世界最悪の酔っ払い-4
僕──星宮雫が、中学生になる頃の話だ。
家は相変わらず荒んでいた。しかし中学校は少々立地が悪くて、今までのようにじっちゃんの家から通学するのは些か無理があった。でもその頃には、僕はすっかりじっちゃんの家に住み着くようになってしまっていて、今更あの家に帰ろうなんてとてもじゃないけど思えはしない。ストレスか何か知らないけれど、たまの帰宅をすると、それはもう嵐のように母さんが怒鳴り散らすのだ。
そんな僕を気遣ったのか、はたまた家に帰らない僕に代わって怒りの矛先が自分にも向き始めたからなのか、父さんはやっと重い腰を上げた。半ば強制的に、母さんの仕事を辞めさせたのだ。別に母さんは家計に困って仕事をしていたわけではなかったから、父さんが説得したら案外すんなり仕事を辞めたらしい。今まで父さんも母さんも悪く思ったことはなかったけれど、その時僕は初めて「そんなことならもっとさっさと辞めてくれれば良かったのに」と、少しだけ、本当に少しだけ、思った。
そして僕は、じっちゃんにその話をした。
「じっちゃん。母さんが仕事を辞めたんだって」
「そうかい。雫は嬉しいかい?」
「分かんない。でももっと早く辞めてくれれば良かったのにと思ったよ」
「そうかい」
最近じっちゃんはぼんやり遠くを眺めることが多い。話をしても生返事しか返ってこないこともある。僕は心配だとじっちゃんに言っていたが、じっちゃんはボケてるわけじゃないから心配するなと言う。
じっちゃんは不意に僕を抱き上げると、膝の上に乗せた。
「よく男子中学生を抱き上げられるね。じっちゃんはあと五百年生きそうだ」
「どうだか。じっちゃんはあと千年くらい生きるつもりだがね」
そう言って目を細めると、僕の頭を撫で回す。窓から午後の日が差して、僕は家猫にでもなった気分だ。
「雫。本当に大きくなったな」
「何、改まって」
「この歳にもなると毎日が感傷なんだ。昔のことばかり思い出すよ。…………なぁ雫、娘が迷惑をかけたね」
その時のじっちゃんの声音があんまりにも優しかったから、僕は何も言えなかった。ただ、何となく──いつか僕がお爺ちゃんになって死ぬときは、こんな午後の日差しと大事な人の体温に包まれて、溶けるように死んでゆきたい、なんて。
そんなことが、少しだけ思われたのだった。
──と、突然インターホンが鳴った。じっちゃんは僕を膝から下ろして「はいはい」と玄関へ向かう。
声から察するに相手はじっちゃんの古い友人だ。何でもヤクザの親分をやっているらしいけれど、じっちゃんとはそうなる前からの付き合いらしい。じっちゃんとばあちゃんが駆け落ちする時に手を貸したりもしたらしくて、じっちゃんはいつも「何か困ったことがあったらコイツに相談すりゃいい。大抵のことはどうにかしてくれる」と言っていた。
僕はじっちゃんとヤクザの人が話し終わるのを居間で待っていた。微かに二人の声が聞こえたが、話の内容までは分からない。ただ、いつにも増して楽しそうではあった。
僕はその夜、久しぶりに家に帰った。
その一週間くらい後に、じっちゃんは死んだのだ。
◆
じっちゃんの死因は誰にも特定できなかった。父さんは「急性心不全だ」と言っていたけれど、死因がよく分からない時にそう言われることもあると僕は知っていた。
葬式の席は退屈だったから、僕は親戚の話を遠くから聞いたりして時間をやり過ごした。僕は泣かなかった。この時には薄々じっちゃんの死因が分かっていたのだ。これはきっと僕だけが知っていることだった。
じっちゃんはきっと昔、超能力を自分に対して使ったのだ。そして、力を解いて死んだ。本当は僕のいるこの世界線は消滅している筈だったけれど、どうしてかそうはなっていない。
じっちゃんの家から僕宛ての手紙──ばあちゃんと駆け落ちするために昔力を使ったこと、自分に力を使うと消したい後悔以外にも色んな未来が変わってしまうこと、この世界線は消滅すると思うが力を使って長く経ちすぎているので必ずしもそうとは言い切れないこと、そして力を僕に相続したこと、それらが書かれたもの──が見つかるのはもう少し先の話だったが、葬式の時点でもそれくらいの見当はついていた。
名前も知らない親戚のひそひそ話が聞こえる。
「雫くんのところ、虐待があったらしいじゃないの」
「そうそう、それで彼のお家に逃げてたんでしたっけ? おじいちゃん子だったものねぇ」
「でも向こうも歳だったし、そう毎日若い子に居着かれたら体力的にも厳しかったんじゃない?」
「だから急に亡くなったのねぇ」
違う。じっちゃんはそういう理由で死んだわけじゃない──ないけれど、本当にそう言い切れるだろうか。超能力だなんて全部じっちゃんのデタラメかもしれない。本当だったとしても力を解く必要なんてなかった。ここまで来たら天寿を全うすれば良かったのだ。やっぱり僕のせいではないのか。
──話が聞こえたらしい母さんが、徐ろに僕を抱きしめた。無言のまま、抱きしめた。母さんは仕事を辞めてからずっと僕に謝ってばかりだ。
僕のために仕事を辞めて謝る母さんと、僕のせいで死んだかもしれないじっちゃん。全部僕が悪いのだと、僕が周りを不幸にしているのだと、そう思い込むのに時間はかからなかった。今ならたまたま二つ不幸が重なっただけだと理解できるけれど、当時の僕はそうじゃない。子供って、そういうものだ。
だから僕は、学校では人を寄せつけないように過ごしていた。それでなくても友達なんていなかった──仕事を辞める前の母さんに叱られて、友達と遊べなくなってから、友達の話に上手くついていけなくなっていた。無理に話を合わせるのも面倒になって、僕は一人でいるようになっていたのだ。
しかし人間というのは不思議なもので、こんな愛想の悪い僕にも話しかけようと思う奴がいるらしい。面白がっているだけだろうしそのうち飽きるだろう、と邪険にしていたが、僕が邪険にすればするほどそいつは僕に話しかけてくる。気付けば僕はそいつと話をするのを何よりも楽しみにしていた。
彼女は、名を紺野天という。
彼女が僕に付き纏う理由は分からなかった。彼女には僕と違って他にも沢山の友達がいる。僕に話しかける必要なんてどこにもない。しかし彼女は僕と話すのをやめない。だんだん僕らは立ち入った話もするような仲になっていった。
「星宮くんさ、七月沙織って子のこと知ってる? 隣のクラスの」
「ごめん、知らないや。紺野さんのお友達?」
「そ。親友なんだけどさ。……彼女、この間、弟さんに病気が見つかったんだって。それからあの子ずっと元気がなくてさ……お家も治療費を出す余裕はないとかで……」
彼女本人のことでもあるまいに、彼女はまるで自分のことのように悲しそうな顔をする。
僕は彼女に内緒で七月沙織のことを調べた。家と家族構成、弟さんが入院しているという病院、弟さんの病気が何なのか。そして、じっちゃんの友達だったという、あのヤクザの親分のところに頭を下げに行った──友達の弟が難病なんです、どうかお金を工面して貰えませんか。僕にできることなら何でもします。──じっちゃんの友達であるその人は、じっちゃんによく似た笑顔で僕の頭を撫でた。彼にとっては何てことない頼みだったらしくて、彼はそれを快く引き受けてくれた。
思えばこの時にはもう紺野天に好意を抱いていたのだろう。彼女の辛そうな顔を見たくない一心で、祖父の友達とはいえヤクザの親分のところに一人で乗り込んだのだ。我ながらどうかしている。もしかしたら「僕は周りを不幸にする」みたいな意識が未だに残っていて、そんなことはない、僕は紺野さんと一緒にいても大丈夫だと証明したかったのかもしれない。それからも僕は、彼女に対して異様に献身的な行動を何度か繰り返した。ただ彼女には知られないようにそれをする辺り、やはりそれが異常であることには薄々気付いていたのだろう。
紺野さんは甘党だった。僕たちはたまに、放課後にファミレスで雑談を楽しむ習慣があった。その度に紺野さんは胸焼けしそうなくらい大きなパフェを注文した。
「紺野さん、それよく一人で食べられるね」
「私は太りづらい体質だからね。星宮くんはこの巨大パフェが食べられないの? おお、可哀想に……」
「哀れみの目を向けないで! 僕が言いたいのはそういうことじゃなくてね!?」
思わず突っ込みを入れると紺野さんは「分かってるよぉ」とクスクス笑う。僕はこの時間が大好きだった。ただ、じっちゃんに貰った超能力のことは最後まで言えなかった。その隠し事の分だけ、埋まらない距離を感じて少し寂しかった。
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