世界最悪の酔っ払い-3




 今更両親のことを恨んじゃいないが、それでも僕の家は、あまり良い家庭環境ではなかったように思う。



 僕が小学校中学年に上がる頃、母親が勤めに出始めた。

 何でも僕を産んだときに辞めた職場から、育児が落ち着いたなら戻ってこないかと声がかかったらしい。僕は鍵っ子になって、父さんは少しだけ早く帰ってくるようになって、かといって何をするわけでもなく、母さんは些細なことで苛々するようになった。



 自分が働くようになって分かったことだが、仕事なんてのは基本的にそれだけで精一杯で、帰った後ほかに何かやろうと思ったら相当な気力が要る。それを母さんは毎朝忘れず夕飯代を置いて行って、帰ってからは掃除と洗濯を欠かすことなく、家のことをほぼ仕事を始める前と変わらずにこなしていたのだから凄いと思う。思うだけだ。


 小学生の僕は、掃除も洗濯もゴミ出しもしてくれなくていいから、ただ母さんに優しくされたかったのだ。


 最初はたぶん、早く帰るようになった割には家のことを何もしない父さんに苛立ってとか、そんな理由だったと思う。その怒りの矛先が僕に向いた理由はよく分からないが、当時は今より男尊女卑の色が強く残る時代だったし、妻である母さんは主人である父さんに対して、怒りをぶつける、という発想がそもそもなかったのかもしれない。


 とにかくそれくらいの時期から母さんは僕に対して異様に厳しくなり、理不尽に怒鳴られるようになった。穏やかだった家は針の筵みたいになって、僕は遅くまで友達と遊んでいることが増えた。それも、ある時、設定された覚えのない門限を破ったと怒鳴りつけられてからは、叶わなくなったけれど。


 父さんは相変わらず何もしなかった。たまに思い出したように、力なく「母さん、雫に当たるのはやめろよ」とか何とか言っていたけれど、母さんは聞く耳を持たなかったし、父さんもそこまで強く言う気はなさそうだった。


 僕は別に父さんを悪く思ったりはしなかった。母さんはいつも僕に責任や罪悪感を抱かせる言い方で怒鳴ったから、僕は、僕が悪いのだと本気で思っていたのだ。僕が仕事で疲れている母さんを苛々させるようなことをするからいけないのだ、と。


 僕が余計な物音を立てるから、僕がテストで満点を取れなかったから、僕が母さんに叱られて泣くから。

 友達と遊ぶ約束をしたから。

 家にいるのに勉強しないから。

 門限も、本当は設定されていたのに、僕が忘れていたのかもしれない。


 ちっともそんな覚えはないけれど、いつも母さんが言う通り僕は不出来な子供で、僕は極端に楽観的で、僕の将来はお先真っ暗らしいから。だから母さんは、そんな僕を毎日叱るのだ。そう思っていた。子供ってそういうものだ。母親が思っている以上に、母親は子供にとって「絶対」なのだ。


 母さんの叱責が暴力に変わるのに、そんなに時間はかからなかった。



 しかしそんな僕には幸運なことに、逃げ場があった。いつでも僕を暖かく迎え入れてくれて、僕を慰めてくれて、尚且つそこに行っても母さんに怒られない、そんな場所が。


 母方の祖父の家だ。


 今思えば僕に辛く当たっていたのはじっちゃんの娘なわけで、だから、罪悪感もあって僕の面倒をよく見てくれていたのかもしれない。でも当時の僕はそんなことまで考えていなかったから、じっちゃんの家は純粋に居心地が良かった。家からそう遠くもないし、じっちゃんの家からでも小学校には通える。

 そうして僕は次第に家に帰らなくなり、じっちゃんの家でばかり過ごすようになっていった。


 じっちゃんは僕に色んな話をしてくれた。だいたいが昔の話か、死んだばあちゃんの話だった。じっちゃんはばあちゃんのことが本当に大好きだったのだ。何でも駆け落ち夫婦だったらしくて、じっちゃんはよく僕に「いいかい、何があっても愛だけは貫くんだ」と言っていた。——それがこんなことになって、本当に皮肉な話だと思う。あの世でじっちゃんに合わせる顔がない。



 そんなある日、じっちゃんは僕に言った。


「雫。雫は『超能力』って信じるかい?」


 当時僕は小学生だったけれど、幽霊とか魔法とか、そういう類のものはあんまり信じていなかった。何となく同級生たちの間で、「この歳で魔法とか信じてる奴はダサい」みたいなスタンスが流行だったのだ。

 だから僕は、


「ううん、信じてないよ。ヒカガクテキだもん」


 と答えた。


「そうかい。でもね、雫、科学っていうのは現代の神様みたいなもんなんだ。そして、神様は間違うことがある。この世にある全部のことが科学で説明できるなんて、莫迦なこと思っちゃあいけないよ」


「……よくわからないや」


「はっはっは。そうかそうか。——雫、じっちゃんが一つ、秘密を教えてあげよう。じっちゃんはな、超能力が使えるんだぞ」


 そんな馬鹿な。それが正直な感想だった。


 まあ、確かに超能力者や魔法使いだって、世界中を探したら遠い国なんかに一人か二人、いるのかもしれない。でも、じっちゃんが超能力者だなんて――僕だってもう小学六年生なんだから、さすがにそんな分かりやすい嘘には騙されない。


「じっちゃん、嘘はダメだよ」


「嘘じゃないさ。正真正銘、本当の話だ。じっちゃんが雫に嘘をついたっていいことないだろう?」


「じゃスプーン曲げてみせてよ」


「曲げてもいいが……あれは超能力じゃなくて手品だからなぁ。雫にだって曲げられるさ」


 じっちゃんは困ったように頭を掻く。


 僕はといえば、この時にはもう既に、少しだけじっちゃんの話を信じかけていた。小学生だし、もともと本気で超能力や魔法を信じていないわけじゃなかったのだ。


 じっちゃんは話を続ける。


「じっちゃんの力は何も、スプーンを曲げたりする類のものじゃなんだ。いいかい雫、よく聞いておくれ。じっちゃんはな、。歴史を変えられるんだ」


「歴史を……変えられる?」


「そうだ」


 じっちゃんの真剣な眼差し。


 僕はすっかりじっちゃんの話を信じた。根拠は特になかったが、そっちの方が魅力的だったから。大好きなじっちゃんが超能力者だったなんて、何だかカッコいいし、小学生の僕はそれだけの理由で簡単に超常現象を信じることができた。


 今思えばこの時にはもう、じっちゃんは僕にこの力を相続しようと決めていたのだろう。


「ただし、好き勝手に歴史を変えられるわけじゃない。誰かが後悔していることがあったとして、その後悔のある時点にタイムスリップできるのさ。一時的にね。後悔の主はタイムスリップ先で好きに行動できる。超能力者側が力を解けば過去は変わらずに現在まで戻って来て、そのまま力を解かなければ過去が変えられるって寸法さ」


「凄いや。それじゃ、母さんがお仕事始める前まで戻してよ」


「ダメだ」


 じっちゃんは厳しい口調で言う。


「そう簡単にこの力を使っちゃならないんだよ、雫。歴史を変えるってことは、世界を歪めるってことだ。超能力者は支柱みたいなもんで、歴史を変えようとしている間、その負荷やら皺寄せやらを一手に担っているんだよ。世界を変えようとした反動で世界が壊れないための抑止力になっている、と言えばいいかね。結果歴史を変えることになろうとならなかろうと、超能力者には大きな負荷がかかるのさ」


「ふぅん。よく分からないけど、あんまり力を使わない方がいいんだね」


「まあそうだな」


 じっちゃんの力を見られないのは少しつまらなかったが、そういうことなら仕方がない。もうじっちゃんのことを疑ってはいなかったし、いつか見られればいいな、くらいに思っていた。


「ねえ、じっちゃん」


「何だい?」


「その力、自分に対して使ったらどうなるの?」


 ──僕が尋ねると、じっちゃんは目を丸くした。そうしてしばらく僕を見つめた後、目を細めて、僕の頭を執拗なくらい撫で回した。


「おまえは本当に可愛い孫だよ、雫」


「うん……? ありがとう」


 じっちゃんはニコニコしている。小学生の僕には、その意味はよく分からない。


 高校生或いはアラサーの僕には、じっちゃんの表情の意味が分かりすぎるくらいだったが。


「さっき、超能力者は世界への負荷を一手に担っていると言ったね」


「うん」


「その担い手がいなくなるに等しいわけだから、戻った先の世界は、おまえの知っている世界とは色んなことが違っているだろう。要は世界が歪んだってことだ」


「変えたくない歴史まで変わっちゃうんだ」


「そうだ。そんな歪んだ世界で人生を送り続けられるっていうのなら、そのうち完全に歴史を書き換えることができるだろうね。だが――そうだな、やり直した先でまた失敗したら、雫ならどうする?」


「うーん。力を使うのをやめて、やり直しする前に戻るよ。それか、もう一回力を使って、上手くいかなかった部分をまたやり直しする」


「そうだな。普通はそうするだろう。じっちゃんだってそうするさ」


 じっちゃんは僕を唐突に抱き上げると、向かい合うようにして膝の上に僕を乗せる。

 そして、僕の目をじっと見つめると――言った。


「それをやるとな。超能力者は、死ぬ」


 この時のじっちゃんの表情を、僕は今も覚えている。僕を怖がらせようとしたのだろう、真面目な顔を作っていたようだったが、言い知れぬ悲しさがその目には宿っていて。


 小学生だった僕は、人間のそんな表情を初めて見た。


 そして、これほどの悲しみを湛えた表情を見たのは、後にも先にもこれっきりだった。僕はじっちゃんの顔から目を離せないでいたが、じっちゃんは「さ、おやつにしようか」と台所へ行ってしまった。じっちゃんの膝から降りた後も僕はしばらく呆然としていた。




 じっちゃんが自宅で不審死を遂げたのは、その一年ほど後のことだった。

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