背中の穴
冥子は自分の背中にある小さな穴のことを知らない。学校の女友人と三人で下校中、近くに住む浪人生の男が通りかかった。オカッパにメガネ、セーラーにベルボトム、雪駄といういかにもアングラ映画が好きで本も読むがちょっと性癖が歪んでいるのがにじみ出ているような容貌である。あくまで客観的な第一印象で、本当に本人がそうであるとは限らないが、ともかくか弱い女生徒にとってはなんとなく脅威を感じる存在である。それがどうも進む方向が一緒であったのかずっと後を付いてくる。付いてくるとなんだか不安になる。友人の一人が「もしかして誰かが一人になるのを待っているのじゃないかしら」などと慄いていると、感情は伝播する。冥子も段々不安になってきて「どうしようあとちょっとでわたしだけ別の道に別れなくちゃならないわ」と友人に相談する。「だったらいっそわたしたちに付いてくれば良いじゃないの」などと友人らは言うが、しかしそうしたらいつ帰れるかもわからない。別れて一人になったり人数が減ってからでは遅い、冥子はそう判断し、くるりと振り向くと勇気を振り絞って一言「お兄さん何かわたしたちに御用ですか?」。友人らは多少ギョッとしたが、冥子がそう来るならわたしたちだってやってやると覚悟を決めてじっと浪人生を見る。男は狼狽して「いや」と言うが歯切れが悪い、何かまだ言おうとしている気配がする。「君たちの背中には穴がある」と言った。冥子が「何を気持ち悪いこと言って」と食ってかかると、男はしどろもどろに「成人になると消えるんだけど、実は」と以下のようなことを言った。
今の子供には生まれたときから緊急停止用の小さな穴があって、爪楊枝などを利用することで緊急停止、その思考や記憶をリセットして、人生のやり直しが可能なのだ。人間誰だってやり直したいこと、後悔することがたくさんある。特に子供の頃の思い出は純粋故に残酷で、あとあと思い返すと余りの行いの酷さに目頭に涙を溜めたり、夜中の寝返りの中に苦痛に魘されるようなこともあるものだ。そういった懸念は健康に良くないし、或いは長じてトラウマや深刻な倒錯を齎すこともある。健全であるためには自分自身がそれらに頓着しない状態が必要なのである。大丈夫、ある程度の記憶はなくなっても、義務教育で得られる情報は今やインプット式であるから、記憶がなくなったあとでもすぐにインストールすることが可能である。
思い出を重んじる親であるならば、不健全な懸念を放置して、その子供の人生を一本の紆余曲折の中に記録し続けることも可能だ、あくまで背中の緊急停止ボタンは保護者のものであり、子供のものではない、親が子供に一生何も忘れてほしくなければそれを実行しなければいいだけのことである。ただし、緊急停止ボタンの実装は国民の義務であるからそれを拒否することはできない、なに、選択権が与えられるだけだと思えばよろしい。凡そこのような内容であった。
俄には信じられない突飛なことであったが、この三人、誰しも記憶の喪失と言うものを体験していた。喪失を体験と言うとなんだかあやふやであるが、要するに、何歳までの記憶がまっさらで何もない、ということである。男は言うだけ言うとくるりと
後ろを向き自分の背中を指さして「このあたりにある」と右の肩甲骨の下側を示した。そしてそそくさと行ってしまった。女学生たちはお互いに変形した不安の形に得も言われぬ寒気を感じた。もしかしたらわたしたちはもっと別の人間だったかもしれない。喪失感とは違う、何か漠然と身につけたばかりのアイデンティティを揺さぶられるような気持ちで各々帰路についた。
さて冥子だが、もう十四歳になる。難しい年頃である。今日までのリセット回数は一回と同年代にしては比較的少ない回数で生きてこられたのは環境が良かったか、彼女が自然、そういった自体を避けてきたかは分からないが、兎に角平和なものであった。然るにリセット回数が頻繁に起こるのは、この中学生から高校生低学年の間の多少自我に目覚めて、そこで初めて見つけた価値観という雲のような宝石と、個性という甘く香る陥穽が強く誘惑してくる時期だから油断はならない。冥子が悪い遊びを覚えたり、親への反抗を行って、それが酷く本人を傷つけるものであれば、親は責任をもってボタンを押すべきである。そういった事情から親は一度だけ、冥子が小学二年生のとき、二階からハムスターを投げ捨てて殺してしまったことを記憶から消した。子供特有の残酷な好奇心からであったろうが、両親はこれはしこりになると判断してボタンを押したのであった。
冥子は勿論そんなことは覚えていない。でも今は覚えていないことが不気味であった。覚えていないだけで、わたしはもしかしたら生まれたばかりの弟を殺してしまったりしたのではないか、もしくは性的な暴行を受けるなどしていたのではないか。思春期の想像力は留まることを知らず、それはどんどん陰惨で残酷な出来事を次々に思い浮かばせるのであった。風呂上がり、鏡を二枚使って背中を確認したら確かに穴はあった。そしてベッドに入って暗闇になると、冥子は自分の喪失した記憶が巨大な腫れ物のように肥大して夜の目を閉じさせぬように瞼を痙攣させているのを感じていた。夜は長く、想像は走り、喪失は重く伸し掛かり、結局一睡もできなかった。
翌日は土曜日であったので学校はなく、カーテンの隙間から入る光が舞うホコリを煌めかせて朝であることを気づかせた。冥子は脳が水を吸ったようにパンパンに膨らんだように感じていた。頭蓋骨を内側から圧迫して、その圧力で頭は曖昧になり、しかし、肥大化した感覚が恰も脳の回転を加速しているように感じさせた。
朝ごはん、ベーコンエッグ、食パン、コーンスープ、冥子の好きな銘柄のオレンジジュース。父親はタブレットでニュースを確認しながら冥子に「おはよう」と言う。母親はにこやかにデザートにシュークリームもあることを教えてくれてた。嘘くさい。嘘くさい、嘘くさい。この家族には歪んが理由があってわたしの記憶を消したに違いない。冥子一夜の妄想で膨れ上がったブヨブヨの脳みそは家族を簡単に疑わせた。子供には「かのように」がない。物事は根本まで定義を突き詰めていく過程で、どこかで「~であることを仮定して」という前提が生まれていることに気づく。大人はその定義を様々な場面に活用して現実的というものを判断できるのであるが、子供はそういうものがない、際限なく根本まで疑う、この二人は本物の親ではない、そう思ったら止まらない。本物の両親は殺されて、偽物の親がわたしの親になりすましている。全てが曖昧だった、取り付く為の取っ手がどこにも見当たらなかった。だから冥子は考え続けた。
「どうしたの? 元気ないわね、学校でいやなことでもあった?」
(嫌なことがあったとしたらどうなのだ)
「心配ごとがあれば気軽に相談するんだぞ、お父さんたちは親だから何だって聞いてやる」
(問題を解決するためにどうするというのだ)
冥子は急に全部が敵に見えた。何か理由があればわたしの記憶を消そうとしているのだと思えた。
「背中の穴」と言った。両親の手が止まった。
「背中の穴がどうしたの?」
「わたしの記憶ってなんで小学二年生より前のものがないの?」
両親二人は目を合わせる。仕様警告、成人になる前に子供が背中の穴について知った場合、すべからく緊急停止ボタンを押すべし。次に目があったのは父と娘だった。冥子は父親の表情が変わったのを感じた。それはいつもの柔和なものではなく酷く硬いものであった。母親をに視線を向けるとそこにはいなかった。そして羽交い締めにされたのを感じた。
「ごめんね、冥子すぐ済むから」
「そのまま押さえておくんだ」
「何するの! 離して、離してってば!」
冥子はがむしゃらに暴れたが後ろの母親は頑なに彼女を離そうとしなかった、逆に彼女が暴れれば暴れるほど、危険性を確信するように力強く押さえつけるのだった。父親は用意した爪楊枝をもって冥子に近づいた、その瞬間であった、冥子はテーブルのナイフを逆手に持つと、勢いよく父親の目へ深々と突き刺した。
「ははは、ざまあみろ偽物! パパとママの仇だ!」
「きゃあああ!!」
父親は「あ」とも「え」とも付かない、兎に角曖昧な母音を口から吐き出すとそのまま倒れて動かなくなった。母親は近くの大きめの花瓶を取ると、冥子の頭を思い切り殴りつけた。するとぷっつりと冥子の意識が途切れたのである。
冥子が次に目を覚ましたとき、母親は病院のベッドの横に座って冥子の手を握っていた。その体温が暖かくて冥子はどこかホッとした気分だった。冥子の頭には縫い後があり、後ろの首元から学習用の注射型のケーブルが伸びている。
「ママ、どうしたの?」
「お父さんがね、気が狂ってしまって、あなたを殴ったの、それでお母さんあなたを守らなきゃと思って、お父さんを殺してしまったわ。ごめんね、あなたは頭の衝撃で何も覚えていないようだけれど、もう大丈夫よ、怖い思いをさせたわね」
「パパが?」
冥子は考えた、確かに父親は良く働く人で、色々ストレスを溜め込むような性分であったからあり得ることのように思えた。「ママが守ってくれなかったら今頃わたしはパパに殺されていたかもしれない」そう思うと恐怖をママへの愛情が溢れて涙が滂沱と流れた。
「ママはね、冥子が一番大切だから、パパがいなくなっても寂しくないわ。悪いパパなんていないほうがいいもの。これからは一緒に幸せに暮らしましょうね」
母親は彼女が好きな銘柄のオレンジジュースを注いだ。冥子は一口飲むと、グラスをサイドテーブルに置いた。
「ちょっと酸味が強くてあんまり好きじゃない、もっと甘いほうがいいな」
「そうね」と言って母親は泣いた。
【完】
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お題:ケーブル
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