猫嫌いの英靖

 陶然とした夜にひとり歩いていると暗闇が一つ右前方から走って眼前に立ち止まった。宵の黒に煌々と光る眼球はジッとこちらを伺っている。黒猫というのは古来より何かしらの象徴や予兆であることが多く、殊に猫嫌いの英靖えいせいにとっては兎にも角にも不吉なようであった。せっかくのいい気分が台無しだ。手に持っていた酔い覚ましのコーヒーの空き缶を投げつけると、黒猫はふぎゃあと哀れな鳴き声をあげて走り去って行った。放った空き缶を拾おうと屈み周囲に目を凝らす、すると缶のそばにうさぎの足のお守りのようなものが転がっている。恐る恐るつまみあげるとそいつがぶるぶると震えて喋り出した。


「ああ、全く、あのクソ猫の野郎からやっと解放された。ああ、俺か、俺は黒猫の靴下だ。あいつ、今頃左前足が真っ白くなってやがるぜ、ざまあみろってんだ。何だ、素っ頓狂な面ァしやがる。そんなに俺が珍しいか。人間さまは色んなことにお詳しいのに、そのぶん知らんものを疑ったり、無視したりするからなァ、不思議を前にしても酔いのせいにしたり、夢を見てることにして明日にはスッキリ忘れるようにできてやがる。だが、見ての通り俺はシッカリ存在しているし、目を逸らしたって不思議の方はお前を忘れたりなんかしねえのさ。それにしたって今日は月もねえいい夜だ。」


 元来黒猫というやつはすぐに人語を話しがちなものだが、その体の一部位であってこれほどまでおしゃべりだとは、まことに呆れた話である。気味が悪いが面白いので上着のポケットに入れて持って帰ることにした。


 玄関を開けて真っ暗な居間に灯りと付けると、自宅の匂いを嗅いでほっと一息ついた。「おい」と声をかけると黒猫の手袋は「なんだ」と答える。英靖はひとりで生活することに慣れていたとは言え、こうやって話し相手ができたことに喜びを感じていた。何かを言えばカーンと返事が返ってくる、こういうものを暫し忘れていた。満足した様子で寝室に向かいベッドに潜り込むと、手袋をサイドテーブルの上に乗せて目を閉じる。暗闇に黒が溶けた。



 翌朝、目を覚ますと、黒猫の手袋は依然としてそこにあった。彼の言うように、一夜の夢幻ゆめまぼろしなどではなく、ましてや酒の見せた幻覚でもなかった。不思議はこうやって姿かたちを残しており、英靖はホッとした。


「ジッと見つめやがって、俺の顔になんか付いてんのかァ」

「いや、どこに面があるのかわからんが。ただたんに話し相手が一夜でいなくならなくて良かったと思っていたところだ」

「正直なこった」

「飯は食うのか」

「飯を食うように見えるのか」

「見えないが、食ったらいいなと思った」

「食うよ。人間と同じものを食ってみたい」


 休日の朝は仕事の人同様に早起きだ。洗濯物を回して、朝食を作り始めようとキッチンに立ったところ、チャイムが鳴る。こんな朝早くからの客など珍しい。玄関を開けると、白い顔だけを出して手や足の先まで黒ずくめの少女がひとり、おどおどしながら立っている。いや、よく見ると左手だけは手袋をしておらず、それを恥ずかしそうに右手で隠しているではないか。さては、と英靖は思った。


「あのすみません、手袋を探していて、ここいらに落としたのですが知りませんか」


 英靖はせっかくの話し相手を返すのを惜しく思って、しらばっくれることにした。


「申し訳ないがわからない、そんな高級そうな手袋なら届けるだろうが」

「あの、もし良かったら家の中を見せて頂けませんか、家事のお手伝いもしますから」


 少し面白く思って、英靖は彼女を家に上げることにした。それを見た手袋がぎょっとして文句を言う。


「おいおい、何だってそいつを中に入れるんだ、俺のことは返さないよな」

「返さないよ。でも困っている人を放っておくわけにはいかんだろう」

「人ってな、おめえ、こいつァ」

「あら、他にも誰かいるんですか」


 そう言って少女はくりくりの目を見開いて猫の手袋を覗き込む。「あっ」と少女と手袋が同時に声をあげたが、英靖はそれはウサギの足のお守りだと説明した。持ち主がそう言うのだし、そしてなにしろ自分の手袋が喋るはずもないのだから、少女はその言葉を信じる他なかった。


「良かったら食べていきなよ」


 朝食は味噌汁、焼き鮭に大根おろしにかぼす、海苔、漬物と言った内容だった。味噌汁は気を遣ってぬるめにしておいた。少女は箸をうまく扱えないようだったので、スプーンをだしてやった。薬味を合わせた焼き鮭を食べると、目を輝かせてあっという間に平らげてしまった。


「こんな美味しいご飯を食べたのは初めてです、是非お礼をさせてください」


 少女はそう言うと服を全て脱ぎ、真っ白な肌を露出させ、英靖にそっと抱きついた。彼はバツが悪そうに少女の頭を撫でると、彼女はゴロゴロと喉を鳴らすのだった。だがそのつかの間を見計らって、脱ぎ去った服がワッと一斉に野外へ逃げ出したではないか。少女はぽかんと口を開けてその様子を見ていたが、次第に目に涙が溜まったと思ったらわんわんと泣き始めた。英靖は頭を掻いて布団を少女にかけてやった。


「まあ仕方ねえや、他の毛皮たちもそいつのことは嫌っていたんだ。スキあらば逃げようって思ってたのは俺だけじゃねえのさ」

「猫といえどもひとの姿をしていると、どうにも哀れに感じるな」


 少女は英靖に出してもらったY-3と大きく書かれたオーバーサイズのスウェットとハーフパンツを着ると落ち着きを取り戻したが、グラスに注がれたミルクを舐めながらまだ鼻をすすっている。女の姿で泣かれるとどうにも弱く、英靖は一緒に服を探してやることにした。手袋のやつは面倒臭そうにしていたが、彼が行くならついて行くということで、三人連れ立って外に出た。


 よく晴れた午前だった。人通りもまだ少なく、空気が澄んでいた。少女ははしゃぐようにそこらの茂みを覗き込んだり、塀の上に登って見せたりした。手袋はジャケットの胸ポケットから恐らく顔にあたる部位を覗かせて周囲を見回す。


「こいつぁもう影も形もねえだろうなぁ。あいつら脱兎の如く逃げ去っちまった。」

「探しても見つからないということか」

「そういうこった。あいつは哀れだがもう黒猫じゃあねえ」

「じゃあ何だってんだ」

「まあ、人じゃあねえけど、猫にもなれねえ半端もんさ」


 楽しげに遊ぶ少女を見て英靖は「ふうん」と気の無い返事をした。猫が嫌いというだけで、こうも冷たくなれるものかと自分でも思ったが、どうにもうまいこと心が動かないようであった。少女の姿で無邪気に振る舞う姿はかわいらしくもあったが、不思議と親身になってやるような気分にはなれなかった。それがどうにも薄情なようで、そんな自分に反抗するように逆に家に置いてやろうと思ったのだった。



 それから数ヶ月が過ぎた。少女や手袋は人間の生活にすっかりなれて、英靖もまた家に彼らがいる日々を日常と思うようになってきた。英靖は二人に優しかった。一人で過ごして優しさのやり場を持たない人間だった彼は、唯一優しさを振る舞える相手を見つけて少なからず幸福を感じていた。


 少女はたまに猫の姿で出歩くことがあった。胸がY-3と白抜きになり左肩に三本の白線が走り、両手足が白い猫がいると近所で少し噂になった。少女は出かけるたびに虫やらネズミやらを英靖に持ってきた。彼はそんなものいらないと説明したが、いくら言って聞かせても少女はやめなかった。手袋も「人間にゃそんなもん迷惑でしかねぇ」と言ったが、理解できないようであった。



 ある日、猫の集会に少女が出ると、どうにも三本線が目立っており、それが随分人目を引き、猫たち全体に及ぶ生活の邪魔が入るようになってきたという。然るに、少女が人間の着る服のような毛皮を得てからというもの、人間たちはそれを物珍しがって、日向ぼっこでうとうと気持ちよくしているところ、体をひっくり返されて腹を確認されるようになったということで問題になっている。我々が安息の日々を過ごす上で異端たる少女は不要ということで、その毛皮をどうにかするか、街から出るように言い渡されてしまったのである。


 少女は困り果ててしまった。というのも、この毛皮は大好きな英靖からプレゼントしてもらったもので、どうにも手放したくない。かと言ってこの街から出ると英靖と離れ離れになってしまうので、それも嫌だ。少女はしょんぼりとしながら家に帰るとぶりの照焼が帰りを待っていた。それをうまいうまいと食っていると、心が暖かくなったので、正直に相談することにした。


 猫たちの集会の話を聞くと、英靖は心底嫌そうにした。何故なら集会の場所は自分の住むマンションのすぐ裏手の公園だったからで、そんなものぶち壊しにしてここで集会ができなくしてやると、少女の話も聞かずに怒ってしまった。


 数日後、猫の集会が行われようとするとき、英靖が現れた。猫たちは警戒しつつも数の理がある為、泰然自若たいぜんじじゃくとして彼を睨み付けるに留まっていたが、猫嫌いの英靖はそれどころではなく、自分の家の裏で猫がこんなにも集まっているのを目の当たりに胸が悪くなり、怒りに我を忘れてしまった。手に持った小石を思い切り投げると、ポールにカンっと当たる。その音が如何にも怒気を孕んで響いたため、猫どもはびくりと体を震わせた。そして鉄棒を片手に叫びながら走ってくる英靖を見て、流石にこれはマズい、頭のおかしな人間が来た、と思い飛び上がった。


 その拍子である、猫どもの毛皮は一斉にわっと飛び去り、どの猫も裸のような真っ白になってしまった。毛皮は四方八方に散り散りとなり、もはやどれが誰の毛皮かわかったものではない。猫どもは急いで自分の毛皮らしきものを追いかけて散っていったが、一匹として毛皮を取り戻せた猫はいなかった。



 それから町中では不思議と色とりどりの猫が見られるようになった。緑の猫、ピンクの猫、チェックの猫、プラダの猫など。物珍しげにほうぼうの町からこの不思議な猫たちを見物しに人々が集まるようになった。猫ののんびりとした日常は難しくなったが、食い物に事欠くことはなくなった。猫たちもそれを悪くないと思い始めたようである。


 少女は相変わらず猫嫌いの英靖の家で厄介になっている。手袋は英靖とよく酒を飲むようになり、テレビの話題なんぞを肴によく笑って過ごしている。英靖と言えば、随分長かった孤独が溶けてなくなったことにふと気付いたところである。彼の出会った不思議というのは、聊斎志異のように仕事がうまくいったり、大金が入ったりすることはなかったが、こういうささやかな日常にちょっとした彩りを与えることもあるということだ。


【完】

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お題:黒猫

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