0 夫の決意・彼女の信頼

 またしてもナンバリングが激しくおかしいのではないか、と言うご批判は甘んじて受ける所存でございますが、SSのつもりで書いた話が長くなってしまいました。申し訳ありません。


☆☆☆☆☆


 2台のスチール製の事務机と、小さなコピー機が一台置いてあるだけで手狭に感じる小さな事務所。その向かい合った机の中央の棚の上には、殺風景な事務所を少しでも彩るかのように小さいながらも豪華なフラワーアレンジメントが飾られている。


「なあ、静江」


 既にあちこち剥げかけた机の椅子に座る静江と呼ばれた女性は、伝票を捲る手を止めて向かい側に座る声の主に目で返事をする。

 何気ない日常の中で掛けられたいつもの声の調子に反して、真剣な面持ちで対面に座る夫を見て静江もまた居住まいを正した。

 途中まで捲った伝票に印を付けて横にどかしながら夫に目を向ける。夫は、やや俯き加減に目を閉じて、ふーと長く息を吐くと


「僕と別れてくれないか?」


 静江の表情は変わらない。多少眉がピクリとしたような気もするが、依然無表情のままである。いや、内心は少し動揺はしたものの表情かおに出る程ではなかっただけではあるのだが。


 「言葉にしないと気持ちなんか伝わらないよ」と言う人がいる。静江もそう思う。言葉にしなくても分かり合えると思い込んで結局すれ違ったりするのは、思い込みと言うより怠惰だと思う程度には基本的には同意である。

 が、しかし今だけは違う。夫がなぜそんなことを言い出したのか、静江がそれを聞いて何故驚かなかったのか。夫の気持ちがこの時は手に取るようにわかったから。そのくらい夫の人となりを理解していたから。


 夫が別れてくれと言う理由……それは私たちを守るためであろうことは想像にかたくない。結婚して早20年、熱烈な恋愛を経て結婚した訳でもないが、20年の月日を共にして、それなりには信頼関係を築いてきたつもりだ。


 静江がこの夫と出会ったのは今で言う街コン。出会ったと言っても、その場ではまだ彼のことを認識していた訳ではなかったのだが。

 当時はそんな洒落た(?)言い方ではなく『ストップ・ザ・少子化』や『ストップ・ザ・過疎化』の目論見と言うか、隠れたキャッチフレーズが透けて見えるような地元自治体が主催するいわゆる集団見合いのような席である。

 

 実のところ静江は、この会の席に自ら積極的に参加した訳ではない。結婚を焦った友人に強引に誘われて、断り切れなかったのである。確かに20代半ばを迎えてぼちぼち結婚する同級生も増えてはいるのだが、静江は結婚を焦るどころか結婚を舐めていた。


 当時デザイン事務所の事務員として働いていた彼女には、毎日のように自社のデザイナーや自称クリエイターから夕飯やサシ飲みの誘いがあったし、休日お洒落をして街を歩けば10歩毎に男性から声を掛けられていたのだから。

 まぁこの静江の記憶は多少盛ってる感があるものの彼女自身が「その気にさえなれば結婚はしたい時に出来る」と高を括るには十分な程度ではあったのだ。


 それよりこの頃静江は、フラワーアレンジメントに大ハマりしており、結婚なんかよりそちらに夢中と言う理由もあった。

 何度もコンテストに応募しては優勝までは一歩届かず、それが益々のめり込んでいく要因ともなっていた。


 この日静江は、会自体の出席で友人への義理を果たすと、二次会の誘いを全て断り足早に帰路に就いていた。

 「昨日考えたあれを試してみたい」とか「こんな組み合わせはどうだろう」等と考えながら電車に乗り込もうとしたのがいけなかったのだろう。あろうことか静江は、車両とホームの隙間にヒールを引っかけてしまい、車内に向かって盛大に転んでしまったのだ。


 幸い倒れ込む時に咄嗟とっさに手をついたため体に痛みはそう感じないが、当然恥ずかしさの方が重大だ。

 着ていたワンピースの裾は捲れ太腿まで露わになっている気がするし、角度によっては下着まで見えてるかも知れない。

 羞恥にブルッと身震いしたその刹那、


「すみません!ワザとじゃないんです。本当にすみません!」


 と、男性から声をかけられた。が、当の静江は困惑した。だって自分で勝手に転んだのだから、他人に謝って貰う筋合いがない。

 

 「大丈夫ですか?」と、声を掛けられるのならわかるが……いや、それも十分恥ずかしいけど……かと言って衆人環視の中で、ワンピースの裾を直しながら立ち上がるのも凄く気まずい。


 どちらにせよ死ぬ程恥ずかしくて、声を掛けてきた男性の方を見れないでいたのだが。ふと、自分の腰に何か布状のものが掛けられている感触がして、ようやく男性の方に顔を上げる。ついでに自分の身体にも目をやると、脱いで手に持っていたのだろう彼の上着が自分の腰に掛けられていた。


 それも、かがんだ時にたまたまそこに被さりました……みたいな感じで、さり気なく静江の腰から足にかけてを覆っていた。


「大丈夫ですか?お怪我はありませんか?」


 と、続ける彼に周りからは冷ややかな目が向けられている。ようやく羞恥心から抜け出し冷静になってみると、この男性は自分がうっかり転ばせてしまった事にして助けてくれたんだと、ようやく気付いた。

 凄く凄く申し訳なかったが、せっかくの厚意を無駄にしては気の毒ではあるし、何より自分の失態が恥ずかしすぎて彼の設定に乗っかることにした。


「あ、いいえ。怪我もなかった事ですしお気になさらず」


 と、言いながら立ち上がり何事もなかったように座席に座った。

 彼も程近いところに座ってはいたみたいだが、これ以上言葉を交わすのは変だろう。かと言ってこのままというのも申し訳なさ過ぎる。静江が葛藤してる間に、次の駅でその男性は軽く会釈をして電車から降りて行ってしまった。


 胸にモヤモヤを抱えながら過ごした数日後、今日は静江が勤めるデザイン事務所のコンピュータのメンテナンス日。

 年に数回あるそれだが、納入元のエンジニアが2~3人でやって来て数時間で終了するのが常だ。


 途中休憩するエンジニアにお茶を運んで行った際、静江は心臓が止まるくらいに驚いた。持っていたお茶をトレーごと落としそうになったくらいだ。

 何故ならそこには、数日前の彼がいて静江に微笑みかけていたのだから。


 静江はこの日、人生で初めて男性を自分から食事に誘った。もちろん、先日のお詫びとお礼の名目ではあるのだが。


 食事の席で聞いた彼の話では、彼の方は何度かメンテナンスのために訪れているデザイン事務所で、事務員として働いている綺麗な女性……と静江の事を認識しており、例の会に出席していた静江を見て驚いたが、声をかける勇気まではなかったらしい。

 

 彼もまた友人の付き合いでの出席であり、二次会を断って帰ることにした。

 彼が電車に乗った直後に静江が車内に倒れ込んできたのだが、彼とすれば全くの見ず知らずの女性を助けた訳でもなかったのである。


 今まで静江に誘いをかけてきてた華やかだったり陽気だったりする男たちと違い、朴訥とした彼だったが妙な安心感に惹かれて、どちらかと言えば静江の方から積極的に交際を始めた。

 余談ではあるが、娘のくるみも自分に似た美貌を持ち、特に高校生になってからは友人の影響でお洒落にも目覚めたようだが、彼氏どころか男の子の名前すら口にしない。どうやら気質まで受け継いでしまったのだろうかと一抹の不安を感じつつも嬉しくもあった。


 その後静江は寿退社をすることになるのだが、静江の夢である花屋を二人で始めるために彼もまたコンピュータシステムの会社を辞めてしまった。

 それなりに大きな会社で、それなりに優秀なエンジニアだったらしく、惜しまれて退社する際にはご祝儀を兼てと勤続年数からすれば多額の退職金を頂いた。

 そのお金と、静江が開店資金として貯めていたお金とでテナントではあるが花屋を始めることができた。


 しかし初めから順調だった訳ではない。

 静江の創るフラワーアレンジメントに固定客が付かず、お店が傾きかけた事もあった。

 しょげ返る静江に対し「心配するな」とだけ声を掛け、彼は花農家や結婚式場等を駆けまわり安定した仕入れと納入先を見つけてきた。


 そうしてようやく静江の方にも固定客が付き始め、店の方も軌道に乗り始めた。子育てが終わって余裕がでたらフラワーアレンジメントの教室でも開こうか等と思うくらいには安定していたはずなのに……


 ここ数年の異常気象による被害は花農家にも及んだ。

 また、昨年あたりから世界的な伝染病が流行はやり始めたことによって、イベント等の開催が自粛され、生花の需要が一気になくなってしまった事も追い打ちとなり、店はもう限界を迎えていた。


 妻子を守るために妻子を失ってしまっては本末転倒ではないのか。

 花屋の存続よりも家族三人で一緒に暮らしたい。そして何よりもくるみが傷つくのではないかと夫に訴えたい事は他にもいろいろとあった。


 しかし、自分の好きな道を歩ませてくれて、しかもその花屋を守ったのは他でもない現在いま目の前にいる夫である。最悪負債を抱えた時のことまで想定しての判断なのだろう。


 伝票整理を始める時に淹れた、もうとっくにぬるくなったお茶に手を伸ばし口に含む。そうすることによって多少は動揺した気持ちを落ち着かせたかったのと、水分を含まなければ声を出せる気がしなかったから。


「もう決めたのですね?」

「ああ。すまんな」


 この日、二人が交わした言葉はこれだけである。もちろんその後暫くは沈黙の中で向かい合ったまま涙を流し続けてはいたのだが……


 こうして静江は、娘のくるみと共に旧姓である『野々原』に戻ることとなった。

 だが彼女は強く信じていた。この男は必ず再起するであろうこと。娘のくるみは父親を恨まないであろうことを。


 翌年、娘のくるみが彼氏を連れて父親を訪ねた時には、また違った意味での涙を流したらしいが、それはまた別の話である。


 娘とその彼氏が配達やら何やら手伝ったおかげで、別な契約のために労力を使えるようになったり、世の中が好転したことによって徐々に店は持ち直した。


 静江が夫と復縁し再度『円谷』姓になる時、娘のくるみは「円谷になってもどうせまたすぐ苗字が変わるし」とか言い出して、いい機会だからと既に半同棲していた彼氏の姓になったのは、この日の二人のやりとりから5年後のことである。


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 母娘二代に渡ってのご都合主義な話の展開になってしまい、重ね重ね申し訳ありません。


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