車のドアが必ず目の前で閉まる呪いを星宮にかけてやった。
「あの……星宮くん。何がどうなってるか、教えてもらえると……」
置いてけぼりを喰らっていた沙織がおずおずと声を発する。
「ああ、ごめんね沙織さん。今から説明するよ。——あのね、あの時の沙織さんたちの様子って僕と紺野さんにも見えてたんだけど……紺野さんと色々話して、能力を強制終了させたんだ。だから過去も何も変わってない。先輩さんとの交際も、なかったことにはなってない」
「そうだったんですね……。ありがとう、星宮くん、それにのんちゃん。正直すごくほっとしてる」
少し恥ずかしそうに笑う沙織。
「沙織がそう思ったなら良かったよ。どうするのが沙織の納得できる形が分からなかったから、私のワガママで――私のためにこっちに帰ってきて欲しくて、星宮に能力止めてって言っちゃったから。……でも、ちょっと意外だったな。てっきり私、沙織は先輩について行くんだと思ってた」
私がそう言うと、沙織は少し困ったような顔をした。
「それなんだけどね……星宮くんから能力を聞いた時点では、私もそのつもりだったの。でもどうしてかな、ちゃんと先輩とお別れできなかったことの方が胸につかえて……あんなこと言っちゃった。弟があんな状態なのに、先輩への気持ちの整理をつけることを優先しちゃったの。極道の妻になる覚悟なんてもともとなかったのかもね。——薄情な姉ね、私。もう弟に合わせる顔がないや」
目を伏せる沙織に――かける言葉が見当たらず、黙りこくってしまう。
次に声を発したのは、意外なことに星宮だった。
「そんなことないよ、沙織さん」
「でも……」
「たかが恋愛って思うかい? 前に進もう、未来を生きようと思うなら区切りや整理をつけるのはすごく大事なことだって僕は思うよ。抱えたまま歩くには――あまりにも、大きすぎるし重すぎる。こんなもの持ったまま生きてたら沈んじゃうよ」
沙織はあくまで弟の手術代と天秤にかけた上で言っているのであって、微妙に話がずれているような気がしたが――星宮の、恋愛感情について思うところがありそうな、その言い方の方が気になって指摘できなかった。
星宮が抱えている後悔は、恋愛絡みのことなのだろうか。何か鈍いものが胸を刺す。
——何にしても、私には関係ないことだし、私には踏み込めないことなのだが。
それにしても、だ。
さっきの星宮の悪ふざけ――あの時の、冷たくて暗い、底なしの恐怖感。ヤクザの抗争に巻き込まれる未来があったと知った時とは全く別種の、もっと巨大で、心臓に真っ黒な染みを落とされたような感覚――脳も胸も、全てその恐怖に占拠される感覚。
今まで生きてきて、知ることのなかった大きさの感情だった。
やっぱり私たちは、自分に見えている範囲のものしか知らないのだ――改めてそう思い知らされる。よく「視野を広げなさい」と言われる意味が分かった気がした。視野が狭いと、その外にいる大切な人に何もしてやれないのだ。
ふと、正面に座る星宮の姿を見る。
彼は――彼には、何がどれくらい見えているのだろう。それを知りたいと思ってしまう私の気持ちを私が知らないのだから、どうしようもない。
どうやら私は、もっと視野を広げなきゃならないようだった。
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