泯然としてなお
紅葉も色が褪せ、木が灰色の影になる季節の移り変わり、葉が舞いコンクリートに淡黄の絨毯が敷かれる時分、あなたは自分の家に火を放った。夕方の乾いた空気が炎に息吹を与え、勢いを増す赤は想像していたよりも濃く、明るく、頬を照らしている。あなたの耳は本棚やベッドが爆ぜる小気味良い音の響きを聞き、目を瞑って、瞼の裏に焼き付いた炎の揺らめきが動的なアラベスクを楽しんでいるように見える。私もまた、あなたを真似て目を閉じると、不思議な赤い模様が左から右へ向かい、その移動を追う私の視線は気付けばまた左から右へと間断なくぐるぐると回っていた。なるほど、炎を目を閉じて眺めるのもまた不思議で楽しいものだと思った。
遠くで消防車の音が聞こえてくると、あなたは人差し指を唇に当てて私を手招きして、夜の帳が徐々に降りてきて視界の多くがコントラストを失っている、その薄暗い小道を進んでいく。誰かが火事に気がついて通報をしたのだろう、あなたは誰にも見つからないようにこっそりと自分の家を離れていく。私は小走りに後を追う。我々は明かりを背後に黒に溶けていった。
家がなくなった人はどこに行くのだろう、あなたは一度私を見て、誰かに預けようと逡巡したようだったけれど、それはやめたようだった。冬が近い夜は冷える。私は毛皮があるから良いけれども、あなたは簡単なシャツにカーディガン、プレフォールで買った裏地のない薄手のチェスターコートを着ているだけだった。公園のベンチであなたは私を抱いて眠った。家のない夜は心細かったし、外は川底の小石にように冷たくて暗い。あなたはな何かしらの達成感を得たろうし、重荷を下ろしたように軽快な足取りをしていたが、私の気持ちは空気が粘度を持ったように重かった。今は互いのぬくもりが循環しているからきっと気にはならないけれど、明日はどうだろうか、太陽は昇ったら、私達を照らすのだろうか。照らすだろう。けれど、影は濃くなるのではないか、不安を感じている。あなたはどう感じているだろう。
翌日は電車に乗った。いくつも乗り換えるたびに車窓から覗く建物の背は縮み、まばらになって視界がひらけていった。あなたの態度は百閒が阿房列車といった趣で、少量の酒を嗜み、つまみに冷凍みかんなどをつまんだりしている。対して私は青息吐息といった風情で、外を眺めると目に映る渺茫たる風景に
あなたは一杯気分で一冊だけ本棚から抜いてきた文庫本を開いて読んでいる。『失われた時を求めて』のアルベルチーヌが死んでしまう章だ。何故その巻だけ持ってきたのかはわからない、ただの気まぐれかもしれない。だって、あなたはその本を一度通読した後は、時々思い出したように適当な巻の適当なページ、センテンスの始まりでもない箇所を拾い読みして楽しんでいたのだから、だから、どの巻でも良かったのかもしれない。ただ文字が連なって、レンガのように隙間なく敷き詰められた終わることのないセンテンスを追うだけで何か満足があるのだろう。私はお気に入りの絵本を救い出しそびれた、それが少し恨めしいので拗ねている。あなたが私の頭を撫でても私は車窓から目を離さない。何だって家を燃やす必要があるんだ。ただ鍵を掛けて外出すれば良いだけじゃないか。でもあなたにはそれが必要だったのだろうことはわかる、共感はできないけれどその気持を理解することは可能なのだ。ただ私は拗ねているから態度に出したくないというだけだ。
電車を乗り継いでいくと、その電車もだんだんと車両の数が減って、人の数もまばらになった。私は相変わらず車窓をあなたはただぼうと車掌室の方を何を見るともなく向いて空白だった。本当になにもない駅で、老人が一人乗車してきた。異臭を放ち、肌の色は赤褐色、ガリガリだが多少の筋肉が老人ながらも緊張感のある皮膚を形成している。何よりも奇異なのは、その老人は全裸で、空いている席に座るとまるで自分の尻の穴を見せるような姿勢で大きく足を開いたのだが、性器は切り取られたようにその名残だけが伺え、尻の穴は熱した鉄で焼き埋められたように多少のケロイド状の模様があるだけで穴自体は見当たらなかったことだ。子供連れの母親は子供が目を合わせないように注意を促して、それ以外の乗客も関わり合いにならないように目を逸らし、その存在を認めようとしなかった。まるでこの老人は車輌に異彩を放つ透明人間だ、不安感、違和感、不条理を概念にして車輌を埋め尽くす亡霊のようだった。
だがあなたは真っ直ぐに老人を眺めていた。
「昔この路線は炭鉱夫たちが使ったものを改造したもので、周辺の地質にはその名残がある。かくいうワシもその頃のからのこの辺りに住んで、家族を養うためにくらい岩の中に身を屈めて地中掘っていた。誰もが薄汚れていたが、仕事のあとの酒や喧嘩は楽しかった。女がいればみんなで囲んで輪姦したものだ。やんちゃのせいでワシはこんな体にされたが、今では清々しい。皆にこの体を観てもらいたい。ここには生命がある。ワシが生きているという証明がある。お前達が胸の奥のどこかに抱えている精神的奇形をワシは肉体で表しているだけだ。目を逸らしているやつは自らの奇形を認めることができないものだ。それは幸福なことではあるが真実の人生ではない。人生は苦痛だ。省察すれば省察するだけ、熟考するれば熟考するだけ、正しくあろうと思えば思うだけ苦しむようにできている。だから人間は頭の中をぼやかして、大まかな輪郭だけを規定し、その規定の中で自らの正当性を証明した気になっている。何もかもが霧の中だが、霧の中では隣に潜む真実に手をのばす必要がない。手元を見て、自分の仕事をこなすだけ良い。それがぼやけた頭だと言うのだ。ワシは苦痛を人に配っている。ワシは霧の影に隣にいる不条理と真実だ。目を逸らすな」
あなたは目を逸らさなかった。胸を痛めていた。既に傷を負った胸のうずきを再び指先で弄ぶように老人を見つめていた。それは老人の言葉に共感したからとか、感動したからだとか、そういうものではないのは明白だった。それは一種のナルシシズムだ。私はあなたから目を逸らした。あとは閑散とした薄汚れた床が見えるだけだった。絵本を持ってくれば良かった。老人の声はずっと耳に入って来ていた。話す内容がいつまでも尽きず、あるいはいつもこの電車に乗って同じ話をしているのかもしれない。
あなたはスマートフォンで一度地図を確認すると画面を叩き割って車窓から投げ捨てた。何もかも捨てたかったのかもしれない。それは家に火を放ったときからわかっていた。それは思い出だったり、社会的しがらみだったり、友人や知人だったり。多くのものはそれで捨てることができるかもしれないけれど、友人なんてものは、携帯電話で連絡先を知っていてもいつの間にかいなくなっているものだし、逆に連絡先を失っても友人もままでいることもできる曖昧で複雑な人間関係だ。あなたの行動が全てをリセットできるわけではないことをあなたは理解しているだろうか。いや、その行動、その儀式的な手順そのものが心理的な豁然を促すものであるのかもしれない。とにかく我々は今とても弱く、身を守る必要があるからだ。あなたには癒やさなくてはならない傷がある。
山と植物しかないような駅で電車を降りると徒歩になった。もとより出不精であるあなたは少しの距離を歩くだけで息をあげている。それでも何を考えているのか、休むことなく一定のテンポで歩を進めていく。頭には何が浮かんでいるのだろう。歩行は人を思索させるものだから、あなたもまた、電車の中では思ってもいなかったことを考えているに違いない。景色も変われば思考も変わる、あなたは家に火を付けたときとは別人になろうとしているのだろうか。
程なく小ぶりな一軒家が見えてきた。あなたが以前持病で立てない知人に教えられた家で、気のめぐりが良く、養成に適していると聞いた場所であろう。薄暗く、程よく古臭い家の壁が非常に陰鬱でそんなスピリチュアルな効能があるようには見えぬが、藁にも縋る思いがこの地に足を運ばせたに違いない。
鍵は開いており、来る者を拒まぬといった趣で、あなたが静かに戸を開けると、窓から入る光が部屋の中の埃を白く煌めかせているのが見える。片付いているように見えるが、すべてが薄汚れてくたびれている。
この家にはルールがある。午後の九時までは家の中を自由に使って良い、夜は屋根裏部屋で過ごし眠ること、九時以降家主が帰ってくるが、顔を合わせてはいけない。それ以外のことであれば自由に過ごすことができる。こんな意味深長なルールを課されたら、落ち着くどころではないが、何故この場所が養成に適していると言われるのかはわかる、それでもここの雰囲気には得も言われぬ癒やしの空気があるのである。家主と顔を合わせてはならないというルールそのものは不穏で何かしらの恐怖を煽るが、それを補って余りある安らぎの雰囲気がここにはあるのだ。
あなたは早速屋根裏に向かって荷物を下ろす。少しの衣類と一冊の本、財布と身分証明書、もう家の鍵のついていないキーホルダーというささやかな荷物。屋根裏は少し埃っぽいもののきれいに片付いていて、寝台と鏡台がある他は観葉植物がいくつか置いてあるだけで広々としている。私はベッドに飛び乗って丸くなる。ゆっくりとした旅の疲れがここに来て睡魔を呼び込んだようだ。あなたは階下に降りて料理を作っているようだ。何かを炒める軽快な音を聞きながら意識が薄れていった。
目が覚めると薄暗く、外の様子が静かなことから夜であることが察せられた。あなたはベッドに腰掛けてまた本を開いている。本当に読んでいるのだろうか。気持ちが落ち着かないのではないか。あなたは生活を捨てて、過去の交友関係と――本当に断ち切れたのかどうかは別として――決別した。そんな状態の人間が、疲れ果ててて今にも眠りそうな目と、決断の痺れるような緊張感、不安感の中で文字を追えるようには思えない。自分が落ち着いている、新しく始まることへの希望に満ちていると見せるためのポーズでしかないように見える。
階下では家主と思われる者が営んでいる気配がする。想像していたような不気味なものではなく、ただの普通の生活音。正体不明の人間が階下にいるというのに、不思議と誰かがいると言う安心感を与える物音という違和感。恐怖心がわかないという点が恐ろしく私は思うが、あなたはどうだろうか。物語であれば、約束は破られ、秘密は暴かれるし、嘘は明らかになるものではあるけれど、これはあなたの人生だ、あなたが家主と顔を合わせなくても私は構わない。それが怯懦であるか単に従順で素直であるかはわからないが、あなたは約束を守った。
数週間、この何も無いような日々が続いて、私はもう飽きてしまったが、あなたもまた気持ちが落ち着いてきたように見える。とはいえ養生に適していたかというとやはりよくはわからない。そもそもここを紹介してくれた知り合いも、チャクラが開くだとかスピリチュアルなことを言うような信用ならないやつだ。それでもあなたが一つ、心の落ち着きを取り戻して、何かの変化を掴めたのならそれで良いのだが。
ある日あなたはこの家をそっと出て、電車に乗って名も知らない駅に降りた。冬も深まり、茶と灰色の渺茫たる風景が眼前に広がり、人の心を寂寞に誘うようである。あなたはマフラーに顔をうずめて口元を覆うと突然その場に蹲って啜り泣いてしまった。
「私にはもう何もない、家も、頼れる友達も」
私がいるじゃないか、と、言うのは慰めになるのかわからないし少し違う気がするのだが、あなたが孤独ではないことはどうか信じて欲しい。私はただ鳴き声をあげることしかできず、あなたは顔を上げずに私の頭を優しく撫でて、その優しさがとても柔らかくて、私も思わず泣きそうになった。風が冷たくてそれが頬を冷やしてくれたおかげで助かった。
車の通りの少ない広い道路を歩いていると、車が一台ボンネットを開けて停まっており、三人組の男女が車の調子を見るために外に出てああでもないこうでもないと論議をしている。あなたは何を考えたのか、おもむろに彼らに近寄ると、「ヒッチハイクはできる?」と聞いた。
「ははは、見ての通りエンストしてっけど、直ったらいいぜ」
「やった、ありがとう」
「あ、ビールあるけど飲む?」
「クーラーボックスに保冷剤入れ忘れたからちょっとぬるいやつだけどねえ」
「エンストにぬるくなったビール、散々だけれど、頂けるならありがたく頂戴したいな」
「そう、散々なのさ。で、俺ももらっていい?」
「運転手はダメに決まってるでしょ」
「その子は黒羊?かわいいね」
「ありがとう、鳳仙っていうんだ」
私はぶっきらぼうに「よろしく」と言った。
運転手の男を除いた三人は瓶ビールを開けると乾杯をして飲み始めた。あなたはぬるいビールにうまそうに喉を鳴らす。なるほど、こういう雑な始め方も良いかもしれない。帰る家はないが、人が孤独であるのは、孤独であるときだけで、絶対的に一人であることはないのだ。私はあくびをすると後部座席で丸くなって眠った。
【完】
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お題:友達
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