第8話 福岡県人から見た)関ヶ原と大谷刑部 48
「てゆーかさー。おじーちゃん。もっと有名人のお話ってないの」
ある日、太郎が退屈そうに言った。
「そうじゃなぁ」
立花家は元々は博多の北、立花山が本拠地で、いまでは南の柳川という『うなぎのせいろ蒸しがうまい』『堀を船で降る事が出来る水運の町(1650円)』で有名な土地に移住したが、高麗出兵や大阪、江戸、棚蔵(福島県)にも行った事がある。
そのためお話自体は色々あるし、関ヶ原や大阪夏の陣の話も多い。
「そこで今回は有名人、石田三成の盟友大谷刑部のお話をしよう」
●(福岡県人から見た)【関ヶ原と大谷刑部】 48
【「関ヶ原合戦で備前中納言が裏切った(=宇喜多 秀家。こちらは裏切り者じゃなく、裏切ったのは筑前中納言、小早川秀秋)と刑部が聞くや家来を一人呼んで
「戦はこれまでだ。生害(腹を切る)するので、なにとぞ首を隠すよう」と命じて自殺した。
そのため刑部は首だけが遂にみつからなかった」】
「家臣・湯浅隆貞の介錯で切腹して関ヶ原に埋められた(『常山紀談』)とか、家臣の三浦喜太夫って人が吉継さんの甥でお坊さんの祐玄さんに持たせて米原(滋賀県米原市)の地に埋めたとも言われてるね」
「敵に首を取られるのは恥じゃからな。自分の首を隠せるだけの時間を計算して自刃したというわけじゃろう」
「それはどうなんだろう?」
【「刑部の分別の深さはこれだけではないぞ。
関ヶ原の一乱の最初、家康公は(上杉)景勝退治として関東に下向した。
その後で(石田)治部は己の考えを(大谷)刑部に打ち明ければ、刑部は
「この事(家康成敗)は成就しないだろう。20日早く我らに聞かせれば当座の意趣を汲んで自分が(家康と)刺し違えれば事は成功したかもしれない。
だが家康が瀬田の橋を越えて東国へ越えらてしまっては虎を千里の野に放ったも同然だ。たとえ味方が家康の兵より100倍いようが勝利はないだろう」】と言った。
「大谷さん、どれだけ三成さんを過少評価してるの?」
「っていうか3度「無謀であり、三成に勝機なし」って話は聞いたことあるけど、これ出典は何だろう?(誰の話かは書いてませんでした。)」
「大谷は【「ご存じのように、尾州清洲・小牧の戦で、太閤様の千万の大軍が家康の2万に満たない軍勢で戦った際に秀吉公の知謀でもたやすくは勝てなかった。
まして我らの才覚を比較すれば、どう考えても蟷螂の斧である。
病気なので渡りに船と思ったものを、遅く聞かされたことが残念だ。」と言った。刑部は返山僧を成敗して悪病を受けたという」】(以上、本文終わり)
「いや、確かに小牧長久手の戦いの兵力差は10万 対 3万とか言われてるけど本当の所はわからないからね?」
「というか、100倍も軍がいるなら30万人だけでも家康の本国を攻めたら勝てるんじゃないかなぁ」
「てか、このお話どこから博多の人間にまで洩れて来たの?誰かの創作じゃないの?」
「まあ有名人はこんな逸話があるのは良くある話じゃからな。柳川人の大谷公評と考えてほしい」
「所で、悪病ってどんな病気だったの?」
「うーん一般的には眼病だったらしいのだが、江戸時代の通俗本などで前世の罪が原因といわれていた癩病(ハンセン病)とか梅毒とか言われておるが、『うぃきぺでぃあ』によると『江戸中期頃までの逸話集にはこの描写は存在しない。『関ケ原合戦誌記』『関ケ原軍記大成』などの軍記がこのイメージを広めたようである。ただし、目を病んでいたのは確かなようで、病が重篤化したと推定される文禄3年10月朔日付けの直江兼続宛書状の追伸で、目の病のため花押ではなく印判を用いたことへの断りを述べている』とあるから、ワシが聞いた僧を殺したから病気になったという誹謗中傷が発展してこのような話になったのかもしれんなぁ」
「じいちゃんもハイカラになったね…」
「まあ大谷殿は豊臣側の人間だから、僧を殺すような悪人だったとしてもおかしくない。という偏見と中傷なのかもしれんなぁ」
「石田三成さんも病気持ちだったらとんでもない奇病にされてたかもね」
福岡柳川藩 立花道雪・宗茂伝説 ~浅川さんの聞くことにゃ~ 黒井丸@旧穀潰 @kuroimaru
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